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ディズニーが 「差別する心」 に気づかせてくれた話


小さい頃から愛してやまない、ディズニーの「リトル・マーメイド」。

その実写化リメイクが公開されました。

私はまだ観に行けていないのですが、今回は実写版アリエルをめぐる私の思いと、ここ一年ほどの気づきをまとめてみたいと思います。

いつものように、ネットの海に投げ入れるメッセージボトルのようなイメージで書きました。どなたかと共有できる何かがありますように 🐠𓂃𓈒𓏸

(本当にめちゃくちゃ長くなってしまったので、気になるところだけでも覗いてみてもらえると嬉しいです……!笑)


はじめに

まずはとっても個人的なお話から。前提というか背景をふたつ書いてみます。


①「リトル・マーメイド」への思い入れ

「リトル・マーメイド」は、多分人生でいちばん観た映画の一つです。

もし生まれてから今までの映画鑑賞をすべてカウントしたなら、本作か「ジュラシック・パーク」どちらかが最多になるはずです。笑

物心ついた頃には「パート・オブ・ユア・ワールド」を口ずさんでいました。

人魚に憧れたあの頃から、大人になった今も変わらず、私にとって宝物のような作品です。


𓇼


② 卒論のテーマ

大学では、社会福祉学を専攻していました。

人が他者を差別してしまう心に関心があり、そういったテーマで卒論を書きました。

長くなってしまうので内容は割愛しますが、とくに前半部分では、「差別はいけないという厳重な規範」と「けれど実際には他者を差別してしまう人間の心」という矛盾にこだわりました。

人は(たとえそうしたくても)差別と無縁に生きていくことなどできなくて、「普通の」「善良な」人も、気づかぬうちに他者を差別する側になっていることがある。そういった内容でした。

規定文字数1~2万字程度のところ、4万字を超える論文をそのまま提出することになりました。笑 それくらい熱意をもって取り組んだ研究でした。


以上のことを踏まえ、本題に入ります。


* * *


「私の知ってるアリエルじゃない」


実写版アリエルの主演女優が発表されたときの正直な気持ちは、「なんで……?」でした。

赤い髪に白い肌のアリエルが、茶色い肌でドレッドヘアの女性になっていたから

ディズニープリンセスが実写化されるのは、アリエルが初めてではありません。シンデレラもベルもジャスミンもムーランも…… アニメーションに寄り添ったキャスティングがされていたのに。

どうしてアリエルだけ、ポリコレを意識した改変をしてしまったの……? と、もやもやした気持ちになりました。


𓇼


ポリティカル・コレクトネス、いわゆるポリコレという言葉が、本来の意味に加えどこか揶揄するような意味合いで使われるようになったのは、ここ数年の話だと思います。ポリコレ批判なるものを、最近よく見かけます。


たとえば、同じくディズニーの「ストレンジ・ワールド」。

私はこの映画がとっても好きでした。

とくにキャラクター設定。あらゆるアイデンティティが「ただ、そうある」という前提で描かれていることに感動しました。

たとえば主人公の息子がゲイであること、冒険の指揮官が女性であること、わんちゃんに片脚がないこと…… すべてとくに深掘りされることもなく「あたりまえ」として描かれていました。

こんな価値観に囲まれて育った子どもたちが大人になったとき、世界はどう変化しているんだろうと、なんだか希望をもらえました。

一作品としても面白く(これは個人の好みにもよるとは思います)、この作品がポリコレを理由に批判されているということは、二重三重の意味でショックでした。


𓇼


一方、同じくポリコレで論争になっていた「ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪」。

黒人のエルフはありなのか」というのが大きな争点の一つだったと思います。

私はまだこのドラマを観られていません。映画は大好きですが、大人になってから二周しただけで原作も未読です。なのでここではこれ以上詳しく書きません。ただ、「ストレンジ・ワールド」の場合と違い、こちらの批判理由にはある程度納得がいきました。

私も、実写版「リトル・マーメイド」に対して同じような気持ちを抱いていたからです。


両者の共通点は、何なのでしょうか。

言葉を選ばず表現するなら、「どうして私の大好きな◯◯の世界観を壊してまでポリコレをごり押しするの?」だと思います。

あるいは「これは私の知ってる◯◯じゃない」。


𓇼


黒人のアリエルにもやもやがおさまらなかった私は、Twitterを覗いてみました。

(心が嵐の中に放り込まれたようにぐちゃぐちゃになってしまうのがわかっているから、普段は見ないようにしているのがTwitterです。でも何かがあったとき、みんなの生の声が知りたくてつい覗いてしまうのもTwitterです……笑)


