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【長編小説】香水の雨

 十一月になると外は冬の匂いに染まり始める。十月の終わりに最後のジャスミンが摘み取られると花たちは眠りにつく。町を包んでいた濃度の高い甘い花の香りのベールは、一枚、また一枚と薄れていき、雨が降るたびに空気は透明になっていく。南フランスのニース空港から四十キロほどの丘の中腹に、香水の町グラースはある。

一流の調香師を目指して初めてこの町を訪れて、もう十五年の月日が過ぎ去ろうとしていた。


 雨の匂いで目を覚ます。昨夜試作した香水の匂いの変化を確かめる。気がついたことを処方の脇にメモして部屋を出る。今日は仕事になりそうもない。昨夜遅くまで調香を続けてしまったので、まだ鼻が疲れている。

 郵便受けに新聞を取りにいく。新聞とビジネスレター、そしてファッション雑誌の山。ため息をつきながら部屋に戻り、コーヒーを入れてソファーにねころぶ。

 仕事もできない。外は雨。

 しかたなく送られてきた雑誌を手に取りページをめくる。冬が近づくこの時期に、来年の春夏コレクションは行われる。東京で行われた「TAKASE」のコレクションに対する批評は各誌ともまずまずだ。服に続いて、先月発売されたTAKASEの新しい香水「BUTTERFLY」の記事が続く。この香水は、日本はもちろん欧米でも予想以上に好評で、どんどん売上を伸ばしていた。


「TAKASE」

ファッションに興味のある人ならば誰でも知るほどに成長した日本のブランド。デザイナーの高瀬義隆は僕の父。兄の義明は、幼い頃から芸術の才覚を現し、デザインはもちろんアートディレクションを手がけ、モード界の新鋭として活躍、現在のTAKASEのスタイルを築き上げた。

 僕は早々と兄にはかなわないと悟り、ファッションには全く興味がもてなかった。将来を期待された兄と無能の弟。褒められるのはいつも兄。僕は父に見向きもしてもらえなかった。けれど、調香師になり香水を成功させて、生まれて初めて父に褒められた。

 けれど今となっては、どうでもいいこと。今の僕には自分のなかに、父や兄にはない、香りの世界を確立しているという自信があるからだ。

 服の流行は、どんなに人々を熱狂させたとしても、いつか冷めて消えていく。すぐに過去になってしまう。けれど香水は成功すれば、香りをつけている人の現在として存在し続ける。

TAKASEを世界に一流と認めさせる、その野心の実現のためには、

香水分野での成功は、欠かすことができない課題だった。だから父は巨額の資金を投じて僕にトップレベルの教育をして、専属の調香師として育て、香水部門を新たに作り、おしみなく広告展開してくれた。確かに、自分の創り出した香水を女性たちが身にまとい、新しい自分を演出することを想像することは楽しかったし、この年齢で世に名前が出ることで僕自身の野心も満たされた。

 けれど、ただ父に認めてもらうために、調香師を目指したわけではない。

 世界中のTAKASEの香水を愛する女たちのためではなく、高校3年の夏に出会った、あの人のために。

 愛する人に捧げる香水を完成させるために、僕はアトリエにこもって、調香を続けている。

 


 教室では、うだるような暑さのなかで、みんな必死に勉強している。高校三年ともなると期末考査前のこの時期は、昼休みでさえ席を離れる人は、ほとんどいない。うろうろしていると、みんなの冷たい視線を浴びることになる。

 しかたなく鞄の中からファッション雑誌を開いて眺める。


TAKASEのコレクションNYでも大好評!

父を超えるか?期待の若手デザイナー高瀬義明。

 

 雑誌にはいつも華やかな父と兄の活躍が載っている。彼らの成功は僕にとっても、うれしいことだった。けれど、それが僕の慢性の憂鬱の原因であることも確かだった。国際ファッションクリエイターコンクールで大賞を最年少受賞して、中学生の頃からすでに注目を集めていた兄は、父に似て非凡なセンスの持ち主だった。一方、僕は絵も下手、センスもない、色彩感覚ゼロ。父の関心が兄に集中するのも当然の出来の悪さだった。おまけに兄は才能だけでなく、容姿も父に似ていて背が高く、ハンサムだ。

「僕って本当に高瀬家の子供なのかなぁ?」

 そんなことを言うと、身の回りの世話をしに幼い頃から来てくれている、父の友人で仕事のパートナーである内田さんの奥さんのゆりさんは、必ず、笑いながらこう言う。

「まぁ、和也君は亡くなった美和子さんに、目鼻立ちから、ふとしたときのしぐさまで、そっくりなのに。高瀬家の子供じゃないなんて、そんなわけないでしょう」

母の美和子は、僕が三歳のときに交通事故で亡くなった。だから母の記憶は、ほとんどない。父は母について話したがらない。だから、写真やゆりさんからの話で知ったことが僕の知る母のほとんどだ。


 十歳も歳が離れている兄は、物心ついた頃には、すでに過密スケジュールに追われる生活をしていたので、話したこともあまりないし、全く他人のようなものだった。父と兄のほとんどいない日本に、いつも独り留守番をして育った。モダンな大きな家でひとりの生活。

家事は、ゆりさんがほとんどやってくれるので、困ることは何もない。お金に困ることもない。勉強しろ、勉強しろと、うるさい親もいない。それなのにいつも不満そうな顔でイライラしている僕のことを友人たちは「おぼっちゃまの贅沢な悩み」だという。

 確かにそうかもしれない。だけど、いつも居場所がないように感じて、不安と無気力が胸の中に渦巻いていて苦しかった。

 高瀬和也。

 いったいどんな意味をもって僕はここに存在するのだろう。

何をすれば認めてもらえるんだろう。僕はなぜ……その答えをいつも探しているような気がしていた。


キーン、コーン、カーン、コーン、

キーン、コーン、カーン、コーン。

 昼休みの終わりのチャイムが鳴る。

 季節はどんどん移り変わっていく。それなのに僕だけが、ずっともう何年も立ち止まっている。授業も上の空で探し続けているものは、本当にあるのだろうか?それに探しだせなくても、もう、いいかげん進路を決めなくてはならない。なぜって?だって高校三年の夏がやってきたのだから。


授業が始まっても、なんとなく集中できない。窓から水分をたっぷり含んだ夏の空気が吹き込んでくる。教室に充満する汗の臭い。生い茂った草や木の葉の青い香り。プールからは消毒のつんとした匂い。夏の風には、色々な匂いが混ざりあう。ただでさえ、息苦しい思いを抱える僕にとって匂いは、煩わしくまとわりつくだけのものでしかなかった。


一応、理系クラスを選んだので、どこかの大学の工学部にでも進学しようかと思うようになっていた僕も、家にいては少しも勉強する気がおきないので、数学や物理、化学の講義を受けようと電車に乗って三十分くらいの場所にある予備校に通っている。

最上階にある予備校の自習室は、いつも満員御礼だ。クーラーのきいた湿気のない部屋で、黙々と勉強し続ける受験生がたくさん集まっている。固定式の机と椅子がずらりと並び、受付でもらった座席カードにしたがって、きちんと一列に座っていく。自習の時間帯は決められていて、一度入室したらチャイムが鳴るまで、席を離れることも、私語をすることも、禁止されている。

受付で四十五番のカードを受け取り、決められた席につく。始業の挨拶があり、みんな一斉に勉強を始める。学校では居眠りばかりしている同じクラスの奴らも、高い授業料を払って、予備校生に囲まれて勉強すると緊張感が違うのか、真面目にテキストをやっている。僕もそんなふうに集中して勉強するために、ここに来たはずなのに。しんと張り詰めた空気の中で、みんなが黙々と参考書を目で追い、計算用紙を埋めていく様子を、他人事のようにぼんやりと観察しているだけだった。

 予備校のパンフレットにあった言葉を思い出す。

「漫画やゲーム、テレビの誘惑のない、集中できる理想的な環境」

これが、この自習室のキャッチフレーズだ。けれど僕にとっては、どうも逆効果のようだ。とりつかれたように机に向かう人たちを見ていると、予備校の講師が言うところの「いい刺激」を受けるのではなく受験勉強について「考える人」になってしまう。彼らは参考書や単語帳のなかに、自分の未来を見つけたのだろうか。きちんと並んで座って区切られた時間の中で、試験に出るお決まりのパターンを頭に詰め込む。オートメーションの機械のように決められた動作を、何の疑問を抱くこともなく続けている受験生たち。そのなかで、うまく作動することのできない壊れた部品は叫ぶ。

 僕は創りたいんだ!

 大量生産じゃないものを!

 自分にしか創れないものを!


十階の窓からは、ぽってりと赤く熟した夏の太陽が、今日最後の力をふりしぼって街に光をそそいでいる。静かな室内では、エアコンのブーンブーンという小さな音だけが乾いた冷たい空気を揺らしている。

 ふいに、水分をたっぷり含んだ外の空気が恋しくなる。こんな乾ききった部屋には耐えられない。何の目的も持たずに、できるだけ偏差値の高い大学に入るための勉強は、僕にはできない。荷物を片付けて席を立ち、監視の講師の注意の声を無視して、自習室を後にした。自分は何をしたいのか。何をすべきか確信がもてるまで、ここには来ないと心に決める。


「意味をもたないことに真剣になる。そんなゲームに興味はない」受験勉強を放棄することを自分自身に納得させる為の言い訳を考えつくと、机に向かうのをやめて、バカンスを過ごすための支度にとりかかった。心配そうに僕を見ていたゆりさんにも、同じ言葉を残して旅立った。


 小さな海沿いの町。潮風にのって届く磯の匂い。高瀬家の別荘は、この町の砂浜のすぐそばにある。まだ母が生きていた頃は、毎年、夏の休暇をこの別荘で過ごしていたそうだ。アルバムの中には、母が浜辺で僕や兄を抱っこして笑っている姿や別荘のベランダで本を読んでいる写真がたくさん残っている。この別荘で過ごした思い出は、残念ながら僕の記憶には残っていない。母が死んでからは、この別荘に来ることもなくなった。

 別荘は、二階建てのかなり大きな家で、部屋もたくさんある。来て最初の何日かは、快適に過ごすための掃除や買い物で、あっという間に過ぎていった。一階と二階の寝室一部屋をきれいにするのが精一杯だったが、なんとか片付け、のんびりと過ごす準備は整った。

 

 やわらかくなったアスファルトの匂いが熱気とともに舞い上がる都会の夏を離れて、潮風の漂う穏やかな景色に身をまかせていると、

焦りや苛立ちが、少しずつ体から抜けていく。十八歳の今、少しでも偏差値の高い、良い大学にとりあえず入学するみたいな、あいまいな目標ではなく、もっと手ごたえのある、しっかりとした何かをつかまなければならないと考えていた。

 兄のデザイナーとしての才能はすばらしいものだし、正直いってうらやましい。父の努力と兄の才能でTAKASEは新しい流行を作り上げていく。けれどワンシーズンで去っていく流行を追い越していく競争には自分は向いていないと感じていた。僕は才能が無いんじゃない。ただデザイナーには向いてないだけなんだ。何かじっくりとアイデアをあたためて、花開かせるような、そういうものにひかれている。そういうもののなかに、きっと自分を活かせる仕事があるはずだ。この別荘に来て、初めてこんなふうに自分を肯定的に考えることができるようになっていた。


