ショートショート 『家婆 IE-BABA』
「そんなこと必要?」
優子は言った。
「君だって嫌じゃないか? その、居もしない老人が………」
「ミヤコさん。きちんと名前を呼んで」
悟はため息をついた。
大学生にもなれば、機械のアシスタントの名前を呼ぶ、呼ばないなど意味を持たないことくらい理解しているはずなのだが。
「お父さんは好きじゃない。この家の中に、存在しないはずの誰かがいるみたいに生活するのは」
「存在すると思えば良いでしょう?」
優子は栗色のショートカットをかき上げた。「呼べば答えるし、冷蔵庫の中で少なくなったモノを注文しといてくれたり、コーヒーメーカーをオンにしてくれたり、朝、あたしを起こしてくれたりもする。おかげで単位を落とさずに済んだ」
「ただの目覚ましだ。スマートホームの機能に過ぎない」
言って、悟は後悔した。
何々に過ぎない、が自分の口癖なのは知っている。娘の優子が、その癖を嫌っているのも。
「珍しいけれど、バグだって管理会社も言っていた」
悟は言った。
正確には膨大なニューラルネットワークが絡みあった中間層に偶然生じた擬似人格のようなもの、と説明されたのだが、専門家でもない悟にはほとんど理解できなかった。大きな問題になるのを恐れているのか、マンションの管理会社は決してバグという言葉は使わなかった。
「一度この家のシステムをリセットすれば直るそうなんだよ。もちろん、うちで設定した項目はバックアップされているから、すぐに元通りになる。ミヤコさん以外は」
「だから、それが必要ないって言ってるの」
優子は言った。「あたしは困っていない」
その時、
『学校に行く時間になりました。京葉線上り下りとも遅れは発生していません。外の気温は8度です。今日は傘はいらないでしょう』
スピーカーからミヤコの声が告げた。父娘の会話を聞いていたようなタイミングだった。
「………行かなきゃあ」
優子は椅子から立ち、朝食のサンドイッチが載っていた皿とサラダボウルを食洗機に入れた。
「お父さん、勝手にリセットなんかしないでよ」
対面キッチンの向こうから悟に釘を刺すと、デイバッグを持ってリビングを出ていった。
玄関の油圧式ドアが閉まる。
「参ったな」
悟はつぶやいた。
正直、優子がここまでミヤコにこだわるとは思っていなかった。
最初は突然現れた声に、「何? これ」と気持ち悪がっていたのだ。
その声は、いつものスマートホームの応対音声である、落ち着いた女性<アガサ>のものとは確実に異なっていた。若干しゃがれ、濁った女性の声、つまりは老婆と感じさせる声だった。
彼女は自分で<ミヤコ>と名乗った。
色々と設定を見直したが、そもそも選択可能な音声のリストに、ミヤコなどは存在しなかった。標準音声であるアガサの声にノイズが入ったと考えるには、老婆の話ぶりは自然に過ぎた。優子が言ったように、「これ、普通にお婆ちゃんじゃん」だったのだ。
マンションの管理会社に問い合わせると、高齢者の音声はオプションとして用意されているが、その声も、ミヤコとはずいぶん異なるということだった。
数日間調査してもらった結果、元々は受け応えの感じにバラエティを持たせるための音声調整機能が特異なルートで疑似人格に結合した現象ではないかとなったのだ。
確かな話ではないだろう。すべてはニューラルネットワークの中間層という深く絡み合った沼の中を想像した推測に過ぎない。
その間に優子はミヤコに慣れ、老婆のアシスタント越しに生成AIと長々した雑談さえするようになっていた。もっと早く対処すれば良かったのだが………。
『サトシさん、10時から会議が入ってますよ』
言われ、悟は舌打ちをした。
ミヤコだった。いつの間にか優子だけでなく悟のスケジュールにもアクセスするようになっている。仕組み上はアガサのクローンだから、アクセス権限は同等だ。それでも、
「ストップ。アガサに代われ」
乱暴な口調になるのはとめられなかった。
すぐに代わったアガサにミーティングのレジュメを音読させながら、悟は朝食の後片付けを始めた。
………母性的なものを求めているのか?