そこに、実写版アリエルを受け入れられない人はレイシストだ、という発言を見つけ、「レイシスト(人種差別主義者)」という言葉の強さにショックを受けました。

どうしてそこまで言われなければいけないの、と反感も抱きました。


𓇼


たとえば、非白人であるティアナやモアナが白人女性を主演に実写化されていたとしても、私はきっと受け入れられませんでした。

(もちろん、白人を有色人種に変えることと、有色人種を白人に変えることには大きな違いがあります。ただ、ここで言いたいのは、一ディズニーファンとしての気持ちの話です)

あるいは、新しいアリエルが黒人ではなくアジア人、私と同じ日本人であったとしても。金髪の青い目をしていたとしても。やっぱりいやだったと思うんです。

別に「黒人であること」がいやなわけではないのです。「私の知ってるアリエルじゃないこと」に違和感があって、受け入れられなかったのです。


𓇼


また、ポリコレに配慮した人魚姫の物語をつくりたいのなら、別にアリエルでなくたっていいのにと思いました。どうして長く愛されるイメージを壊してまで描くのかがよくわからなかった。

「みんなの大好きなドラえもんが、実写化されます!ってなってピンク色になっていたら、誰だって受け入れられないでしょ?青がよくてピンクがだめという話ではないの。ドラえもんは、青色なの。どうしても青以外の猫型ロボットのお話をつくりたいのなら、ドラえもんじゃなくたっていいじゃない」そんな感じです。


少なくとも私は、ポリコレに配慮された作品が嫌いではありません。むしろ「正しいこと」だと思っていました。くり返すようですが、ただオリジナルが改変されてしまうことに強い拒否感を覚えていたのです。

そういうオリジナルへの愛ゆえの思いを、どうしてレイシストという強い言葉で批難されなくてはならないのかも、よくわかりませんでした。

(余談ですが、ネット上ではついすべての言葉を自分自身に向けられた言葉として受け取ってしまうという問題もありますね……)


𓇼


そんなことを悶々と考えながら、でも、胸のうちにはどこかざらつくものも感じていました。

「私はドラえもんを、青色だからドラえもん、と認識しているのか……? 青色という特徴は、ドラえもんにとってどこまで欠かせない要素なんだろう……? そもそも猫型ロボット——— ではなく人を、色で区別するってどうなんだろう……?」


思い出したのは、「はだいろ」という表記をやめた文具メーカーのこと。「美白」という表現を改めた化粧品メーカーのこと。

いつかどこかで見かけた、「色白だね」という言葉を事実ではなく褒め言葉として受け止め「そんなことないです〜」と返すことへの違和感の話。

私自身、どうしたって「透き通るような白い肌」や「すっと通った鼻筋」、「小さな顔」といった白人らしい要素に惹かれ、憧れてしまうこと……


「私は本当に、心の底から本当に、青よりピンクが劣っているわけではないと信じられているのだろうか……?」


𓇼


いろんなことをぐるぐる考えていくうちに、ふと気がつきました。

人を肌や髪の色で区別するという、そもそもの前提からまちがっているのでは……?

「白人至上主義」的な価値観が、たしかに私の中にも存在するのでは……?

急に、自分がとんでもない差別主義者になったような感覚を味わいました。まさにこういうことを人種差別と呼ぶのではないかと、ひどく落ち着かない気持ちになりました。


* * *


悪者にはなりたくないという気持ち


こういう落ち着かない気持ち、足元がぐらぐらと揺れる感覚には覚えがあります。

高校生の頃、初めて映画「オアシス」を観たときもそうでした。(2002年の韓国映画です)

「オアシス」は、30歳を目前に出所したばかりの男性ジョンドゥと、脳性麻痺により体の不自由な女性コンジュのラブストーリーです。

きっと多くを考えさせられるだろう、感動するだろう、と期待していた私を動揺させたのは、ジョンドゥとコンジュのリアルな描写でした。

体をゆらゆらさせながら道ゆく人にタバコをねだるジョンドゥに、私は不快になりました。女優さんのもとの顔立ちもわからないほど顔や体を硬直させたコンジュから、何度も目を逸らしそうになりました。