 別荘からほんの五分ほど歩けば、そこは一面の砂浜だ。今年は冷夏のせいか海を訪れる人も少ない。おかげで静かな時間を過ごすことができた。僕は海で泳ぐのが好きじゃない。だから昼間は、本を読んだり、昼寝をして過ごす。


 そして二階の寝室に差し込む暖かなオレンジ色の夕陽で、長い昼寝から目を覚ます。

 寝室から見える夕陽は、とても美しい。薄いブルーの空に、大きな太陽が自らの重みに耐えかねたように沈んでいく。太陽が見えなくなると、まるで少しずつ溶け出してきたように水平線の向こうから淡いピンクに染まってくる。それは、どんどん濃度を増してワイン色に変わり、空の高いところから、次第に闇が広がってくる。夜の闇に包まれてしまうまでの数分間、この微妙な割合で染まるグラデーションの空は、目と心にとっての最高のごちそうだ。

 こんなとき誰かそばにいて、一緒にこの感動を味わうことができたら、きっと、もっと素敵だろう。窓辺でひとり、そんなことを考えながら、ぼんやり佇んでいるところに、彼は絶妙のタイミングでやってくる。

 ニャーオ。ニャーゴ。

甘えた声で呼んでいる。数日前から夜になると彼はやって来るようになった。僕も彼がくるのを待っていた。真っ黒な体をしたオスのペルシャ猫。首輪についているネームプレートには「AKIO」と彫られている。

どちらかというと動物が好きな方ではない。けれどアキオには、なぜか初めから嫌悪感が湧かなかった。それどころか窓の外にいた彼を家のなかに入れ、抱き上げたのだ。

変な話だが、アキオは、あまり猫という感じがしない。鳴き声や仕草から、君の気持ちなんてお見通しさ、という余裕さえ感じられた。

そしてもう一つの理由は、アキオの体から香る匂いだ。彼の体はいつも甘い、いい匂いがうっすらと薫っている。たぶん、飼い主がつけている香水か化粧品の移り香だろう。

「おいでアキオ」

僕は彼を抱いてのどを撫ぜながら、その香りを嗅ぐのが好きだった。なぜかその匂いは、すごく懐かしいような、涙ぐんでしまいそうな、不思議な気持ちが湧き上がり、僕の心を揺さぶった。


アキオは僕が夕食を食べていても、横に来て欲しがったりしない、お行儀のいい猫だった。そのかわりに、考えごとをしているとそばに来て、じっと僕の目を見る。人に愚痴ったり、悩みを話すのは、男らしくないと思い込んでいて、時々ゆりさんに少し話す程度だった。けれどアキオには、いつの間にか、悩みや考えごとを話して聞かせるようになっていた。猫に話しても仕方の無いことだけど、頭のなかで行き場を失ってぐるぐる空回りしている考えごとも、言葉にして話していると、自然に気持ちが落ち着いて考えがまとまってくるのだ。       

アキオの飼い主も、もしかしたらこんなふうに膝の上に彼を呼んで、何か話して聞かせることが多いのかもしれない。まだ見たことのないアキオの飼い主を思い浮かべる。甘い香水の匂いを漂わせながら、膝に抱いた黒い猫に話しかける女。彼はじっと僕を見つめて話を聞き、まるで相槌をうつように、ときどきミャ、とかミャーオと鳴いた。


今日も昼間から考えていたことを、いつの間にかアキオに話して聞かせていた。

「僕のお母さんは、僕がまだ幼かった頃、交通事故で亡くなったんだ。父は有名なデザイナーで、兄はもっと才能があるデザイナーになりつつある。比べて僕は、何のとりえもない。TAKASEのために何もできないんだ。でもね、アキオ、父は女たらしでスキャンダルの絶えない人だけど、決して、才能のない洗練させていない女には惚れないんだ。父が恋する女はみんな一流のセンスの持ち主なんだ。だから、きっと母も、何か優れた才能をもっていたに違いないと思って。そうじゃなきゃ、あの父が結婚までしないと思うんだ」

涼しい風が窓から入ってきて、僕とアキオの身体を優しく撫でる。彼は心地良さそうに目を細める。

「さっき、そんなことを考えていたら、ふと思いついたんだけど、兄は外見だけでなく性格も父によく似ているんだ。そして、母が亡くなってから、ずっと僕の世話をしてくれている、ゆりさんの話では、僕は外見や性格が母にそっくりらしいんだ。だから、もしかしたら、何か母の才能を受け継いでいるかもしれない」

ニャーゴ

なんだかアキオは、本当に理解してくれているみたいだ。

「お前もそう思う?僕の言っていることを、わかってくれるのは、お前だけだよ」

ニャーゴ

もう一度、そう言うと、ポンと膝から飛び降りて、窓から外に出た。

暗い浜辺を走っていく黒いアキオの姿は、すぐに闇に溶け込んで見えなくなった。

 今度は、ご主人様の悩みを聞かなきゃいけない時間なのかもしれない。

 時計は、もう十一時を過ぎていた。


 雨が降っている。

 みんな黒い服を着ている。

 部屋のなかは、線香の匂いが充満していて、そこにいるみんなが泣いている。

 あぁ、今日はお葬式なんだ。やっと気がつく。

 若い男が棺桶に抱きついて狂ったように泣いている。

 いつのまにか、雨は香水のしずくに変わっていて、あたり一面、香水の匂いに包まれる。そして、葬式に来ている人たちの涙も香水に変わる。

 そのうちに、みんなどこかへ消えてしまい、棺桶に抱きついて泣いていた男と僕の二人きりになる。僕はじっと、彼の背中を見つめる。いつのまにか、足元にはアキオがいて、じゃれついている。男が泣くのをやめて、立ち上がる。そして、振り向いて僕を見る。

 目が合う。

彼は別に驚きもせずに、どこかに消えてしまう。

 僕は驚いたまま、その場を動くことができずに立ち尽くす。

 気がつくと僕は、香水の涙を流しながら、棺桶に抱きついていた。

何か叫びながら。

 彼は、僕自身だった。


 涙にむせて、目が覚めた。涙は塩辛く、匂いはなかった。

 あぁ、夢か。安心すると、どっと力が抜けて、また眠気が襲ってくる。全身汗びっしょりだった。

「これは、着替えなきゃ風邪ひくな」


眠たい目をこすりながら、ベッドから足を下ろす。

べちゃっ。

床がぬれている嫌な感触を、足の裏に感じる。

ニャーオ

「アキオ?」

鳴き声に驚いて電気を点けると、びしょぬれになったアキオが床に座っていた。

「どうしたんだ、こんな真夜中に、こんな大雨のなか」

開けたままにしていたベランダの窓から、激しく雨が降り込んでいる。手早く自分の着替えを済ませて、アキオのからだを拭いてやる。

 濡れた身体だからは、いつにも増して、香水の匂いがしていて部屋中に充満する。いつもは穏やかな懐かしいような気持ちにさせてくれるこの匂いに、今はなぜか胸をしめつけられるような嫌な感じを受ける。

「そういえば、なんだか怖いような不思議な夢を見たんだ」

しっかりタオルで拭いてやったら、あとは自分でからだを舐めて水分をとっているアキオにさっき見た夢の話をする。

「誰かのお葬式で、僕が狂ったように泣いている夢。外はちょうど今みたいに雨が降っていて、それが香水のように匂いのついた雨なんだ。涙も同じように、香水のようないい匂いがするんだ。ちょうど……」

 はっとして、手にもっていたアキオを拭いたタオルの匂いを嗅ぐ。確かに夢の中で嗅いだのと同じだった。

 アキオがじっと僕の方を見ている。

「同じだ。たぶん、同じ匂いだ」

「この匂いに何か意味があるのかなぁ?」

 ニャーオ

 ニャーオ

夜の静けさに、アキオの鳴き声と雨音が響きわたる。

「どうしてここに来たの?こんな大雨のなか。お前、何か知ってるの?」

 何も言わない。ただ、僕をじっと見つめている一匹の黒猫。急にアキオが気味の悪い存在に感じる。こいつは普通の猫じゃない。身体中に、ぞわっと鳥肌が立つ。

首をつかんでベランダから外に放り出し、急いで窓を閉め、カーテンを閉じる。電気を消して、急いでベッドに横になって頭からタオルケットをかぶる。せっかく着替えたパジャマがすぐに汗でじっとり湿ってくる。

 外から、雨の音にかき消されながら、途切れ途切れのアキオの鳴き声が聞こえてくる。

ニャー

 ニャーオ

ニャーニャー

 結局その晩、アキオは朝までずっと鳴き続けた。僕は眠ることができずにその声を一晩中聞き続けた。


 次の日からアキオは来なくなった。あの時、アキオを窓の外に放り出し、雨の中で鳴き続けるのを無視したことを後悔していた。

 どうして、あんなことをしたんだろう。冷静に考え直すと、自分のとった行動がさっぱり理解できなかった。

 そして、あの夢と同じような夢を、毎晩、繰り返し見るようになり、ついには夢を見る恐怖から不眠症になってしまった。

 おまけに、あの晩から、毎日雨が降り続けている。一日中することもなしに、ベッドに寝ころんで、考えごとばかりしていた。少しは宿題もやっとかなきゃなと思いつつ、参考書やテキストは、鞄のなかで、それをテーブルに広げる気力がない。

アキオが来てくれたらいいのに。あれだけひどいことをしておきながら、そんな調子のいいことばかり考えていた。


あの晩から一週間。ようやく雨もやみ、青空が広がった。

 僕のことを心配して、わざわざゆりさんが、たくさんのおみやげを抱えてやってきた。そのなかには、僕の大好きな手作りクッキーやアップルパイもあり、早速、むしゃむしゃ食べはじめる。

「ちゃんと食事をしているか、心配で心配で。でも一応食べているみたいで安心したわ」

 小さいときから母親代わりになって、世話をしてくれているゆりさん。内田さん夫妻には、子供がいない。だから、僕のことになると、戸惑い、心配性になってしまうようだった。

 僕が元気なのを確かめると、着いたばかりなのに、すぐ洗濯を始める。いつもと少しも変わらないゆりさんを見ながら、つい、くすくす笑ってしまう。

「何がおかしいの、まったく。こんなに洗濯物をためて」

いつもの調子で、ぶつぶつ文句を言いながらも、てきぱきと片付けていくゆりさんに、めずらしく素直な言葉が言えた。

「せっかく来てくれたのに、家事なんかさせてごめんね」

「まぁ!和也君らしくないわねぇ。しおらしく感謝の言葉なんて!いいのよ、あなたのお世話をお父様に頼まれているのが、わたしの生きがいのひとつだし、楽しみなんだもの。うちは子供に恵まれなかったから。それに今日は掃除をするつもりではりきって来たのよ。何年もここは使っていないはずだから汚れているだろう、だけど和也君のことだから、たいして掃除もせずに暮らしているんじゃないかと思って。だけど、すっかり昔のようにきれいになってるじゃない。びっくりしちゃった」

