心は広野をかけめぐる・詩に親しむ人
あっという間に5月も一週間が過ぎました。
連休中、1日だけ街中へ。
その日は10時半に電車に乗り、
11時に知人のグループ展が催されているギャラリー到着、
11時半には会場を後にして、12時から1時間ほど画材など物色。
14時前にはアトリエへ戻るという動き。
この4時間弱でぐったり。
うすうす勘付いていましたが、
えらく音や動きに過敏になっています。
毎日の通勤がなくなると人はここまで耐性が失われるものか…
このままでは野生に戻ってしまうでないか…!
やや愕然としています。
しかも30分は心のオアシス・本屋で息をついてこれですからね。
これでは先が思いやられるということで、
月2くらいは街へ出るように「月2オンモ大作戦」を半ば義務化しようと思います。
皆さん仕事以外でどのぐらい街中へ出られるのでしょう。
体はともかくも心は広い野をかけめぐっています。
絵と本ばっかりだとそうなっちゃう。
これ、子どもだと保護者に心配かけるパターンなのですが
何を隠そう、もう立派な大人なのです。
ある程度、自身の心と体の把握はできている。
よって心おもむくままに、かけめぐって良いときは良いのです。
最近読了したもので特に印象深かったものはこちら。
小津夜景さんの『いつかたこぶねになる日』
単行本では『漢詩の手帖』の副題がついたこちらのエッセイ。
まぁ素晴らしく端正なこと。
品よく少し風変わりな小津夜景さんの暮らしと視点、
そして数々の漢詩が連なり
時に親密に、時に遠く離れる読み心地。
詩を愛する人とはこういうものかと感じさせてくれます。
教養の深さにたまに置いてけぼりになる感じも、
自分と異なる人間の思索をのぞかせてもらっているようで心地よい高み。
何度も読み返すであろうなぁという一冊です。
エッセイ中の『はじめに傷があった』で
白居易の『観幻』を訳されているのですが、
これまた簡潔で馴染みやすい。
その訳とアルチュール・ランボーの詩『幸福』の一節、
また「水はどうして沸騰するか」をとっかかりにした
「傷をつくることでしか世界はあらわれない」という話の運び。
非常に味わい深いものです。
ご興味のある方はぜひに。
とはいえ漢詩に馴染みがなく、
書店で眺めたときも
「エッセイ部分だけでも素敵そうだ」という軽い気持ちでした。
漢詩って漢字ばかりで(当たり前)
外国語のスタイル、どうも敷居が高いんですね。
その点、日本の現代詩では
詩人さんの高度な表現においてけぼりにされても、
母国語だというだけで何か分かち合えた気になり気分良く読んでしまう。
そう、何を隠そう私もちょちょっと書くタチで
12歳からの詩が捨てられず書き溜まる一方。
現代詩と現代短歌(要は自由なスタイル)を気ままにやっています。
むかしテレビで見た「詩のボクシング」や、
webサイト「現代詩フォーラム」で真っ直ぐうたう人たちは
本当に格好良いものです。
詩を書くんです、というとやや「イタく」
絵を描くんです、よりも反応しづらい印象。
そんな流れを思い
そこまで最近書いていないことを思うと
まぁ言うほどのことでもなし、と話題にしないのですが
短い言葉で、遠く深くまでショートカットで飛んでいけるあの魅力。
そしてそれが自分とは別の人からもたらされたものだという驚き。
小津夜景さんのエッセイを読んで、
それらに親しみ愛してやまない人たちの
内省と教養の深さ、他者や自然への胸の開き方の大きさに
嬉しくなったこの頃です。
で、外出はいつするのかと。
今月末はすでに予定が3つほどあるので月2街中オンモはクリアーです。
(1つは東京、むしろ大丈夫だろうか)
しっかり心も体も筋力をつけ、個展の日を迎えたいものですな。
しかし今思うと
「心は広野をかけめぐる」の下敷きにした「夢は枯野をかけ廻る」。
これは「もう旅に出られぬ…!」という芭蕉の嘆きを含んだ句でした。
あらら。
がんばります(’∀')!
おまけ
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