見出し画像

親ガチャも国ガチャも単なる言い訳で、あるのは"時代ガチャ"だけですよね

三遊亭円楽の復帰を喜ぶnoteを書いています。ヘッダ画像をお借りしています。


品質や価値、市場

職人とは賞をもらえばもらうほど、褒め称えられれば褒め称えられるほど、価値が世間に認められれば認められるほど、同時に二度とそれ以下の品質は提供できなくなるという恐ろしさとの戦いが始まることになる。

落語だけじゃない、職人と呼ばれ名人と呼ばれ門を形成する人々はみんなそうなんです。上達すればするほどそういう不可視のプレッシャーに晒されることになる。

その職能のジャンルが長い歴史を持っていれば持っているほど、きっとよりその傾向があるでしょう。俺は名人と呼ばれるようになった。可処分時間を犠牲にするだけでなく、金を払って舞台を見に来る客の前で新入りでもしないような間違いをしたら引退を考えなきゃならねえ、というマナー、礼節というと少し違うとは思いますが、師弟の中には教えとしてそのような意識を叩き込む向きがあるかも知れない。その職能をする者としての心構えというんですか。

楽太郎の臨んだ復帰とはつまりそのような状況下における復帰と言っていい。「話すこと」が商品の落語人にとって、まさにその話す事に打撃を与える……と言いますか話す行為を司る部分を破壊する高次脳機能障害とは否応なしの品質の劣化を約束するような事態でした。

ぼくは楽太郎を完全主義とは思いませんが、上記でも示した通り職能的文化を持つ業界自体が、完全主義を強要する・あるいはそのような強迫観念をもたらす土壌を形成しているだろうとは思う。横綱が負け続けたら降格じゃなくて引退しろ、みたいのを美徳とする価値観がもしあるなら、それみたいなものです。

特に楽太郎はいまでこそ圓楽という名前ではあるものの、師である先代の圓楽も得意分野がうまくできなくて引退しようと思ったぐらいだから晩節がよごしづらい環境にいるんだと思える。プレッシャーですね。

この時代にはこのルールがあり、自分には向いていなかった。同期にどうやっても勝てないやつがいて、自分はとうとう一位にはなれなかった。今むりやり今回つけた題名に話をつなげたんですが、思いつきの題名を使って話をするとこのような弊害が起こる。

完全主義に染められた土壌においてはプレイヤー自身がそのようなハンデと戦うことになる。ハンデ?それを時代ガチャと称し、時代ガチャに失敗したことをハンデと呼ぶのであれば同時期に天才がいたこともまたハンデとなるのでしょう。

つまり落語家である以上、それまでより品質劣化することは許されないみたいな強迫観念は本人が一番持っているはず。普通に考えれば否応なしに年は重ねる=脳がいかれ始めるんだから、劣化して当たり前だと思われる。

でもそんな中で以前と同じ職能に復帰すると宣言することは、楽太郎にとってどれほどの負担になっただろう?ちょっと想像だにできない。

ぼくらはここについて考えなければならない。ぼく「ら」である必要はないですね。楽太郎は完璧であることを求められていることを理解しているからこそ会見のようになってしまったあの場で涙を流した。それは何に対しての涙だったのかについて明日以降にまたお話しましょう。

このサイト内ではいかなる場合でも返信行為をしていません。