 僕は得意になって徹底的に暮らしやすいように準備したことを話して聞かせた。

「へぇ、和也君も、やればできるんだ」

 そんなふうに感心しながら、ニコニコ笑って話を聞いてくれているゆりさんのそばにいると、すっかりリラックスして久しぶりに眠たくなって、あくびがでる。

「眠たい?少し横になったら?」

「あぁゴメン。この何日か、ぐっすり眠れなくて。ガキみたいな理由なんだけど、気持ちの悪い夢をみるんだ。誰かの葬式の夢。それで……」

急に涙がぽろぽろとこぼれてしまう。心細かったんだなぁ。ゆりさんにやさしく頭を撫ぜられると、張り詰めていた気持ちが切れて涙が止まらなくなる。

「そうだったの。かわいそうに。もっと早く来てあげればよかったね。ところで和也くん、どこで眠っているの?」

「えっ、二階の一番端にある小さなベランダのついた部屋だけど」

 すっかり安心してしまい、ソファーに横になるとすぐに眠りに落ちていく。うとうとした意識のなかで、ゆりさんの「やっぱり」という言葉が、いったいどんな意味なんだろうと考えていた。


 はっとして飛び起きる。身体にかけてあったタオルケットが、バサッと床に落ちる。ちょっと眠るつもりだったのに、もう夜になっていた。

 ゆりさんは、何かメモを書いていた。

「あぁ目が覚めたの。嫌な夢を見た?」

 そっとそばに寄ってきて僕の髪を撫でながら、いつものやさしい声で聞く。

「ううん。久しぶりに、ぐっすり眠れたよ」

「夕飯、作っておいたから、お腹がすいたら食べてね」

「うん、ありがとう。もう、帰るの」

「最後の電車で帰るわ。明日は主人が日本に帰ってくる日だからね」

 そう言いながら、書いていたメモをさりげなく破いてゴミ箱に捨てる。

「何が書いてあったの?」

「あのね、和也君。寝室変えたほうがいいよ。一階にもベッドがあったでしょう。少し狭いけど、あの部屋で寝なさい。今日きれいに掃除しておいたから。そうすれば、たぶん嫌な夢にうなされなくなると思う」

「どうして?二階には何かあるの?教えて、何かあるんだろ!」

 僕はつい、ゆりさんの腕を強くつかんでしまった。

「痛い!放してよ。何ムキになってるの。別に深い理由なんてないのよ。ただ、ただ、そう、方角が悪いのよ、あの部屋は」

 嘘を言っていることは、すぐにわかった。彼女は普段、占いやおみくじ、お守りなどを全く信じない人なのだ。

「嘘つくなよ」

「いけない、バスの時間に遅れるわ。次のバスに乗らないと、終電に間に合わないの」

 ゆりさんは僕を無視して玄関に向かう。僕はしつこく聞き続けた。

「なんで急に、方角がどうこう言い出すんだよ。嘘だろ。ゆりさん、お願いだから、本当のことを教えてくれよ!」

ゆりさんは、結局何も言わずに、僕を振り払うようにして帰っていった。

 テーブルの上には、用意してくれた料理が、食べきれないほど並べてあった。それも僕の好物ばかり。

 普段から、本当の母親のように、ゆりさんを慕ってる。けれど、さっきみたいに、急に何もいわなくなって、振り払うようにして、僕を置いていく。それは何か昔の父や母に関すること。彼女は何かを隠している。

 豪華な家庭料理を、ひとりぼっちで食べながら、しみじみ思う。本当の母親だったら、こんなとき、きっと泊まっていってくれるだろう。そして、今、一緒に食事をしながら、いろんな話をしてるんだろうと、妄想がふくらむ。

 ゆりさんを母親のように思っている。けれど、決して、本当の家族にはなれない。


昼間ぐっすり眠ったせいか、眠れずに、音楽を聴きながら、本を読んでいると、うっすらと窓の外が明るくなってきた。すっかり冷めてしまったコーヒーを飲みほして二階に上がる。昨日のゆりさんの態度が気になって、暗いうちに上がるのは、なんとなく気味が悪かったのだ。

朝日が差し込む、なんの変哲もない寝室。サッシを開けると小さなベランダ。ほっとする。なんでもない、ただの部屋じゃないか。

ベランダからは、白い波がきらめく朝の海が見える。いつもはまだ眠っている時間なので、朝の海を見るのは、はじめてだった。

白い海。淡いブルーの空に白い月が溶けるように消えていく。空気はひんやりして気持ちが良い。浜辺は一面霧がかかっていて、ほんの数メートル先もよく見えない。

ここに来て、必要なものを買いに、バス停の近くのスーパーに行く以外は、一日中、別荘にこもっていた。たまには、散歩にでも出かけてみるか。そんなふうに思いつき、ジーンズとTシャツに着替えて、玄関のドアを閉めた。


 スニーカーの足が、湿った砂に、サクサクと埋まる感触を楽しみながら、砂浜をどんどん歩いた。じっとしてばかりの日が続いていたので、ちょっと歩いただけで汗が流れる。けれど、汗をかくと、なんだか、身体が軽くなり、ふさぎこんでいた気持ちも、開いていくように感じた。

 この砂浜を走って、アキオはいつも僕のところまで来てくれていたんだなぁ。飼い主にじゃれつきながら歩いている犬を見て、アキオのことを思いだしていた。もう一度、来てくれたら謝ろう。あいつなら、賢いし、やさしい猫だから、きっと許してくれるだろう。


 アキオが来なくなってはじめて、自分が本当に心を許したのは、あの猫だったことに気がついた。僕には親友と呼べるような人が今まで一人もいなかった。人に心を許して裏切られるのが怖かった。いや、自分の気持ちを理解できる奴なんていないさ、とクールに装って、まわりに人を寄せつけなかったのかもしれない。

 猫なら、どんなひどい目に遭わせても、裏切っても、相手は裏切ることはないと思っていた。でも、僕は今、ひとりぼっちだ。

 誰かが、そばにいてくれたらいいのに。誰かが、そばにいてほしいと思ってくれたらいいのに。一緒に生活する人がいたら、どんなに毎日が変わるだろう。ずっと一人が気楽でいいと意地を張っていたけど、本当は誰かにそばにいてほしかった。



 海外を飛び回り、ほとんど家に戻らない父や兄は、寂しくなることはないのだろうか。有名なデザイナーとしてではなく、ただの父親の姿を、くつろいだ父をそういえば見たことがない。僕がまだ、小さい頃。母がまだ生きていた頃。この海で過ごす父は、ただの父親の姿をしていたのだろうか。

 日差しが強くなってくる。砂浜が乾き、スニーカーの底が熱くなってくる。ペールブルーの淡い波は、しだいに濃紺になり、ビビットブルーの空には、綿菓子のような、真っ白な入道雲が現れる。

 今日は日曜日だ。ひさしぶりに天気のいい日曜日。この砂浜も、家族連れや恋人たちでにぎわうだろう。

 ひとりで歩くのは似合わないな、そろそろ家に戻るか。そう思って引き返そうとしたとき、向こうから何か黒い固まりが、白い砂浜を転げるようにして、こっちに向かってくるのが視界に入る。かすかに聞こえるニャーという鳴き声。黒い固まりの中に、しっかりと僕の姿をとらえてこっちを見ているグリーンの光が二つ見える。

「アキオ!」

 引き返すのをやめて、走り出す。スニーカーで来ていてよかった。こんなに一生懸命に何かに向かって走るのは久しぶりだった。

 朝の海を歩いてみようと思ったときすでに、何かが変わろうとしていたのかもしれない。このときの僕にはアキオしか目に入っていなかった。アキオを追って、その後を走ってくるあの人に気づきもせずに、夢中になって走っていた。これから起ころうとしている運命の出会いに気がつきもせずに。

 いや正確には、アキオの飼い主である彼女、美和子さんとは、ずっと以前に出会っていたから、これは再会だったわけだが。そのことを僕が知るのは、もっと、ずっと、後のこと。


「アキオごめん。この前はごめん」

飛びついてきたアキオを抱きしめて何度も何度も謝った。

ミィ、ミィ、ミィ。

あぁ、アキオは許してくれたんだ。ほっとしてアキオを抱いたまま砂浜に寝転がる。そのとき、やっと側に立っている女性に気がついた。やさしく微笑みながら、じゃれあう僕らを見つめている。

嗅ぎ慣れた香水のいつもに増していい香り。アキオの飼い主だということは、すぐにわかった。想像以上に、品のある美しい女。慌てて起き上がる。

「はじめまして高瀬和也です。あなたが、この猫の飼い主でしょう?」

「えぇ。わたしは香田美和子です。アキオの最近のおでかけは、どうやら、あなたが原因みたいね」

「ごめんなさい。あなたの猫なのに」

「ううん。いいのよ。この子もあなたのことが気になってしかたないみたい。さっきもエサをあげようとしているのに、急に家を飛び出すから、驚いて追いかけてきたの。あなたが近くにいるのを感じたのかしら。せっかくだから家に寄っていきませんか。朝食まだでしょう?すぐそこなんです。いつもアキオと遊んでもらっているお礼にごちそうさせてほしいの」

「いぇ、いいんです、そんなお礼なんて」

 いくら母親ほど歳が離れているような年上の女性といっても、中学・高校と男子校に通い、ゆりさん以外の女性とは、ほとんど接したことのない僕は、彼女との会話にドギマギしてしまう。

「ううん。嫌じゃなかったら、ぜひ寄っていって。わたしとアキオの二人で住んでいるから、他に気兼ねするような人もいないし。それに昨日ね、おいしいケーキをいただいたんだけど、ひとりでは食べきれなくて困っているの。せめてお茶だけでも飲んでいって、ね」

 あまり断るのも変かもしれない。アキオもいることだし、少しだけおじゃましていこう。

「それじゃ、お言葉に甘えて」

こうして彼女の家にいき、朝食をごちそうになった。


 誰かと一緒に食べる朝食は、なんておいしいんだろう。ピザトーストにサラダとコーヒー。誰にでも作れる簡単なメニュー。それなのに、おいしい、おいしいを連発する僕に、彼女はニコニコしていた。

「こんなにおいしい食事は、実はわたしもひさしぶり」

 片付けをしながら、彼女もポツリとつぶやいた。

 彼女は、いろいろな話をして僕を笑わせた。普段は馬鹿馬鹿しいと思っていたテレビのバラエティ番組さえ、ふたりで観ると楽しかった。結局、夕食までごちそうになって、あたりが暗くなるまで一緒に過ごしてしまった。

 上品で美しく知的な中年女性。もし母が生きていたら、こんな感じで生活していたのかもしれない。偶然にも美和子という、母と同じ名前で、多分同じくらいの年頃の女性に出会って、母と彼女を重ねてみていた。

「ねぇ、明日も朝食食べにこない?」

 翌日も僕たちは一緒に過ごした。そして、次の日も。そのまた次の日も。次第に、美和子さんが本当の母親だとしても不思議じゃないような気がしていた。もうアキオも、高瀬の別荘に来ることもなくなった。家にいる時間より、美和子さんと過ごす時間の方が、長くなっていった。もう彼女の匂いにも慣れ、特別意識することもなくなった。それは、僕の匂いの一部分にもなりつつあった。あの悪夢を見なくなったことにさえ気がつかないほど、彼女と過ごす昼間の時間に、子供のように夢中だった。