物語の中でジョンドゥやコンジュを排除する人々に憤りながら、でも、私にかれらを責められるのだろうかと思いました。

ふたりに冷たい視線を向ける人たちと、画面のこちら側でたしかな不安感を抱いている私、何がどう違うというのでしょう

なんだかとてもショックでした。

映画を観終えてからもずっと、私はジョンドゥとコンジュのことをどれほどまっすぐ見つめられたのだろうか…… と考え続けていました。


𓇼


障害や性別、性的指向、出自、人種、宗教…… どんな理由であれ、人が差別されることはあってはならない。そう信じていたから、福祉学科に進学しました。

入学後も、「福祉」というのは「すべての人にとって幸福な社会」という意味なのだと教わり、胸がいっぱいになりました。それこそ私の理想とする社会だと。

そんな私が、誰かを差別する側になるなんて。

そのことに、気づいてすらいなかったなんて。

これは、衝撃的な発見でした。


𓇼


いくつか、分かり易い文章を引用してみます。

 市民啓発において、「差別をしないこと」が要請され、「差別をしない存在、許さない存在」になれという声がうんざりしてしまうほど、反復される。しかし問題は、その啓発の前提となり、私たちが「あたりまえ」のように思い込んでいる差別をめぐるイメージや解釈なのである。それは硬直した差別ー被差別の二分法であり、「とくにこれまで厳しい差別を受けてきたこともないし、したこともない。だからその意味で私は “普通の人間” である。差別に関連するのは、差別を受ける何らかのわけがある人々であり、差別をするのは、そんなひどい行為を平気で行ってしまう何かを持っている “普通でない” 人間である」という推論に象徴される。
 つまり、差別は、 “あの人たち” の問題であり、受ける人もする人もまとめて自らの生活世界の “向こう岸” へ追いやってしまう考えであり、 “「差別はしてはいけない」という規範を十分了解している「わたし」や「わたし」と同じような人” が差別などするはずがないという素朴ではあるが強力な思い込みなのである。

 好井裕明著『差別原論
〈わたし〉のなかの権力とつきあう』178頁

 誰でも(普通)——いかに合理的理由からであろうと——他人から不快に感じられたくないし、そう感じられると傷つく。しかし、われわれは事実としてある人に——合理的な理由からあるいは非合理的理由から——不快を感じてしまうのであり、それはどうすることもできない。(中略)差別論の難しさは、次の(矛盾ではないが)対立する二命題によって示すことができる。
 ⑴差別論は個人の快・不快には立ち入らない。
 ⑵だが、現実には、差別意識は個人の快・不快の延長上に存在する。
 あるいは、次のように言い換えてもいい。
 ⑴個人の快・不快を統制してはならない。
 ⑵だが、不快の無制限の発露を許してはならず、何らかの統制をするべきである。

中島義道著『差別感情の哲学』34頁

 差別感情に向き合うとは、「差別したい自分」の声に絶えず耳を傾け、その心を切り開き、抉り出す不断の努力をすることなのだ。

同、211頁

 障害者問題は、私たちの社会の問題の中でも、一番見たくない部分が集約される分野です。だからこそ触れられにくく、避けられるのでしょう。

栗田季佳著『見えない偏見の科学
心に潜む障害者への偏見を可視化する』159頁


最近よく考えるのですが、人は「加害者」になることを本当に嫌う生き物なのだと思います。

よく、やった方は忘れてもやられた方は忘れないとか、足を踏まれた痛みは踏んだ側にはわからないとか言われたりしますが、人は案外、やられたことよりやってしまったことの方がキツイんじゃないでしょうか、本質的には。だから記憶をつくり変えたり、無かったことにしたり、見て見ぬふりをしたりしてしまう。

「誰かを差別する」ということも同じです。

本当は、日々の生活の中で重度の障害がある人を目にすると、どういう態度が「正解」なのか不安に感じてしまうのに。つい目をやってしまったり、あるいは不自然に目を逸らしたりしてしまうのに、私は差別などしないと思い込んでいます。

(もちろん、差別くらいするだろうと開き直るのはそれ以前の問題です)

社会に、良心に、差別はいけないということを何度も教わり、了解もしているから、それなのに誰かを差別的まなざしで見つめてしまう自分がいることを、受け止めきれないのだと思います。誰も「悪者」になどなりたくないから。


