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「ていうか」が使えないこういう文をいつも書いている

身内の大半が新型フォルアVirusにかかり、因果関係は伏せますが現代アーツを見に行きました。ヘッダ画像をお借りしています。

見に行ったのは1人でになります。そのアーツ(1個)は大きな川があり、その川が流れている勢いに人という生き物は逆らえない。だが確固たる自己や魂的なものや意識を持っていることこそが生きることやんけみたいな内容でした。

だが絵は抽象画――――――と言ってしまうと侮辱なのかも知れませんが、おおよそ人の輪郭とかを持たれて書かれているものではなかった。どちらかというとゲルニカをよりひどくした感じなので、そこまで行くとぼくにとっては抽象になってしまう。

当該抽象画がどれくらい抽象だったのかといえば、ボブ・ロスが指導していた子がそれをボブに見せたのであればボブは自分の職の業について深く反省してしまうのではないか?というぐらい抽象です。

ぼくはその絵と対話を試みます。確かに人の顔があって(抽象画にしては珍しく)きちんと重量に基づいた姿勢をしている。人の輪郭が判明する時点で広義的には抽象じゃないのかも知れませんが、ぼくにはあまり関係がない。

彼は両手で自己の魂を持っているようだった。だが抱えている手は両方とも右手だ(あるいは左手)。書いてて間違えたのか意図があるのかもうわからない。こうなると絵を読解する作業は終わりを迎えるでしょう。さらには人をも抱えている手が左右から生えている。チェンソーマンの7-8巻あたりじゃないんだから……と思わされる。川の中には自分以外にもたくさん人がいて、自分がまた誰かにとっての魂ぐらい大切な存在であることを示唆している?

ただこの日は情報量が多すぎる1日だった。

パンサーの菅良太郎が珍しくつべに出て話しているところを見て、ぼくは吉本に全く興味が持てないものの吉本の中では1番良くない見た目をしていると思ったり、真面目に芸を深めて来た自分と尾形のことをどのように対比させて客観視しているのか(俺にはできない、すごいと思う等)を知ってなるほどと思ったり、

同様に兼近と向井のインタビューでは期せずして昨日あたり触れた又吉直樹から「こうしないと芸じゃない」と思ってしまうことがもう芸じゃなくなってる観を与えられたという話をされたとを聞けて腑に落ちたり、

絵を見た後にさらに遠くまで自転車を走らせたり、

熱が出なくて重症化する人がいると知ったり、朝炭水化物を食べる一汁一菜みたいな考えを持ったり、

とても久しぶりに歌を造ったり、それはとても久しぶりにここで物語を書いたからなのだろうかと思ったり、チェンソーマンの最終巻近くとおにめつの最後を読んでしまったり……これも絵に感化されたことになるのだろうか。


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