 朝早く、ちょっと早すぎたかな、と心配しながら玄関のチャイムを押すと、彼女はもう朝食の準備を始めている。

「ふふっ、なんだか新婚のおままごとみたいね。でも、せっかく作るなら、二人分作るほうがやりがいがあるわ。一人だと食事を抜いちゃうことが多かったの」

 美和子さんはごきげんで次々話しかけてくる。

「実は僕も最初に来た日に作ってもらったのが、ひさしぶりのまともな朝食だったんだよ」

「まぁ、そうだったの。だからそんなにやせてるんだぁ。いいわ、わたしがおデブにしてあげるから覚悟しといて」

 そう言って僕のために、目玉が二つある目玉焼きを焼き、大盛りのフルーツサラダを作ってくれる彼女が、ますます好きになる。

 美和子さんは、料理がそれほど上手なほうじゃない。味やレパートリーを比べたら、ゆりさんの方が数段上だ。キッチンを行ったり来たりしている美和子さんの後ろ姿を眺めながら考える。ゆりさんは、僕が学校に行っている間に、わざわざ僕の家までやってきて、家事を済ませ、夕食の準備もしておいてくれる。僕は好きな時間に帰ってきて、冷蔵庫から出したり、レンジで温めるだけで、すぐに食べることができる。

ゆりさんの料理は確かにおいしい。けれど、どんなにおいしい料理が目の前にあっても、ひとりで食べる食事は、食欲のわかない、わびしいものだ。ゆりさんに申し訳ないと思いながらも、いつも残してしまう。食事は苦痛な時間だった。

 だけど、今は違う。できたての食事を、美和子さんと向かい合って食べるとき、たとえサラダ一皿でも、世界一のごちそうになる。日常のささいなことを話し合いながら食べる時間が、何よりの楽しみに変わる。

 

あれほど長く感じていた一日が、美和子さんと接していると、あっというまに過ぎていく。僕と、美和子さんと、アキオ。何か特別におもしろいことがあるわけでも、どこかに出かけるわけでもない。でも毎日が楽しかったし、一緒にいるだけで安心できた。別々に音楽を聴いたり、本を読んだりしていても、美和子さんのそばにいたかった。彼女がそこにいる。それだけでよかった。彼女がそこにいるというだけで少しも退屈せずにすんだ。

 

 彼女の家には、たくさんの本がある。午後の数時間、僕とアキオが昼ごはんで満腹になってソファーに寝転んで、うとうとしている間、彼女は必ず本を読んでいる。窓辺の椅子に腰かけ、メガネをかけて大きな虫眼鏡を片手にページをめくる。

 彼女は数年前に風邪をこじらせて四十度近い熱が数日つづき、入院したことがあるそうだ。そのときの後遺症で視力が落ちてしまい、今でもそうとう目が悪く、物が見づらそうだった。

 それでも、本を読むことが大好きで、目が疲れると言いながら、無理をして読んでいる。教科書以外なら、僕も本を読むのは好きだったから、本棚から借りて読むようになった。本棚には、外国語の絵本や小説もたくさんある。

「これって何語?」

「それはフランス語よ」

「読めるの?」

「昔、勉強してたの。今はどうかしら?少しは読めると思うんだけど」

「へぇ、そうなんだ。僕も見習わなくちゃ」

 ふと、たまっている英語の宿題を思い出す。いくら受験勉強を放棄したって、夏休みの宿題くらいはしとかなきゃヤバイよなぁ。一人でぶつぶつ言いながら、最後にはため息をつく。

「どうかした?」

「いや、ちょっと宿題のこと思い出しただけだよ」

「少しは受験勉強もしてるの?」

「あれ?なんで受験生って知ってるの?言った覚えないんだけどなぁ」

「あの、その、ほら、和也君、前に言ってたじゃない。あっ、もうすぐ三時ね。のど渇いたでしょう、何か飲み物もってくるね」

 そう言って、キッチンに行ってしまう。ときどき彼女と話していると今みたいなことがあった。話した覚えのないことまで、知っているようなときがあるのだ。それは彼女がずっと年上だからだろうか。でも、話を曖昧にしてごまかそうとする彼女は、なぜかゆりさんがときどき見せる態度とそっくりだった。だけど、そんなことがあっても、すぐに忘れるようにしていた。上手にごまかされたふりをして。今、こうして一緒にいることが大切だから、変に考えこんだり、彼女を問いつめて、気まずい雰囲気になるのが怖かった。


テーブルの木の温もり。紅茶の湯気。その向こうに、美和子さんの笑顔。足元にはアキオがじゃれついてくる。何気なく、彼女がつぶやく。

「わたしたち、こうしていると、本当の家族みたいね」

 家族って、こういうものなんだ。僕はうなずく。僕は彼女から、いろいろなことを学んでいく。


 空が赤く染まり始める頃、夕食前の散歩に出かける。寄り添って夕陽を眺めるカップルばかりの砂浜に、少し離れて歩く美和子さんと僕の赤く彩られた長い影が落ちる。クーラーなしでは過ごせない昼間の暑さが嘘のような涼しい風が、美和子さんの長い髪を揺らし、いい香りがふわっと拡がる。

「いい匂いだね。香水つけているの?」

僕の言葉に、びくっとして、驚いた顔をする。

「よく気がついたわね。ほんの少ししかつけてないのに」

「ずっと気になっていたんだよ。アキオにもこの香りがうっすら移っているんだ」

「敏感なのね、香りに」

「そうなのかなぁ。なんだかアキオといると懐かしい気持ちになるんだ。猫なんて飼ったことないのに。美和子さんに初めて会ったときも、同じ香りがしたから、すぐにアキオの飼い主だってわかったよ。それで、前から知っている人と久しぶりに会ったような気分になった。きっと、この香水の影響だと思うんだだけど」

 彼女はしばらく黙っていた。何か気に障ることを言ってしまったのかと、自分の言った言葉を頭のなかで繰り返していた。やっと彼女は、何か決心したように話し始めた。

「この香水、亡くなった夫が、唯一残してくれたものなの。これをつけていると彼がそばにいて見守っていてくれるような気がするの」

「えっ、だんなさん、亡くなったの?」

「そう自殺だったの。フランスに留学していて、あと少しで日本に帰ってくる予定だったのに。部屋で首を吊っていたらしいわ」

 一人でこんなところに住んでいることを不思議に思ってはいたけれど、単に結婚してないだけかと思っていた。彼女も、僕の好みや趣味、考え方などは、とても知りたがったけど、生い立ちや普段の生活については聞こうとしなかった。

 彼女はいつも明るくて、のんびりしている。そんな苦しい思い出があるなんて想像もつかなかった。なんと返事をしたらいいのか分からずに立ち尽くしている僕に構わず、彼女は話し続ける。

「お墓もフランスにあるの。だから死んで二十五年も経つのに、いまだに信じられなくて。実感がないの。いつかひょっこり、ただいまー、なんて帰ってきそうな気がするの」

「つらい思い出があるんだね」

僕は母のことを聞いてもらうのは、今しかないと思った。

「僕もね、母を亡くしてるんだ。まだ小さかったから、よく覚えていないんだけど、交通事故だったらしいよ。その母なんだけど、あなたと同じ美和子って名前なんだ。だから、あなたと出会ったとき、運命を感じた。な~んて言ったらおおげさすぎるかなぁ?」

 過去のことだから、もう今は、なんともないというふうに、努めて明るく話したつもりだったけど、自分が話していたときは、毅然としていたのに、美和子さんは、しくしくと泣き出してしまった。さすがにこれには参ってしまった。

「おい、泣くなよ。なんで美和子さんが泣くんだよ。もういいんだよ昔のことだから」

 いつの間にか太陽は海の向こうに沈み、辺りは薄闇に包まれている。そばに寄り、まるで子供のようにしゃくりをあげながら泣く彼女の肩を、そっと抱き寄せた。美和子さんの身体は、見た目よりもずっと、か細かった。よしよし。彼女が泣きやむまで、髪をそっと撫で続けた。三十歳も年上の彼女がいまは愛おしくてしかたがなかった。彼女がどうにか落ち着くと、僕は静かに話を続けた。

「母のことは、もういいんだ。それよりTAKASEってブランド知ってる?」

 うん、と彼女は小さく答える。

「そのTAKASEのデザイナーが僕の父なんだ。そのうち兄が継ぐことになると思うけど。ふたりは非凡なモードの才能がある。けど僕は全然ダメ。でも僕は母に似てるらしいから、きっと何か才能を受け継いでると思うんだ。母がどんなことに興味をもち、どんな才能をもっていたか、それが分かれば、僕が何を学ぶべきかも分かるような気がするんだ」

「見つかるかしら?何か手がかりがあるの?」

「いいや、何も。まわりの人たちは、母については、あまり話してくれないんだ。でも僕は信じてる。美和子さんのだんなさんが、香水を残してくれたように、母も僕に何か残してくれているってね」

 僕たちは、手をつないで暗くなった砂浜を歩いた。アキオは、少し離れて大きな岩の上に座って、僕たちを見つめていた。まるで、気を利かせて遠慮してやってるんだぞ、とでもいうように。


この夜、久しぶりにあの夢をみた。不思議ともう、怖いとは思わなかった。目が覚めたとき、朝の五時だった。六時には、美和子さんと一緒に朝食を食べるために家を出る。また眠ったら、六時に起きられなくなりそうだったので、少し早いけどベッドを出て、着替えた。

コーヒーを飲みながら、昨日の夕方、美和子さんと会話を交わしていたときのことを考えていた。あのとき、何かに気がつきかけていた。美和子さんが突然泣き出す前、何か思い出しそうだったのだ。

さっき夢を見ながら、あぁ、やっぱりそうだと感じていた。何だろう、冷静に順序立てて考えようとする。

 葬式、母、涙、香水。

 母の葬式のときのことを、最近、ぼんやりと思い出す。父は死に顔を僕に見せないように、気を配っていた。箱のなかに眠っている母がいる。どうして会わせてくれないんだろう。葬式の意味をまだ理解していなかった小さな僕は、泣いているまわりの大人たちを不思議な思いで見ていた。

 葬式、母、涙、香水。

あの日は雨が降っていた。いつも遊んでくれていた母もいない。退屈な僕は、窓の外の雨を見ていた。ただ、ただ、何かが足りない。記憶の底をたどっていく。雨を見ていた。雨を見ながら考えていた。

何を?そうだ、そうだった。あのとき雨を見ながら思っていたのだ。ただ、わけも分からずに。今日の雨は、いい匂いだなぁ、と。そこには線香の匂いを消してしまうほどの香りがしていた。そして、みんなが泣いていた。むせるような甘い香りのなかで。そう、美和子さんのつけている、あの香りのなかで。

 分かりかけている。つかみかけている。探しているなにかを。漠然としたものだけど。これが自分の探しているものに、たどり着くためのヒントになるものだという手ごたえを感じていた。


週に一度、美和子さんは隣町の大きな書店に本を買いに行く。それ以外にも買い物帰りに、近くの古本屋に立ち寄って、たくさん本を買ってきた。

「本ばっかり読んでいると、目が悪くなるよ」

あんまり彼女が本の世界にのめりこんで、僕やアキオに構ってくれなくなると、すねてそんなことも言ってみた。

「和也君も、これ読んだらいいよ。すごく、おもしろいの。読み終わったら貸してあげるね」

 そう言って、また本に夢中になってしまう。本を読んでいるときは、何を言っても無駄だね。僕とアキオは、しかたなく、彼女の邪魔にならないように、おとなしく過ごす。

 窓辺で本を読んでいる美和子さんを見ていると、アルバムのなかの母の姿と重なる。母も本を読むのが好きだったのだろう。写真のなかの彼女はよく本を膝に広げている。本を読んでいる母のそばに、そっと近寄ってカメラのシャッターをきる父の姿。僕の家にも、確かにそんな時間があったのだ。