そういうことはすべて、大学時代、相当突き詰めて考えたはずのことでした。それこそ4万字以上も書いてしまうくらいに。笑

「差別する心」から目を背けてしまう、誤魔化そうとしてしまう自分がいることは、知っていたはずです。それなのに、です。それでも、です。


𓇼


あとから思ったのは、自分の中に「白人至上主義」的価値観があったとして、その差別の対象となるのは(黒人だけでなく)アジア人である自分自身をも含むから、より気づきにくかったのもあるのかもしれません。

自分のこともまとめて下に見るのなら、あまり良心の呵責を感じずにすみます。

たとえば「黒人であることがいや」なのと「白人でないことがいや」なのとには、心理的な負担の意味でも大きな違いがあると思うのです。

また、ほんの数泊の旅行くらいしか海外経験のない私には、アジア人であることで酷い差別を受けた経験もありません

もちろん、黒人に対してヘイトの気持ちがあったわけでもありません。むしろ映画や小説などを通して、人種差別に立ち向かう黒人の歴史に何度も感情移入してきました。

ただ、人種差別というものを「本当の意味で」肌で感じ、自分も関わる問題として考えたことはこれまでなかったのかもしれません。


𓇼


それから、幼い頃から周囲によって植え付けられてきた価値観というのも、本当に大きいものだと思いました。

それこそ肌の白いディズニープリンセスに憧れて育ってきたから。「色白だね」と周囲の大人たちに褒められて嬉かったから。いろんな広告やコンテンツを通して「美しさの定義」を吸収してきたから……

注意深く立ち止まって考えないと気づけないほど自分の中で「当たり前」になった思い込みや刷り込みが数多くあるのだと痛感しました。それは、肌の色や人種にかぎった話ではありません。

自分の中にある固定観念のもつ力を思いました。


* * *


「愛こそすべてを乗り越える」


さて。話を少しもどして。

Twitterで「レイシスト」という言葉の強さにショックを受け、ぐるぐると思考の沼にはまっていた私を救ってくれたのは、一つの動画でした。

それは、新しいアリエルを目にした黒人の子どもたちの反応を集めた動画です。

ある方が、議論を白熱させて喧嘩になってしまう前にみんなこれを見てほしい、と紹介してくれていました。


これを見たとき、ああ、もう、どうでもいいなあって思っちゃったんです。笑

私のアリエルに対する思い入れとか、私がどれほど違和感を感じてしまったかとか、もうどうでもいいや。

なんだかとても感動して嬉し涙を流しながら、この子たちがこんなにも喜んでいるのなら、それだけで大正解なのでは? と思いました。

ディズニーは、子どものためのものです。

(厳密には、かつて子どもだったすべての大人、今も大人のなかに眠るすべての子どものためでもあるとは思いますが)

すでに大人になってしまった私の思い入れや愛より、大切な何かがきっとあるはずです。

もしくは、かつて私がアリエルからたくさんの夢と希望をもらったように、この新しいアリエルがすでに子どもたちにとってのそんな存在になっているのではないか、と。

他の新しい人魚姫ではなく、「アリエルが」黒人であることの意味も理解できました。

あの大好きなアリエルが、私たちと同じ肌の色をしている! そのことにこんなにも大きな意味があるのだと、子どもたちに教わった気がします。


𓇼


少し長いですが、引用させてください。

 1947年、ケネス・クラークとマミー・クラーク(1947)がおこなった人形実験は、ごく幼いころから内面化された偏見の効果を、非常に生々しく見せてくれる。実験者は、3歳から7歳の黒人児童の前に、白人の人形二つと有色人種(茶色い肌)の人形二つを交互に配置した。そして、次のような質問をして、人形の中からひとつを選ぶように言った。
 「持って遊びたい人形を教えて」
 「いい人形を教えて」
 「悪く見える人形を教えて」
 「きれいな色の人形を教えて」
 多くの黒人児童が白人の人形を好んでいた。黒人児童の67%が、白人の人形で遊びたいと答えたのだ。児童の59%が白人の人形を「いい人形」として選び、60%が白人の人形の色がきれいだと答えた。一方、黒人児童の59%が有色人種の人形を「悪く見える人形」として選んだ。白人の人形が「悪く見える」と答えた児童は17%、残りの24%は無回答か「わからない」と答えた。
 実験者は最後に、こう質問している。
 「自分と似ている人形を教えて」
 この質問に、児童の何人かは泣きだしてしまった。自分自身を否定したという苦しさとジレンマを感じたのである。ある児童は、自分に似た人形として有色人種の人形を選び、こう弁解した。
 「日焼けして、顔がめちゃくちゃになったんだよ」

