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なぜぼくらはそれでも歌を聴くのか?

ぼくは過去にSNSの世界に触れたときなんかに、「音楽がないと生きていけない」みたいな意識を堂々と掲げるコミュニティを見るにつけ、サブカル文化が生み出した悪例の極みであると断じ、幼心にその辺りからソーシャルメディアに対する不信感を持つようになりました。ヘッダ写真をお借りしています。

同調圧力

その不信感は同調圧力や帰属意識の香りであり、現代ではエコーチェンバー現象という名前がつけられ、ガチ目に悪いことである(側面の一部である)と判明しましたね。で説明しといてなんですがそこまでくそ重く考えていません。

抵抗

またぼくは歌やBGMのことを音楽と表現することに対しても異様な抵抗感を持っています。その理由は、幅広すぎるから。どうせ聴いてんのって「歌唱」が入った歌だろ?と思うからです。Instrumentalなんて聴いてんのか??ボカロのあとに(VOCALOID文化をけなしているわけではありません)シャッフルでクラシックが出てくるのか?そもそも「生活には音楽が必須でござw」という”ステータスだけで歌を聴くような層”がクラシックなんて聴くのか?

どうせ歌しか聴かないなら歌と言え、とぼくは思った。かつてぼくの好きなミュージシャンが、近年では歌をBGMとしてしか聴かれないことが悲しいと言っており、これはぼくの考え方と表面的(言語化の際に選んでいる単語的な意味では)には矛盾していますが、上記で示した音楽という単語への嫌悪感の根源をたどるのであればここにある気がする。

ぼくらが歌を聴く時

ぼくは歌をバックグラウンドとしてのみ聴く形は少ない。特に何か職の業のようなものを展開しなきゃいけない場合、歌を聴いてしまうと自分が演奏しているシミュレーション、シャドーイング、ロールプレイングを初めてしまうため、頭のメモリの一部がそちらに使われることを意味し、物事が出せるだけのリソースのもとには運ばなくなってしまいます。このような一連の行動をしてしまう理由は、自分が知っている大体の歌を実際の楽器で演奏したことがあるからという下地があるからでしょう。

歌を聴く時はテレビから離れ、親御さんの監視のもと見れるようにしてあげましょう。

というのはフレーズが思いついてしまったため書きたくなった冗談でしかないすが、歌を流すのであれば何か外の景色とかを見ながら、両手や目がこのように出力機器と向き合うことなく聴くことになります。

ぼくらが歌を聴きたい時とは?

それでもなぜぼくは歌を聴くのか不思議に思った。例えばぼくは今、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのサンダーバード・ヒルズを聴きたいと思っていますが、なぜ聴きたいのだろう。

なぜサンダーバード・ヒルズの10分間の中で(10分ある歌だ)くはらかずゆきのスネアがジャズ系から8ビートに移行する様をあれほど理解しているのにまた聴きたいんだろうと思った。

それはその移行した時の「ああ、移行したんだ」という気持ちになりたいからですね。正確にはレコード・プレイヤーなりCDプレイヤーなり、MP3プレイヤーなりが、正確に音源を出力した現場を耳で抑え、今回もまたくはらのスネアドラムがジャズ調ではなくなった、と確かめた瞬間に何を思うかを思い出したいからです。これは言葉で説明することが難しすぎて、本能的なものであるという上記SNSで見かけたような濁りきったサブカルから発出される感覚と逆に似通ってしまうかもしれず、なんとも情けない限りです。

そしてぼくは今、サンダーバード・ヒルズを聴かなくてもいいと思い始めている。また同様に聴きたかったRed Hot Chili PeppersのMade You Feel Betterについてもまあいいかという気分になっている。それは他にやりたいことができて、それらを聴いた後の気分で当該やりたいことを為すにはふさわしくないという思いが頭をもたげたためです。

Red Hot Chili PeppersのMade You Feel Betterは決まったフレーズのリフレインが多めの歌ですが、間奏で一度だけAh Yeahと歌われます。その部分が一番格好いいんですが、一度だけしか流れない。それを聴いた後の気分になりたいと当初は思っていたのですが、それを聴き、確かめた後の切なさでは新しい職務の何かしらを攻略できなさそうであるという試算が多分この数分間の中でぼくの頭の中でおこなわれてしまった。だからぼくは歌を聴かないんですね。

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