 それにしても、母が読んでいた、たくさんの本はいったいどこにいったのだろう。別荘にもたぶん残っているはずだ。二階の物置のようになっている部屋に、ダンボールの箱があったのを思い出す。あれに本がたくさん入っているかもしれない。美和子さんにもってきてあげたら、喜ぶだろうなぁ。何もすることがなくて退屈していたので、思いつくと気になってしかたがなかった。

「美和子さん、気になることがあるから、ちょっと家に帰ってくるよ」

「あら、そう。夕食までには戻ってきてね。今日は和也君の大好物のグラタンを作るから」

「わぁ、うれしいなぁ、じゃ、ちょっと行ってくる」


 海岸は子供たちがスイカ割りをしていてにぎやかだった。

 水着姿の人たちの間をぬって砂浜を走っていく。Tシャツが汗びっしょりになる。家につくと、まず冷やしてあったコーラをぐびぐび飲み干し、二階に上がる。

 あまりにも散らかっていて、掃除するときも手をつけなかった物置部屋。古くなったソファーや壊れたオルガン、大量のミニカー。

昔の思い出が埃をかぶって眠っている。そして部屋の隅には、たくさんのダンボール。このなかに、母が読んでいた本があるはずだ。重ねてある箱を一つずつ床に下ろして中身を確かめていく。そして、一番下のダンボールには、思ったとおり、たくさんの本が詰め込まれていた。埃を払って中から本を取り出す。

「香水」「香りの図鑑」「海外のニューフレグランス」「香りの正体とテクニック」「香りの選び方・買い方」「名香物語」「香りの心理学」「暮らしの中の香り」「香水の歴史」「源氏物語の薫り」「香料・日本のにおい」「香りのマーケティング」「香水の故郷グラース」「鼻(ネ)と呼ばれる人々」「香りの演出の現在」……etcまだまだ出てくる。ここにあるすべての本が香りに関するものだった。それも専門的な調香や化学の知識を扱っている本が多かった。

 そして、別の箱からは何十個もの茶色やブルーの小瓶。フタを開けると、まだ匂いが残っている。そして、箱の底に散らばった細長い吸い取り紙のようなもの。化学の実験室にあるのと同じような無水エタノールと書いたラベルの貼ってある大きめの瓶。先の折れたガラスの漏斗。キッチンスケール、ピペット、計量カップ、ガラス棒。

 まるで何かの実験室だ。この様々な道具を使って、母はここで香水を作っていたんだ。無我夢中で残りの段ボールの中身を広げる。また香水に関する本で床がいっぱいになる。そのなかから一冊を手にとって栞のついたページを開く。僕は驚く。本に残る微かな匂い。同じだった。美和子さんのつけているあの香水と。

 葬式、涙、香水。母が残して逝ったもの。美和子さんとの出会い。

匂いだ!香水だ!僕はひらめく。自分の才能は匂いなのだと。敏感なのね、と美和子さんは僕の嗅覚に驚いていたじゃないか。よく考えてみると、昔から匂いに関しては人より鋭かったじゃないか。

 匂い。これだ。匂いだったんだよ。長い間の胸のつかえがスーッと消えていくのを感じた。ファッションと香水。きっと香水を創るために僕は高瀬の家に生まれたんだ。これで僕もTAKASEの役に立つことができる。

 自分の思いつきに、有頂天になっていた。美和子さんに聞いてほしい。いつも使っているリュックサックに、比較的読みやすそうな本を選んで何冊か入れて、すっかり暗くなった砂浜を大急ぎで美和子さんの家に向かう。

 ずっと探していたものを見つけて興奮していた僕は、大事なことをすっかり忘れていた。美和子さんのつけている香水と、母の本に残っていた香り。二つが同じなのは、偶然なのか。それとも何か深い意味があるのか。


 玄関を開けると、キッチンからグラタンの焼ける香ばしい匂いがしていた。ドアが開いたのに気づいた美和子さんが慌てて出てくる。

「よかった。もうすぐ焼けるから、手を洗ってきてね」

「うん。それより、面白い話があるんだ。あのね、見つけたんだ。自分が何になるべきか。僕、香水を創る人になるよ」

「調香師のこと?」

「それそれ、それなんだよ。昼間、本を読んでいる美和子さんを見ていたら、家にもどこかに本があるんじゃないかと思って、物置部屋を探したんだ。そしたら、これが出てきたんだ」

 リュックの中身をテーブルの上に広げてみせる。

「これ、母が読んでいた本だと思うんだけど、全部、香水や匂いに関する書物なんだ。母は匂いに関心があったんだよ。考えてみれば、僕も匂いには人一倍敏感だし。どうかな、調香師になるって。TAKASEの香水を創るんだ。そうすれば僕もTAKASEの役に立てる」

 自分の話に夢中だった僕は、次第に青ざめていく美和子さんの表情に気がつかなかった。

「探していたものを、ついに自分で見つけたのね」

 彼女はポツリとつぶやいて、本のページをぱらぱらめくっていた。

チン!オーブンが出来上がりの合図を鳴らす。

「さ、焼けたみたいね。食べよっか」

 大好物のグラタンを前にして、彼女の様子の変化に気づくこともなく、僕は上機嫌で、しゃべり続けた。

 彼女は何も言わず、ただ力なく、うなずきながら話を聞いていた。

食事が終わる頃、僕はやっと彼女の様子が変なのに気がつく。

「どうかした?なんか、いつもの美和子さんと違うみたい」

「えっ、そうかな」

 彼女は何か薬を取り出して、水で飲み込む。

「どこか悪いの?」

「ううん。ちょっと頭痛がするだけ。風邪ひきかけているのかも」

「じゃぁ、早く寝たほうがいいよ」

「うん、そうする」

「今日は、もう帰るよ。凄くおいしかった。ごちそうさまでした」

彼女は少しだけ笑顔になった。

 彼女のお皿の上には、ほとんど手をつけていない料理が残っていた。帰るとき、いつものように玄関まで、見送りに出てくれた。

「気をつけて帰ってね」

「美和子さんも風邪気をつけろよ」

「おやすみ和也君」

「おやすみ」

 いつものように、ここで玄関を出ればよかったのかもしれない。けれど振り返って、彼女にこう言ってしまったのだ。

「美和子さんに初めて会ったとき、なんだか懐かしい気持ちになったって話しただろ。あれの理由がはっきり分かったよ。美和子さんがつけている香水と、母がつけていたのが同じだからだ」

 自分の言葉がどれほど彼女に衝撃を与えているか、このときの僕には、まだわからなかった。


 その晩、別荘に帰ってしばらくたったころ、めずらしくアキオがやってきた。手招きしても中に入ってこようとしない。玄関で砂浜のほうを振り向きながら、ニャーゴ、ニャーゴと激しく何度か鳴くと、また走って帰っていった。

 何かあったんだ。普通じゃないアキオの様子から、嫌な予感がして、すぐに後を追った。

「美和子さん、美和子さん、僕だよ、鍵を開けて」

彼女は、玄関までやってきて鍵を開けた途端、ぐったりとその場に座り込んでしまった。

「美和子さん、しっかりして」

腕を触ると、すごく熱い。座り込んでいた彼女を抱き上げて、ベッドに運ぶ。氷枕を作り、一晩中、看病を続けた。そして、いつのまにか、枕元で眠っていた。

「秋生さん、秋生さん、どうしてここにいるの?やっぱり生きてたのね!」

 彼女の大声で目が覚めた。

 彼女はしっかりと僕の手を握って、秋生さん、秋生さんと、うなされながら、叫び続けた。

「美和子さん、どうしたの?僕だよ、和也だよ、美和子さん」

 一度、起こしたほうがいいな。

 僕は身体を揺すって、目を覚まさせようとした。

「目が覚めた?夢を見て、うなされていたよ。今、何か冷たい飲み物をもってくるから」

 台所に行こうとすると、うつろな様子だった彼女がものすごい力で、僕の身体にしがみついてきた。

「いやーぁ…!!もうどこにもいかないで。ずっと待ってたのよ。わたしを置いて死ぬわけないと信じていたの。秋生、もう、ずっとそばにいて。香水なんてどうでもいいのよ。わたしには価値のないものなの。あなたがいてくれたら、それでいいの。理想の香りがあっても、秋生がいなくちゃ意味がないのよ。お願い……お願い……」

 驚いた僕の口からとっさに言葉がでる。

「わかった。ずっとそばにいるから。熱があるんだから、おとなしく寝てなきゃだめだよ。さぁ、ずっとここにいるから安心しておやすみ。病気がよくなったら、ゆっくり話そう」

「本当に、ずっとそばにいてね」

「約束するよ」

「ずっと手を握っていて」

しっかりと彼女の手を握り締める。

「よかった秋生。おやすみなさい」

 そういうと、またスースーと寝息をたてはじめた。完全に眠ったのを確かめて手を離し、寝室をそーっと抜け出す。ドアの外で、心配そうに寝室をのぞきこんでいたアキオに思わずきいてしまう。

「おい、アキオ!あきおって誰なんだ?美和子さんのだんなさんの名前なの?」

 さすがのアキオも、この問いかけには困ったみたいで、ヒゲをピクピクさせていた。

 亡くなっただんなさんの名前をつけた猫と暮らす、未亡人か。

「僕に、美和子さんを支えることができるかなぁ、アキオ」

 ニャーオ。

 アキオが勇気づけるように、力強く答えてくれる

 そう、僕なんかでも、いないよりはマシってもんさ。

「できる限り、がんばるよ」

 熱いコーヒーを飲み干して、寝室に戻る。そして、また、

彼女の手をしっかり握った。


 次の日の午後には、熱が少しずつ下がってきた。

「あぁ和也君。ごめんなさいね。ずっとここにいてくれたのね」

 次に目を覚ましたときにはもう、いつもの美和子さんに戻っていて、ほっとした。もしまた昨夜のようだったら、タクシーを呼んで精神科もある大きな病院へ連れていこうと思っていたのだ。

 僕は料理の本を見ながら、おかゆを作った。美和子さんは、よっぽどお腹がすいていたんだろう。多めに炊いてあったのも、全部たいらげた。

「おいしかった。もう大丈夫よ。和也君、眠ってないんでしょう?少し横になったら」

「大丈夫。時々うとうとしながら寝てたみたいで、ちっとも眠くないから。それより、何か食べたいものない?」

「それじゃぁスイカお願い!」

「OK。じっとしてなきゃだめだよ」

 出かけようとすると、アキオもついて来ようとする。

「だめだめ。お前はお留守番。ちゃんと美和子さんのそばにいてやってくれよ。なんたって、あ・き・お、なんだからな」

 スニーカーを履いて、僕は暑い日差しのなかへ駆け出す。


 ポコン、ポコン。

 おいしそうな音をたてる大きなスイカをみつけ、ごきげんで美和子さんのところへ戻っていた。

 帰る途中、さびれた古本屋があるのを見つけた。あんまり地味なので、朝早くか、もう暗くなってからしか、この道を通らない僕は、

今はじめて気がついた。ここが美和子さんがよく来るって言ってたとこかな。よし何冊か買って帰ってやろうと思い、ガラガラと派手な音をたてる引き戸を開けてなかに入った。

 狭い店内、ラジカセからは一昔前の歌謡曲が流れている。レジに座っている店の主人は、音楽を聴きながら、寝息を立てている。

 埃っぽい店内には、所狭しとたくさんの本が積み上げられていた。湿気を吸った湿った紙のカビ臭い匂い。出入り口付近に置かれた本は、夕方になると西日が当たるのだろう。表紙が焼けて茶色く褪せている。この店のなかだけ、時間が何年か止まったままのようだった。そんな本の山のなかから、美和子さんが好きそうな三冊を選んでレジに向かう。