キム・ジヘ著、尹怡景訳
『差別はたいてい悪意のない人がする』81頁


子どもたちが上記のように感じてしまうのには、あらゆる多元的要因があるはずです。どこか一つにその原因を押し付けることは不可能です。

ただ、(それこそ私が白人のプリンセスに憧れてきたように)かつてのディズニーにも、そうした人種差別を助長させた責任がきっとあります。

だからこそディズニーは今、新しい価値観を懸命に広めているのだと思います。

そして、どんな物事も、価値観の変化が訪れる過渡期には、混乱や議論がつきものです。やっぱりちょっと強引にでも、変わっていかなければならないのだと思います。

私のような、古い価値観にしがみついてしまう大人をときに置き去りにしたとしても

あるいは、みんなの大切にしている世界観をときに揺るがしてしまおうとも(人の生み出したものは、作品であれ何であれ、いずれ何らかの形で変わってしまう、失われてしまうのかもしれないなあとも思いました)。

そう考えると、それこそ「ストレンジ・ワールド」を観たときに感じたような、この価値観を当たり前として育った世代が大人になったとき、世界はどんなふうに変化しているのだろうという希望を感じました。


𓇼


「レイシスト」という言葉や複雑な議論に対して頑なになっていた私の心が、子どもたちの嬉しそうな笑顔を見てあっというまに解けてしまったこと自体も、とても興味深いことでした。


思い出したのは、マザーテレサの言葉です。

私は反戦運動には参加しません。平和集会になら行きます

この言葉の真意や、マザーテレサ本人の意図ははっきりとはわかりません。なのでここではこれ以上掘り下げませんが、私は以下のように受け取っています。

この世には、突き詰めれば「愛」と「怖れ」しかなく、人間のあらゆる言動は、すべてどちらかを動機にしている。そして、本当の意味で「愛」より強いものなんてこの世に存在しない

そのことを、あらためて体感した出来事でした。


𓇼


私は、劇団四季のミュージカル「リトル・マーメイド」も大好きです。

とくにフィナーレのこの歌詞が、本当に、本当に大好きなんです。

愛こそ すべてを 乗り越える
今日から ふたりは ひとつに
手を取り 輝く明日へ 歩きだす
今こそ ふたりの 新たな旅立ち!
青い空の下(もと)で 二つの世界が今
手を携えて 結ばれる! 

「もしも(リプライズ)/フィナーレ」より


今回の実写版アリエルをめぐる私のいろんな思いも結局、ここに行き着くような気がしました。

愛こそすべてを乗り越える

ちょっと綺麗事にきこえるかもしれない、あるいは感情に流されていると思われるかもしれないけれど、私にとっての真実はそうです。

それから、時代によっていろいろな変化を重ねながら、それでもディズニーが描いてきたのはいつの時代も変わらず愛や勇気、信じる心なんだよなあって。そこはずっとずっと変わらないんだよなあって、とても幸せな気持ちになりました。

だから、ディズニーが大好きです。

いつだって大切なことを思い出させてくれて、ありがとう。


* * *


私にとって 「本当の理想」 とは?


どこからどこまでが「差別」なのかわからない、自分の中の差別意識や固定観念と向き合うのはとても難しい、変化についていくのは大変だ……

そんなふうにいろいろ混乱していたとき、ふと思ったことがあります。

それは、じゃあ、私にとって「本当の理想」とはどんな世界なのだろう? ということ。

◯◯に向くのはこういう出自やアイデンティティを持つ人だ」と決められた世界なのか。それともそういった縛りはなく、誰もが自由に自己を表現できる世界なのか。誰もが、なりたいと思えばアリエルになれる世界なのか。