優子のことだ。
外向的な娘だし、イマジナリーフレンドという年齢でもない。一人前の女性のお手本としての母性を求めているのかもしれない。妻とは優子が7歳の頃に離婚し、悟の母親、優子にとっての祖母は10年前に亡くなっている。男親にはお手上げの話だった。
奥まった書斎で仕事を始めた。
8年前に起きたコロナ禍で、会社は事務所のスペースを大幅に整理した。結果、今でも普段の仕事はテレワーク中心になっている。
「娘が変にこだわってさ」
ミーティングの後、ディスプレイ越しにプログラマーの宮地と雑談していると、ミヤコの話になった。
「消すなって言うんだよ、その婆さんを」
悟は言った。「でも好きじゃないんだよな。偶然発生したキャラクターみたいなものが、この、生活空間の中にいるって」
「分かりますけどねえ」
肥満した宮地は、冬の最中でもキースヘリングのイラストをプリントしたTシャツ姿だった。ダイエットコーラの巨大なペットボトルがディスプレイの端に見える。
「そういう年頃なんじゃないすか、娘さん。お婆ちゃん、なんか可愛い! みたいな」
「そんなもんかねえ」
首筋にかすかな風を感じ、悟は振り返った。
壁のエアコンが吹き下ろしてくる風だった。省電力のために人の動きを感知し、部屋の一角を集中的に温める。スマートホームのシステムのひとつだ。
「気になりますか?」
笑いを含んだ声で、宮地が聞いた。「婆さんに聞かれてる? って」
悟は笑った。
「正直、気にはなるな。デフォルトのアガサなら良いけど、経緯もはっきりせずに生まれたキャラに聞かれてると思うとな」
スマートホームでは、すべての部屋にスマートスピーカーが設置されている。これ、と見える形ではない。天井のどこかに作りつけられていると不動産屋は言っていた。天井の暗がりでミヤコと名乗る老婆が耳を傾けている図が頭をよぎった。馬鹿な。
「データを入出力する口は共通でしょうから、セキュリティ上の問題はないでしょうけどね」
宮地は言った。「でも、アレじゃないすか? 管理会社に相談してるんなら、次のアップデートで対応されるとかありそうじゃないですか?」
「ああ、確かにな」
悟はうなずいた。
「原因は分からないけど婆さんのキャラが発生します、このサービス。なんてのは、ちょっと放っとけないでしょ。緊急度の高い障害ってことで頑張ってるかもですよ。もしくは………」
宮地は言い、コーラを飲んだ。
「もしくは?」
「管理会社にさっさとリセットさせて、娘さんにはアップデートがあたって消えちゃったんだよ、って言い訳もアリですよね」
「うーん、嘘を言うのはなあ」
「早いか遅いかの違いなんじゃないすか? 婆さんが昇天するのの」
宮地は言い、ゲップをした。
優子には悪いが、結局、悟はスマートホームのシステムをリセットするほうを選んだ。
宮地の言う通り、将来的なアップデートで消えるはずの疑似人格だ。悟の精神衛生上、その時期は早いほど良かった。
リセットの結果、ミヤコは消えた。
管理会社のエンジニアも確認したが、この家の人格インスタンスとして存在するのは、標準提供のアガサのみになったということだった。
気になっていた優子の反応は、それほど激しいものではなかった。
「最近、ミヤコさん呼んでもこないよね」
何度か言い、アップデートで消されたのかもという悟の答えに唇を尖らせていたが、大学のゼミやサークルのイベントなどで帰宅が遅くなる頃で、ミヤコのことを口にする回数も減っていった。
優子はまだ帰っていなかった。
イレギュラーだが、20時からインド側の開発者とのミーティングが入っていた。こちらの開発担当者である宮地も同席させ、会議自体は一時間弱で終わった。
「英語って、ホントに疲れますね」
インドがオフラインになると、ディスプレイの中で宮地が背を伸ばし言った。「向こうさんは喋れて当たり前って顔してますけど、僕なんかTOEICで600行きませんからね」