「すみません、これください」

 せっかく眠っているのに申し訳ないな、と思いながら店の主人に声をかける。

 目を覚ましたおじさんは、幽霊でも見たかのような、恐怖にひきつった顔をしていた。

「あの、何か」

「あんた、何て名前?」

「えっ、ああ、高瀬。高瀬和也です」

 あぁ、そうだよね、あいつなわけないか。もごもご呟きながら、

四百五十円だよ、そっけなく言った。

 お金を払いながらたずねてみる。

「あいつって誰ですか?」

「いや、この辺に昔住んでいた人にね。もう亡くなったって聞いていたのに、寝ぼけてただろ。あんまり似てるから一瞬びっくりしちゃってね。いや、失礼、失礼」

「その人、なんて名前かご存知ですか?」

「この近くに香田さんって奥さんがいるんだけど、その人のだんなさんだった人だよ」

 僕は、知らない人の話を聞いているふりを装った。

「香田さんは、美人で性格もいい人なのに、本当についてない人でねぇ。大事な人に次々と先立たれるんだよ。この近くに二階建ての大きな別荘があるの知っているかい。今は、ほとんど使ってないみたいだけど」

「ああ、グリーンの屋根ですよね」

「そう、そう」

グリーンの屋根の大きな二階建ての別荘。

間違いなく高瀬の別荘のことだ。

「そこの奥さんとも仲がよかったんだけど、その人も別荘で首を吊って死んじゃうし。香田さん、おとなしい人だからさ、その人が唯一の親友だったみたいで。あの事件の後の落ち込みようったら見てられなかったよ」

「へぇ」

 スーッと血の気が引いていくのが、はっきりと分かった。ふたりがつけている香水が同じなのは、単なる偶然じゃなかった。

母と美和子さんは友達だった。母は、交通事故で死んだんじゃなかった。本当は、この別荘で、香水に関する書物に囲まれて、首を吊ったんだ。みんなが、母について話したがらないわけだ。

 僕が調香師になりたい、と言った後、美和子さんは急に様子がおかしくなった。昨日の夜、彼女は熱にうなされて、こう叫んだ。

 理想の香水なんていらない!

あなたが居なくちゃ意味がないの!

「いやぁ、若い人につまらない話をしちゃったな。もう二十年以上前の昔話だけどね」

 おじさんは、そう言って、はははと笑った。

 僕もどうにか愛想笑いをして店を出た。

 スイカがやけに重く感じた。もちろん笑いごとではなかった。


 戻ったとき、美和子さんは眠っていた。彼女の寝顔を見ながら考える。昨夜のうわごとが耳によみがえる。あのとき、僕がいなかったら、あきお、あきお、と言いながら泣き続けたのだろうか?

 テーブルの上に、昨日置いていった本が開いたまま伏せてある。いったい、どんな気持ちで、この本を読んだのだろう。彼女の気持ちを考えると、昨夜の自分が、どれほど彼女を苦しめていたかが、やっとわかった。

 探していたものを見つけた僕は、のんびり穏やかな、美和子さんとの日常を続けることは、できないだろう。たとえ、彼女につらい思いをさせても、僕は進まなければならない。なんでもないフリをしていても、気づいてしまった以上、今までとは違ってしまう。

 いつか夏休みは終わって、この町を離れて、学校へ、社会へ、帰っていかなければならない。僕にとっての美和子さんは、どういう存在なんだろう。母のやさしさ、家庭の温かさを教えてくれた人。

真夏の蜃気楼だったと、忘れてしまうことも、まだ今ならできるかもしれない。

それに彼女にとって僕も、所詮、愛していた人の若い頃に似た人、ただの身代わりだったのかもしれない。

 僕たちはお互いに夏の幻影を見ていたのだ。

 いくら、美和子さんを守ってあげたくても、三十歳も年上の彼女が過ごしてきた時間を、まだほんの子供の僕に、すべてを受け止めるのは不可能だ。

 今の僕にできること。それは、これ以上、彼女を苦しめないことだけだ。

 結局、僕たちは他人なんだ。幻の家族の温もりは、夏の終わりとともに、儚く消えていくのかもしれない。


美和子さんの熱が完全に下がって元気になると、僕は実家に帰る決心をした。

「明日、別荘を片付けて、家に戻るよ。自分の進む道を見つけるまで、という自分との約束で、受験勉強を投げ出して、ここに来たわけだから、これ以上とどまるわけにはいかないんだ」

「本気で調香師を目指すの?」

「うん。これだ!と思った。間違いない。デザイナーの父がいる僕は、環境にも恵まれているし。なにより匂いこそ、母が残してくれた才能なんだ。それを無駄にしたくないんだよ」

「香水なんて、馬鹿げているわ。所詮、お金もちの女のアクセサリーにすぎないのよ。それに、ただの技術者としての調香師を超えて、芸術的な香水を生み出せる創香師になれるのなんて、世界にほんの数十人なのよ。華やかな名声なんて、夢のまた夢。デザイナーの影で、何百回何千回と処方箋を書き直しては、また調香する。それなのに匂いの世界に理想を求めて、現実を忘れてしまうんだわ。そこまでしても、結局、最後には、ほとんどの人が、才能のなさに絶望する。香水なんて、目にも見えない、手触りもない、そんなものに人生を捧げるなんて……」

「僕は違うよ。一流の創香師になってTAKASEを代表するような歴史に残る名香を創ってみせるさ。世界中の女たちがとりこになるような素敵な香水を。美和子さんだって、自分の進む道が見つかるといいねって、言ってたじゃないか」

「まさかあなたが、気がつくとは思わなかったから」

「僕、もう知っているんだよ。美和子さんと母が親友だったこととか、本当は交通事故じゃなくて、あの別荘で首吊り自殺したことも。だんなさんのあきおさんに僕が似ていることも。僕と彼は違うんだよ。彼が自分の才能に絶望して自殺したんだとしても、僕は成功してみせる」

「和也君は、お母さんの才能を受け継いでるって言ってるわよね。じゃぁ教えてあげる。あなたのお母さんも、秋生と同じ香水を調香している最中に自殺したのよ。わたしがつけているこの香水は、完成されたものじゃないのよ。秋生は香水を完成させようとして、結局できずに死んでいった。あなたと同じようにTAKASEの一員として香水を創りたいと思って、調香の勉強をしていたあなたのお母さんは、この香水に興味をもってくれ再現してくれた。そして、さらに完成させようとした。でも、やっぱり秋生と同じように死んでしまった」

「僕が完成させてみせるよ」

「無理よ。あなたにはできない。わたしをまたひとり置いていこうとしている、あなたにはできない」

「やってみなきゃ、わからないだろ」

「それに完成させる必要はないの。お願い、考えてよ。有名になることがTAKASEをトップブランドにすることが、それほど大事なことなの?もっと、大切なことはないの?」

「これまで僕が、どんな気持ちで、あの家で過ごしてきたか、美和子さんは知らないからそんなことが言えるんだ!」

 初めて、彼女を大声で怒鳴りつけた。これ以上、話しても、お互いに傷つけあうだけだ。

 いつのまにか、この家に増えていた自分の荷物を片付け始める。

「新婚のままごとも、家族のままごとも、もう終わりなんだよ。現実に帰るんだ。分かってほしい。いつまでも、あきおさんの代わりはできない」

 美和子さんは何も言わず、リュックに次々荷物を放り込んでいく僕を見ていた。

「最後にひとつ教えてほしい」

 彼女の目を見ながら聞く。

「その香水の手がかりを」

 彼女は目をそらしながら、キッチンに入っていく。食器棚の奥から小瓶を取り出して、僕に手渡す。

 小瓶に貼られたシールには、「famille」と書いてあった。

「どういう意味なの?」

「それ、あげるわ。あなたのお母さんが作った処方箋を再現したものよ。フランス語ができなければ調香師にはなれないわ。自分で調べなさい」

 その小瓶をハンカチで包んで、ポケットにしまう。

「ありがとう……さようなら……」

 出て行くとき、彼女の目に涙がたまっているように見えて、立ち止まりそうになった。けれど、立ち止まらずに玄関を出た。通いなれた砂浜を歩く足取りも今日は重い。

 八月も、終わりに近づいてきた昼下がり。風には、秋の気配が少しずつ混ざり始めている。浜辺にはもう水着姿の人はいない。夏は静かに、この海岸を去っていこうとしている。蜃気楼も消えていく。

夢の時間は終わり、僕は現実に目を覚ます。


 別荘にあった母の本を新しい段ボールに詰め直して、帰る準備を終える頃、ゆりさんが、だんなさんの内田さんと一緒に車で迎えにきてくれた。

「やっと戻ってくる気になったのね」

 てきぱきと戸締りを確認しながら、うれしそうに言う。

「ところで何?この段ボール」

 荷物を車に乗せるのを手伝ってくれていた内田さんが不思議そうにたずねる。

「母が読んでいた本が出てきたから、もって帰って読もうとおもって」

 内田さんとゆりさんは顔を見合わせる。

「あら、こんなところにもあったのね。美和子さんは本が好きで、いっぱいもってたからね」

 ゆりさんのわざとらしい態度にも、もう腹が立たなかった。

「もういいんだよ、ゆりさん。隠さなくていいんだ。何もかも知っているんだ。この本だって、僕に見つからないように、別荘の物置部屋の奥に隠していたんだろ」

「何のことかしら」

「母さん、この別荘で首吊り自殺したんだろ」

「何言ってるの?美和子さんは、交通事故で亡くなったのよ。お父様もそう言っているでしょ」

 内田さんは黙って、ゆりさんと僕のやりとりを聞いていた。

「もう嘘つくなよ。僕、もう子供じゃないから平気だから。この前、

ゆりさんが来てくれたとき、悪夢を見るって言ったら、二階に寝るなって言っていただろう。あれ、方角が悪いんじゃなくて、あの部屋で母さんが自殺したんだろ」

 ゆりさんは、呆然としていた。

 また誰かを傷つけてしまうと思うと苦しくなる。けれど今、はっきりしておくべきだと思った。

「母さんは調香の勉強をしていた。TAKASEの一員として自分の存在を認めてもらいたかった。でも、ある香水を完成させることができなくて、自分には才能がないと思い込んでしまった。それが自殺の直接の原因かどうかわからないけど」

 内田さんは、ゆりさんの肩を抱いて静かに言った。

「ゆり、和也君は、もう十八歳なんだ。もう隠し通せないよ」

 ゆりさんは、首を大きく横に振る。

「誰が、誰が言ったの。あの女でしょう。あの女が教えたのね。信じちゃダメ!あんな人の言うことを信じちゃダメ!いい、本当はあの女がお母さんを殺したのよ。あの女に出会ったばっかりに、お母さんは死んだのよ」

「ゆり、やめろ!」

 いつもは穏やかな内田さんが、大声で怒鳴った。

 ゆりさんは、放心したように、立ち尽くした。

「ゆりさん…」

 話しかけようとした瞬間、地面にしゃがみこんで激しく泣き出す。

「ゆりさん、僕、調香師になりたいんだ。だから知らなければならないんだよ。分かってほしい。つらいけど、知らなければ、ちゃんとした大人になれないような気がするんだ。あの女って、香田美和子さんのことだろう。確かに彼女に出会ったことが、このことを知るきっかけになった。でも香田さんは隠し通そうとしてくれた。ゆりさんと同じように、僕を守ろうとしてくれた。本当に偶然だったんだ。この町にある古本屋のおじさんと交わした、ちょっとした会話で知ったんだ」