答えは自ずと見つかりました。

私なら、肌の色や人種、出自、その他あらゆるアイデンティティに縛られることなく、誰に咎められるでもなく、みんながのびのび好きなように生きられる未来を選びたいです。

究極の理想論かもしれませんが、綺麗事ではありません。


𓇼


また、正確には「肌の色なんて関係ない、みんな同じだ」ということが言いたいわけでもありません。違いはたしかに存在します。世界は本来カラフルな場所だと思っています。

ただ、その「違い」というのが、文字通り「みんなそれぞれ違うよね」という、それ以上でも以下でもない状態が理想なのです。上下、優劣の価値を挟むのではなく。

そして、本当の意味で「アリエルは赤い髪で肌の白い女性なんだ!」という主張が通るのは、そんな時代が到来した後の話ではないでしょうか。

今はまだ、目前にある先入観や固定観念、機会の不平等さなどを直視し、「肌の色に関係なく誰でもアリエルのようになれる機会を与えられるべきだ」を浸透させていく段階なのだと思います。

ポリコレに対し、これだけいろんな意見や感情が渦巻く今の状況こそ、その証です。


𓇼


それから、こちらもふと思ったこと。

もし、宇宙人が本当に存在したとして、かれらが蛍光ピンクの肌を持っていたとします。

すると、かれらはきっとこう言うはずです。
「黒に近い茶色だろうが黄味がかっていようが真っ白だろうが、みんな似たり寄ったりのベージュ系だろ!俺たちの鮮やかな美しいピンク色に比べたらどれも変わんね〜よ!」って。笑

ちょっとおかしな想像ですが、そんなふうに考えてみると、実はみんな大して違わない地球人だもんなあと、なんだか自分の中ですとんと納得できました。

もちろん、その中にも違いがあって、そういう微妙な差異にこだわってしまうのが人間なのかもしれませんが、そんなふうに想像すると、何より自分自身のことも楽にしてあげられるのではないでしょうか。


𓇼


あとから読み返すととんでもなく未熟な点も多々見つかるかもしれませんが、少なくとも以上が今の私の考えです。


* * *


おわりに


映画館の予告で実写版アリエルの歌う「パート・オブ・ユア・ワールド」が流れたとき、胸がいっぱいになって少し泣いてしまいました。


わあ、すごい〜〜ちゃんと私の知ってるアリエルだ〜〜〜😭 
となりました。

その歌声、可憐さ、内に秘めた熱いもの……。

本編はまだ観に行けていないのですが、少なくとも、そんなふうに思わせてくれる魅力がこの短い動画からもたしかに伝わりました。

それからやっぱり、私の見方はとっても偏っていて狭いものだったんだなあとも思いました。

字幕はもちろん、吹き替えでも観に行くつもりです。とっても楽しみにしています。


𓇼


最後に、最近読んで心に響いた言葉をいくつか書き残しておきます。

私たちの社会はほんとうに平等なのか。私はまだ、私たちの社会がユートピアに到達したとは思えない。私たちはまだ、差別の存在を否定するのではなく、もっと差別を発見しなければならない時代を生きているのだ。

キム・ジヘ著、尹怡景訳
『差別はたいてい悪意のない人がする』41頁

固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心を持つことも、きわめて容易なことだ。だれかを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない。

同、65頁

 だれもが平等を望んでいるが、善良な心だけでは平等を実現することはできない。不平等な世界で「悪意なき差別主義者」にならないためには、慣れ親しんだ秩序の向こうの世界を想像しなければならない。

同、219頁


𓇼


こんなにも長くなってしまって、はたしてここまで読んでくださった方なんているのかなとは思いますが。笑

note はいつもメッセージボトルのようなイメージで書いているので、この文章もいつかどなたかの目に留まることがあれば嬉しいです💐

もし!もしも!ここまで全部読んでくださった方がいたのなら、本当にありがとうございます。とっても嬉しいです😭


そして、もしも、新しいアリエルをまだ受け入れきれない方がこれを読んでくださったのだとしたら。最後にひとことだけ付け加えておきます。

新しい実写版アリエルが誕生したからといって、私たちの大好きな赤毛のアリエルがいなくなってしまうわけではありません。そのことを、(私自身のためにも)あらためて言い添えておきます。


𓇼


私の中で凝り固まったものに気づかせてくれたディズニーと、大人になってからもいろんな気づきを与えてくれる「リトル・マーメイド」に、心からの感謝と愛を込めて。

いつか、「あの頃私たちはとっても未熟で野蛮だったね」と笑い合える世の中になりますように。



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