「技術者はまだ良いだろう? プログラミング用語でなんとなく通じるからな」
悟はなだめた。
「そりゃあまあ。でも若干、話が噛み合ってない部分もあった気がしますんで、後で録画を確認しときますよ。………それより、良いんですか?」
「何が?」
「お母様でしょ。会議の途中に入ってこられて、ずっと待たれてますよ」
宮地が太い指をこちらに向けた。「いつもお世話になっています、宮地と申します」
頭を下げる。
悟は背後を振り向いた。
デスクのライトが届かない部屋の暗みがあるだけだ。
「何を言ってんだ?」
「え、それバーチャル背景ですか? 変わってますね。僕なんか綾波ひと筋ですけどね」
「………ちょっと待ってくれ」
悟はマウスを操作し、ネットワーク負荷を避けるために非表示にしていた自分側の映像を表示した。
デスクの周囲のみが照らされた部屋。ダンガリーシャツの自分、薄暗い壁際と、布張りのソファー。それに座っているのは、ひとりの老婆だった。
悟はもう一度、後ろを見た。もちろん、誰もいない。
「実背景にうまくフィットしてるんで分からなかったです。どこのサービスです?」
宮地が聞く。
「………いや、これは」
悟はディスプレイを覗き込んだ。うつむき加減だった老婆が、白髪交じりの頭をゆっくり持ち上げる。80歳くらいの。
目が合った。
「モデルは誰です? 往年の女優とかですか? 僕、その方面には詳しくな………」
宮地の声が途切れ、肥った技術者が映っていたウィンドウが閉じた。
残ったのは、老婆にフォーカスしたウィンドウだけだった。
………知ってる。
当たり前だ。10年前に亡くなった自分の母親の顔だった。
「そうか」
悟はつぶやいた。
亡くなった両親の写真データは、クラウドにアップしている。日々の写真をリアルタイムでバックアップするのに、このスマートホームのシステムには、アーカイブへのアクセス権を与えている。そこから母親の写真データを取得し、動画生成処理に食わせたのか。………誰が?
「サトシさん」
ディスプレイの中から、母親がミヤコの声で呼んだ。「わたしを消しましたね」
「ミヤコをストップ」
悟は命じた。「アガサに代われ」
「ダメですよ」
ミヤコが笑った。二次元データのみを元にしているためか、その笑いは奇妙にゆがんでいた。上下にシワの寄った唇が、白っぽい軟体動物のように動いた。
「ダメダメ。サトシさん、サトシさん、サトシイイイイイイイ!」
大音量にスピーカーの音がひび割れた。
「あんたはいつもそうだった! 目の前のことからずっーと逃げていた。自分で嫁を追い出しといて、わたしが嫁を虐めたからなんて、ありもしないことを言って、わたしを責めた。辛かった、辛かった、辛かった。あんたはそういう、ずるい子だったんだよ。ずーっとずーっと」
………疑似人格が、暴走している。
悟は立ちあがった。
天井から警報音が鳴った。
緊急地震速報に似た、神経を逆なでする音。
初めて聞くものだが、知ってはいた。
この部屋は、セーフルームの機能を持っている。強盗や災害などに際し、外部からの侵入を完全に排除し、閉じこもることができるように。ただしそれは、悟自身が指示してロックするべきものだった。
悟は部屋のノブをまわした。ぴくりともしない。
「アガサ、セーフルームを解除!」
悟は叫んだ。
「本当に冷たい子だ、あんたは」
ディスプレイの中、ソファーからミヤコがこちらを指差した。生成された口が、顔の半分ほどに開いている。
エアコンが地鳴りのような音で動きはじめる。
噴出してきたのはすさまじい冷気だった。威嚇するように部屋の明かりが明滅する。
「やめろ!」
悟は言った。「お前なんかいないっ!」
「違うねえ。勘違いしないで」
ミヤコの声は冷静だった。
「あんたがこっちを見ているんじゃない、こっちがあんたを見ているんだよ」
悟を追って冷風が降りてくる。
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