「本気なの、調香師になるって」

「本気だよ。もう決めたんだ。だから実家に戻る気になったんだ」

「香田さんがすすめたのね」

「違うってば!彼女は猛烈に反対したよ。結局、ケンカしたままさ」

「ゆり、お前が口をだす話じゃない」

 内田さんが、話に割って入った。

「和也君。来年の広告戦略会議が九月中旬にあるんだ。そのとき、

お父さんが帰国する。よく話し合って、それから決めたって遅くはない。それまでに、もっと調香師について調べて、考えておくといいよ。でも、調香師っていうのは、地味で大変な仕事だよ」

「はい……」

「さあ、ここで口論していても解決するようなことじゃないから。とりあえず和也君の家に戻ろう。ほら、ゆり、お前は後ろに乗りなさい」

 ゆりさんは、まだ、しゃくりをあげながら、何か言いたそうな表情で、後ろのシートに乗り込んだ。僕は助手席に座ってシートベルトを締める。最後の段ボールを後ろに積んで、内田さんが運転席に腰をおろす。

 エンジンをかける。車は静かに動き始める。誰も、何も、話さなかった。

 バックミラーに映る海の景色が消えたとき、目を閉じる。どこかで猫の鳴き声が聞こえたような気がした。

 アキオ?そんなわけない。アキオは、今頃お腹いっぱいで、ソファーで丸くなって眠っているはず。そのそばで美和子さんは、きっと本を読んでいるだろう。数日前まで、僕もそこにいたのに。すべてが遠い過去になっていく。


 実家に帰ると早速、荷物を広げて、本を片っ端から読んでいった。簡単そうな香水の入門書から、だんだんと難しい専門的なものへ。数日の間に、すっかり香水の世界に魅せられてしまった。これこそ学ぶべきものだ。決心は、調香について知れば知るほど固くなった。あまりに真剣な様子を見て、ゆりさんもやっと理解してくれるようになった。

「プロの調香師を養成する学校が日本にもいくつかあるみたいよ。資料を請求しといたから、一度、見学に行ってみなさいよ」

 彼女も必死で、進路を考えていてくれた。

「最初に聞いたときは、ビックリしてしまって反対したけど、美和子さんも自分の果たせなかった夢を、息子が実現してくれたら、多分、喜ぶだろうなーと思ってね」

「父さん、賛成してくれるかな」

「大丈夫よ。これだけ和也君が真剣なんだもの、きっと理解してくれるわよ。あなたが自分の将来を真剣に考えていたことを知ったら驚くんじゃないの。義隆さん、あなたのことを、まだまだ子供だと思ってるから」

 ゆりさんの話を聞きながら、クリーニングの臭いが、まだ残っている紺のスーツに着替える。

「どこかに出かけるの?」

「ネットで知り合った、化粧品会社で若い女の子向けのオーデコロンを作っている調香師の人が、会ってくれるっていうから、進路の相談にのってもらおうと思って。ところで、このネクタイおかしいかな」

「ううん。似合ってる」

「晩御飯、外で食べてくる。ご主人が日本に帰ってきているときぐらい、ゆっくりしなよ。僕のことは、ほっといても大丈夫だから」

「そうね。じゃあ、行ってらっしゃい。洗濯物を干したら帰るから」

「サンキュー!進路を決めるまでは相談にのってね。頼りになるのは、やっぱりゆりさんだけだから」


 慣れないスーツを着て、約束の場所に出かける。街はごみごみとしていて蒸し暑い。秋は、まだここには訪れていない。

 待ち合わせの店に、三十分も早く着いてしまった。とりあえずコーヒーを注文して店内を見まわす。店内は若いカップルで賑わっていた。

 いつも、おしゃべりしながら飲んだ、午後のコーヒー。美和子さんも、ひとりぼっちで、お茶の時間を過ごしているんだろうか。彼女も僕のことを、考えていてくれてるんだろうか。海から戻っても、毎日気がつくと美和子さんのことを考えてぼんやりしている。

 別れ際にくれた、香水の入った小瓶。フランス語の辞書を買って最初に「famille」という単語を調べた。意味・家族。

 家族という理想の香り。この香水は、未完成だと言っていた。完璧な「家族」という香りを求めて、その先に見たものはなんだったのだろう。甘いフローラル系の香りは、どこにでもありそうな香水にしか思えない。けれど、この香りの先にある何かを、僕も知る日が来るのかもしれない。

 また新たな「何か」を抱え込んでしまったようだ。けれど今度は今までとは違う。その何かに直面したとき、僕の才能と努力で解決できるかもしれないのだから。

 二杯目のコーヒーを注文したとき、初老の男性が、店に入ってきた。電話で面会を申し込んだ相手だとすぐにわかった。立ち上がり、

軽く会釈する。

「はじめまして、高瀬和也です。お忙しいのに、わがままを言ってすみません」

「いえ、いいんですよ。わたしなんかの話が、お役に立つんだったら、いくらでも話しますよ」

「どうぞ、よろしくお願いします」

 背筋を伸ばして手帳を開く。調香師への道は、もう始まっているんだ。自然と気分が引き締まった。僕たちは、日が暮れるまでその店で話し続けた。

 この相談にのってくれた男性、江藤さんは、もう四十年も調香をしているベテランだった。

 彼は、いくつかの専門スクールを紹介してくれた。現在、日本にもいくつかの本格的な調香師を育成している学校があるらしい。

 調香師の仕事は、香水を創るだけではない。薬、芳香剤、化粧品、石鹸、食品。匂いが必要なものすべてが仕事の対象になる。そして、いわゆる「高級香水」を創作できるのは、ごく少数の限られた、選ばれた人だけだという。そういった、ワンランク上の創香師、フランスでいう「鼻(ネ)」になるには、才能と運と努力が必要だと彼は言った。

「ほとんどのパヒューマーは技術者だよ。創香師は芸術家だ。まだ嗅いだことのない、世の中にない匂いを頭の中で想像して嗅ぐ才能がなくてはならないらしい。僕のような凡才は、嗅いだことのある香水の匂いを若い女の子向けに安い香料を使用してアレンジしているにすぎないけどね」

「驚きました。調香って奥の深い仕事なんですね」

「目に見えない、消えていく、匂いが相手だからね。創作も抽象的だし」

 憧れと期待は、ますます膨らむ。けれど、自分が香水を創作できるような一流の創香師にいつかなることができるのか、少し不安になってきたのも事実だ。

「調香師になるには、何百、何千という香料の匂いを覚えなければならない。高瀬君、君は鼻の記憶力に自信がある?」

「どうですかね、匂いには敏感な方だけど、嗅覚の記憶力なんて、今まで考えたこと、ありませんでしたから」

 彼は、もってきた鞄から、二十個の香水の瓶を取り出した。

「普通に生活していたら、自分の嗅覚の記憶力なんて誰も気にしないさ。今からそれをテストしてあげよう。調香師の道に進むか進まないか、このテストしだいだね」

 テーブルの上には二十個の香水がならんでいた。母の本で名前だけは知っているものもいくつかあった。僕が知っているくらいだから世界的な名香ばかりなのだろう。しかし、匂いを嗅ぐのは、どれも初めてだった。

順番に蓋を開け、その香水について少し説明を聞きながら、次々に匂いを嗅いでいった。

「さあ、目を閉じて。順番をバラバラにするから、匂いを嗅いで名前をあててごらん。もし半分以上あてることができたら、調香師になれるよ」

 目を閉じると、江藤さんが僕の鼻先に香水を近づける。さっきの説明と匂いを思い出しながら、僕はゆっくりと答えた。

「アナイス・アナイス」

「ミツコ」

「オピウム」

「シャネル№5」

「夜間飛行」

「レール・デュ・タン」

「ミル」

「ココ」

「プワゾン」

「アルページュ、かな」

「いま、何個目ですか?」

「ちょうど半分。がんばれ、はい次」

「ホワイト・リネン」

「アルマーニ」

「ローレン」

「シャネル№19」

「カレーシュ」

「シャリマー」

「えーっと、ジッキー」

「エゴイスト」

いいかげん、頭が混乱してくる。

「たぶん、カボシャール」

「フィジー」

「サムサラ、これで最後ですね」

目をあけると、店のお客さんが、僕たちに注目していた。

「どうでした?半分以上当たってましたか?」

「半分どころか」

 江藤さんの声は、震えていた。

「二十全部、言い当てたよ!」

「本当に!」

「ああ、全部当てたのは、プロ以外では君がはじめてだよ。すごい才能だ。ぜひ調香師の道を選ぶべきだよ」

 テーブルに並んだ香水瓶が、光を反射して、キラキラ輝いていた。

 そして、江藤さんは、親切にどこで学んだらいいか、考えてくれた。

「まず、調香の基礎を教えてくれるスクールで香料の正確な記憶を増やしていく。そして大学に進学して、化学について学ぶのがいいと思うよ。フランス語と英語を話せるようにしておく必要もあるな。そして、留学して、フランスのグラースって町にある香水会社の創香師育成教室を志望してごらん。そこは書類選考と面接で、合否が決まる。世界中から応募する若者の中から、数人が入学できるんだ。君なら受かると思うよ。そして現地で修業するんだ」

「ありがとうございます。くわしく教えてくださって。参考になりました。

「いや、君みたいな優秀な才能に出会えて感激したよ。よく自分の才能に気がついたね。きっと、一流になれるよ」

「がんばります。また、何かあったら相談にのってもらえますか」

「もちろん。いつでも電話してきてください。調香師の仕事は、

数時間続けるのが限界だから、時間の都合はつけやすいんですよ」

「それでは、今日は本当に、ありがとうございました」

「ああ、君、TAKASEのデザイナーの息子だって言ってたね。楽しみにしているよ。TAKASEから君の創った香水が発売されるときを」


 帰りの電車のなか、最後に言ってくれた言葉を思い出しては、何度もにやにやしてしまった。

 僕の創った香水。まず最初に美和子さんに贈りたい。

「famille」も、確かに素敵な香水だけど、あの香りには、哀しい記憶が多すぎる。

 僕の創った香水に着替えて、あきおさんの代わりとしてではなく、

僕自身を見てほしい。目を閉じて、美和子さんに似合う香りを想像してみる。

「famille」は少し甘すぎる。落ち着いた、もっと大人っぽい、深みのある香り。そんな香りが、今の彼女にふさわしいと思う。あきおさんを亡くし、親友も亡くし、それでも彼女は、強く、やさしく生きてきた。中年になった今でも、若々しくて美しい。「famille」を完成させるよりも、まったく新しい、彼女のための香水を創ろう。

 電車に揺られながら、まだ嗅いだことのない匂いに想いをめぐらす。真っ赤な夕陽が、ビルの谷間に沈んでいく。二学期が始まる前に、化学の復習をしておこう。

 たまりにたまっている宿題のことなど、すっかり忘れて、のんきにそんなことを考えながら、窓の外を流れる景色を眺めていた。


 たまっている宿題の存在に気がついたのは、夏休みが終わる五日前だった。げっ、と驚き、それからは勉強しまくって、どうにか始業式には間に合った。

 僕は勉強に真剣に取り組むようになった。一年生の頃からの化学のノートをまとめたり、問題集をどんどん解いて、毎日のように放課後になったら職員室に質問に現れる僕を、先生たちは気味悪がった。


