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アウトプットは見返すことに一定の意味がある

書いていることに意味があるのかどうかあまり懐疑的にならないようにしています。ヘッダ画像をお借りしています。


前書き

そして書くプラットフォームとは別にここじゃなくてもどこでもいい。

それはつい先日も述べたとおりでした。文が残せるサイトがあれば全然それでよい。無料サイトで自分が思ったことを書くだけでいい。もちろん、「物語しか投稿しちゃいけないサイトとかで、自分の愚痴とか怒りを書き連ねてしまう」ようなことさえなければだが

note社の意味不明なインサイト植え付け行為である「書くのを継続してみましょう」に対してなんのエンゲージメントもコンセンサスも未だにぼくの中にはない。そもそも、文を書く行為に限らず「継続する努力」に対してぼくは何も見いださない。いま現在ぼく自身が1150日連続これぐらいの文量のノートを書いていることを努力だと思っていない。

なぜだかはわからないが(単にぼくのリサーチ不足だ)ここを選んでしまい、まんまと強迫性に駆られ、毎日ここを更新してしまっている。自分にかせを与え、ある一定のテーマのみを選び、ある一定の形式をクリアしなければならないようにしている。

ごくたまに150字しか書けないフォーマットを使い、その時の気持ちを書くだけなときもあったが、結局あとから(0:00になる前に)思い直し(1日の間にそれなりの経験をするものだ)、何か書くことを思いつき、時間が確保できたのであれば書いてしまうこともあった。

しかしながら更新回数とか年数、頻度にはプライドとかは持たないようにしています。ぼくより長く更新している人を羨ましいと思ったり、ぼくより更新頻度や日数が少ない人を見かけて上から目線にならないようにとか、そもそもぼくは今日お話するように人を見に行かない。

それはぼくにとってここを使う理由がアウトプットのみだからであって、そしてそのアウトプットに何か意味があるのだろうかと最近思うようになったのでした。

アウトプットの意義とは

・その時の自分の意識を切り離して、その過去に置き去りにして、手つかずの状態でほっとける
(・文を冷凍保存したようにそのままにできる) ↑ と同じか
・冷凍保存の意味とは、「当時の自分」という「別の生き物」の健康状態や思想がそのまま記録しておけるというもの
・つまりそこに残されたのは自分でありながら「他人である」。アウトプットにより擬似的に他人の文が資産として残っていく
・他人の文を見ることには一定の意味がある。それは例えば今と極端に違っている場合、打開策とか指針変更のためにどうすればいいかを思いつけるからだ。そしてそれが「いま現在」の役に立つ……可能性があるかもしれない

つまり生き物とは変わっていく。よく昭和の頃のラジオとかテレビ、創作物みたいなのに目を通すと「寝ないで書いたラブレターを見返すとマジでやばい」みたいな文化があることに当初ぴんとこなかったが、寝なかった自分と、充分に寝て価値判断が正確にできる自分とではまさしく他人であるため、寝ないで書いたラブレターとは人に見せられないような内容となりがちなのだ。

でぼくはいま実際ここまでさっき書いておいて、いま見返して改めて「こういうことにつながるな」とか新しい発見がある。リアルタイムで思考がつながっているだけなのか、3分前の自分すら自分ではないのか、もうわからない……

過去の自分を弁解する必要について

このような考えに基づくと、過去の自分がなんかすんげー変なこと書いていることを恥ずべきなのだろうが、なんとなく一理あるかもしんねーなとか、俺ってこんなこと思うようなやつだったんだな、余計な場所で発露しないように気をつけようとか戒めのためにとっておくということもできるのだが、こと「デジタルタトゥ重視型監視社会」においてはこれをやらないほうがよいっぽい。理由は言わずもがなである。人の過去を発掘して人を攻撃するための材料にする行為をそいつ固有の正義の元に実施する連中がマジでいる。

で例えばこういう場所で危ない文を過去に書いたことがあるのなら、そいつらを非公開にすれば話は早いんだけど……これに限ってこの場所の意味不明ルールで「プログラムが各ユーザの『モノ投稿日付』を自動管理しており、ある過去の1日においてそれが非公開化などにより途切れたのであれば、当時に遡及して『連続した投稿が一日途切れた』とみなされ、また現在に立ち戻ってきて現在の連続投稿記録が消える」みたいなのを強いているからワンクリで過去の文を非公開にできなかったりする人為的不具合がプラットフォームのせいで存在する。

だから当時の思想を今のリスク管理能力でねじ伏せ、そんな文なかったことにするような文にして更新する……というのが現状最適な施策と言えよう。

このような考え方をすると過去の自分が言ったことについて責任をそこまで負わなくていいように思うんだけど、「立場を使って発した内容」とはその立場が追われるまで(最低でも、当人にとってあまりにも好意的な措置かもしれないが)は責任を負わなきゃいけないような気がする。

最近で言えば、ぼくははなっからセクシャルマイノリティに対してプラマイ何の感情も持ち合わせていないが、そういう人たちをごみみたいに馬鹿にする政治屋の奴とかが好例か。もしそんな奴がいるのだとしたら。

そうしたマイノリティの人々をどう扱うか、がマイノリティ当人たちよりも権限高く決められる立場にいながら、つまり「立場の優越」を利用して平等に扱うべき層になんだか知らないが攻撃しているような立場を勘違いした奴だ。

ともあれそれぞれのユーザが過去の自分を毎日量産(たとえ毎日じゃなくても)している可能性があり、その自分と今の自分はガンガン乖離していく、のが一般的っぽいと感じる。

すると過去の自分から教訓が得られる……過去にそのようなことを思ったのは限りなく事実らしいので、「今の俺ならこんなこと思わねえよ……」という考えすら(もしそれをいま抱けたのであれば)資産になる。それが新しい現状の打開策なわけです。過去の恥ずかしい自分を弁明する、という目的を解決するための、です。

行き急ぐ必要などなく、毎日何かしら考えるんだからそれを書けばいいのだろう。「三日後の自分、任せた!w」といって職の業を放棄してガン寝することからも学びがある……のかどうかまでは今のぼくにはわからないけど。

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