著名人の亡くなり
著名人の死に際して一番気を遣う行為は自分に対しての気持ちの切り替えだろうと思います。ヘッダ画像をお借りしています。
これができないからこそ、人は著名人の死に際してしまうと行動が制限されてしまうことになる。されてしまうっていいますか、自分で御してしまう。
今回は人の死に対して揺らがないでいるべきか、あるいは揺らぐべきなのかについて考えたい。
訃報を受け取る初報メディアはどれか
現状、亡くなりのニュースを受け取る場所は必ずしもアナログメディアの新聞号外とか、テレビやラジオ(テレビやラジオをアナログと言い切ってしまうことには時代的な暴力を感じざるを得ないため抵抗がある)ではなくなってしまっている気がする。
これは時代が遷移するにつれて斯様になるため詮無いことなように思える。
上記アナログメディアで一報を受け取る場合、その亡くなりから結構時間が経っていることが多いはずである。あるいは、既に当人は結構前にいなくなってしまったけど、関係者および公式バックアップ(支援)期間からの公式発表が実行された時間からは1日未満が経過していることが多い。
それは受け取り側自身が、情報に触れるための可処分時間を大体一日単位で管理しているため。この日のこの時間にこの情報媒体に触れると決めていれば、新規情報を手に入れる時間も決まっていることになりましょう。
だからある日の朝に情報を仕入れる人がいて、誰かが昼に逝去したニュースがあった場合、その人は大体20時間後ぐらいに自分にとっての初報として知ることになるだろう。遅れが20時間あり、これを長いとするか別にどうでもいいと捉えるか。
初報がネットであることの弊害
昨今ではニュースの(自分にとっての)第一報をインターネットメディアで受け取らない機会のほうが少ない。このため「情報の速さ」という一点突破型な見方をしたい場合には前段落のようなアナログメディアよりもインターネットメディアつまりデジタルに利がある……ように見えるが、実際はどうでしょうか。
インターネットメディアが初報であることの弊害は同時性だと思ってます。つまり第一報を発したデジタル新聞メディアみたいな報道機関が正常に機能しているという大前提条件が必要。
そこからフィード(よく聞くけどフィードってどうやって受け取るんだろう)なりなんなりでお知らせを受け取り(わざわざばか正直にアプリ側にとっての顧客情報収集ツールでしかない「お知らせ機能」を利用しているのもアプリ側に対するロイヤリティが高くてすごいと思う)シェア機能とかでSNSに書き込む。ここに同時多発性がある。
同時多発性があると、センシティブな感性を持つ人は同調圧力を感じるようになる。これは別にセンシティブな人をこけにしているわけではない。世の中に絶対必要だし、人は大別したらセンシティブかそうじゃないかの同数ぐらいに真っ二つに分けられるんじゃないだろうか。
同調圧力が生じてしまうと、人々は「訃報」という"ニュースの中でも最大限に衝撃を持つタイプのもの"を自分の中でどう受け止めるべきなのかわからなくなってしまう。それが同調圧力の作用でもある。次回はその同質化について。お読みくださりありがとう。
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