「高瀬、勉強するようになったのはいいけど、ちゃんと寝てるのか?お前、貧血で倒れたんだぞ」

 目を覚ますと担任の先生が、心配そうに僕の顔をのぞきこんでいた。

 実は、ここ何日か、ほとんど眠っていなかった。父にどんなふうに話そうかと考え始めると、目が冴えてしまって、眠れなくなるのだ。だから、しかたなく一晩中、遅れをとっている受験勉強をするという日が続いていた。

 今晩、父が帰ってくる。保健室のベッドで横になっている場合じゃないのだ。ベッドを飛び降り、体操服を脱いで、慌てて学生服を着る。

「家まで先生が送っていこうか」

「大丈夫です。大事な予定があるのでタクシーで帰ります」

 慌てて、保健室を出る。

 もう放課後だった。薄暗い校内には、誰もいない。電話でタクシーを呼び、教室に戻って大急ぎで帰る準備をする。

 部活をしている後輩たちが、校門に呼びつけたタクシーに乗り込む僕を、何事かというような目で見ていた。

「成田空港まで大急ぎで」


 空港についたのは、父を乗せた飛行機が到着した直後だった。タクシーを降りてうろうろしていた僕を、早くから迎えに来ていたゆりさんが見つけて、

「なにしてるのよ。遅いじゃない」

と、頭をピシャッとぶったのと、

「ただいま」

と、父が現れたのは、ほぼ同時だった。


「和也、進路はどうするんだ。俺は大学に行ったほうがいいと思っているんだが。お前自身は何か考えているのか」

 家に帰って、コーヒーをいれると、早速、進路の話しになった。

 広告戦略なんて、いつもは広告代理店と義明君にまかせきりなのに、わざわざ日本に帰ってくるのは、やっぱり和也君の進路が気になっているんだよ、と内田さんが言っていたとおりだった。

 調香師になりたい、といえば、母の話を避けて通れない。それでも、僕は決心を固めていた。行きたい学校についても十分に調べ、反対されたときの説得の準備は万全だった。

「もちろん大学に進学するよ。志望校としては、N大の理学部を第一志望にして、私立大学の理学部を数校、滑り止めで受けようと思っている」

「理系クラスにいるんだったな。お前はやっぱり芸術やモードには興味をもってくれなかったんだな」

「いいや。TAKASEの役に立つために、僕は理学部へ行くんだ。あと外国語の会話スクールで、英語とフランス語をマスターしたい。それから…」

 用意しておいた、調香の専門学校の資料を広げる。

「ここのパフューマーコースの土日クラスにも行きたいと思っている」

 はっとした。父の表情が変わる。どうやら分かったようだ。

「まさか、お前」

「そう、そのまさかだよ。僕、調香師になるよ。決めたんだ、僕がTAKASEの専属創香師になって、オリジナルの香水を創ってみせるよ。一人前になるまで教育にずいぶんお金がかかるけど、許してくれるかな」

 しばらく父は、イエスともノーとも言わなかった。

「どうして調香師になりたいなんて思ったんだ」

「父さんに似た兄さんが、デザイナーとしての才能を受け継いでいたように、母さんに似ている僕は、きっと母さんから何かを受け継いでいると思ったんだ」

「もう何もかも知っているのか。美和子が死んだときのことも」

「たぶんね。本当は自殺だったってことも」

「怖いなぁ。血のつながりってやつは。あんなに小さいときに死んだ母親なのに、心はつながっているんだ。和也や義明のなかで、美和子は今も生き続けているんだなぁ」

「兄さんのなかにも?」

「義明が日本に帰る前に言ってたんだよ。あいつ調香やらせたら才能あるかもしれない。ってさ。ドキッとしたよ。でも、まさかって思ってた。やっぱり自分で気がついたんだ。さすが美和子の血が流れているだけあって、ふたりとも勘がいいな」

「兄さん、そんなこと言ってたんだ。僕、江藤さんっていう化粧品会社のベテラン調香師にテストされたんだ。才能があるかどうか」

「結果はどうだったんだ」

「ばっちりさ。絶対にこの道に進むべきだと言われたよ。それでやっと最終的な決心をすることができたんだ」

「美和子も本当に香水が好きだった。思い出すなぁ、こんな話をしていると」

 いつもは決して母のことを話そうとしなかった父が、いま母の思い出話を話してくれている。不思議だった。兄も、僕と同じようなことを考えていたなんて。父は遠いところを見るような目をして、母のことを話している。

「いつも、香水に関する本ばかり読んでいた。俺が海外に出かけて、家を空けることが多いだろ。おみやげは何がいいか聞くと、決まって香水がほしいって言ってた」

「いつごろから、自分で調香を始めたの?」

「さぁ、どうだったかな。義明が小学生になって、自分の時間ができるようになったからじゃないかな。それで、浮気してもすぐにばれちゃうんだよ。どうしてだか分かるか」

 僕は首をかしげる。なんだ、母さんが生きていた頃から、女たらしだったのか。妻が死んだから、その反動で女に走ったかと思っていたのに。

「服や手や髪に、女の匂いがするって言うんだ。モデルのが移ったなんて言っても無駄。美和子は本当にやきもち妬きで困っていたよ。そうかぁ…調香師になりたいか。和也は顔も性格も美和子に似ているからなぁ」

「僕、一生懸命がんばるから。フランスに留学するのが、一応の目標なんだ」

「まぁ、とりあえず、大学に受かることが第一だな。しっかり勉強することだ」

居間の隅に重ねてあった、別荘から持ってきた本に気がつくと、何冊か取り上げて、父は寝室に入った。

 僕も二階の勉強部屋に戻る。もう迷うことはない。真っ直ぐに走っていけばいいんだ。鞄から、化学の問題集を取り出す。やらなければならないことは、山ほどある。とりあえず、父の言うとおり、大学に受からなければ話にならない。合格したら母のお墓に報告しに行こう。美和子さんにも、会いに行こう。僕が本気だってことが伝わったら、彼女はきっと応援してくれると信じていた。

 とりあえず、考えごとをしている暇はなかった。遅れている受験勉強を、やって、やって、合格しなければ。

 昼も夜も本当に人が変わったように勉強した。クラスメイトが高瀬は頭がおかしくなったんじゃないかと噂するほど、勉強しまくった。片時も単語帳を手放さず、昼休みも録音しておいたラジオの英語講座を聞き、風呂のなかでも参考書を読んでいた。

 成績は、おもしろいようにぐんぐん伸びた。

「和也君すごいじゃない」

 模擬試験の成績表を、ゆりさんに見せるたびに驚かせた。

「ちゃんと勉強すれば、頭よかったんだ。この調子でいけば、絶対合格するよ」

 そういって、自分のことのように、よろこんでくれた。


 夜中に勉強していると、足元から、しんしん冷えてくる。睡眠不足のせいで体温自体が下がってきて、暖房を入れても、からだの芯までは温まらない。

 秋はいつの間にか通りすぎ、街は冬の風に吹かれている。あの海辺の町にも、もう冬が来ているんだろうな。静かな海を思い浮かべる。

 僕は勉強に熱中していれば、他の考えごとを忘れることができる。未来の自分を想像して、頑張ることもできる。ゆりさん、内田さん、父、兄、クラスメイトや先生たち。いざというときは、誰かが支えてくれる。

 けれど美和子さんは、あの海辺の家にひとり。アキオという亡くなっただんなさんと同じ名前をつけた猫と、過去を見つめて暮らしている。苦しいとき、誰が彼女を支えるのだろうか。哀しいとき、誰が慰めてくれるのだろうか。彼女は大人だから、ひとりで耐えている。過去の重さに。愛した人への想いの深さに、ひとりの夜の寒い孤独に。でも、いつまでそれが続くのだろう。いつまで耐えれば、救われるのだろう。

 明かりを消してベッドに横たわる。

 冷たくなっていた身体は、毛布にくるまっていると、温かくなってくる。身体が温まると、自然に眠たくなってくる。ぐっすり眠って、朝になったら目が覚めて、新しい一日を始まる。

 たぶん、冷たくなった心にも、きっと毛布が必要なのだ。安心して眠って、新しくスタートすることが必要なのだ。

 十一月。冷たい秋風に人は立ち止まる。冷え切ったからだに、眠れない心を抱いた自分に気づいたとき、温めてくれる誰かが側にいなかったら。耐え続けることから、逃げ出したくなっても、不思議じゃない。

 季節はずれの海でひとり。母が死んだのも、この季節だった。


第一志望のN大の合格発表。僕の受験番号もちゃんと掲示されていた。翌日、英語とフランス語会話のスクールと調香師養成スクールの手続きを済ませ、僕は別荘へ向かった。

半年間、美和子さんに何通か手紙を送ったけれど、一度も返事はなかった。

 僕は言いたかった。もう過去にこだわらずに、あきおさんとの思い出に縛られず、美和子さんの人生を探すべきだと。

 着いたとき、もう日が暮れようとしていた。美和子さんの家の電気は消えていた。

 ピンポーン。ピンポーン。

 何度チャイムを押しても返事がない。こんな時間に、どこかに出かけているなんてめずらしいな。それとも眠っているんだろうか。

しかたがないので、今日は別荘に泊まって、明日の朝もう一度来てみよう。そう思って引き返そうとしたときだった。

 ニャーオ!ニャーオ!

 ニャーオ!ニャーオ!

 玄関のなかから、激しい鳴き声がした。

「アキオ!おい、美和子さんはいるのか?」

ニャーオ!ニャーオ!

 ニャーオ!ニャーオ!

 ただ僕の声が懐かしくて鳴いている、というのとは違っていた。のどがおかしくなるほど、裂けるように鳴いている。

 ただごとではない。これだけアキオが鳴いているのに、美和子さんがなかにいて出てこないわけがない。

 もしかしたら。

 郵便受けを見てみる。昨日の朝刊が、まだ入ったままだ。彼女がアキオを家に閉じ込めたまま、何日も出かけるだろうか。相変わらずアキオは鳴き叫んでいる。ガリガリと玄関を、内側からかきむしっている。

 近くに落ちている大きめの石を拾って裏にまわる。ガラスの1枚くらい、もしものことを考えたら安いものだ。

 ガシャン。ガラスを割って、鍵をはずす。

 ニャーオ!アキオが足元に飛びついてくる。

「美和子さん、美和子さん、どこにいるの?」

 寝室のドアが開いている。アキオがそこに入っていく。

「美和子さん!おい、しっかりしろ!」

 慌てて119に電話をかける。

「もしもし、精神科で一昨日処方された一ヶ月分の薬を全部一気に飲んじゃったみたいなんです。いつ飲んだのかわからないんですけど、もうだいぶん経っているみたいです。はい、息はあります。はい、香田美和子です。住所は……」

淡い紫色のブラウスと黒いスカート。床にごろんと横たわっている。抱き起こしてベッドに寝かせる。身体が冷たくなっている。

「死ぬなよ。まだ、早いよ」

 夕暮れ時の静かな海に、救急車の派手なサイレンが近づいてくる。


 どうにか命だけは、とりとめることができた。けれど、彼女は眠り続けた。遺書も何も残していなかったので、自殺未遂の原因はわからなかった。

「和也君、美和子さんと猫の世話は、わたしがするから、あなたは入学の準備をしなさい。外国語スクールも、ずっと休んでいるでしょう」

 意外なことに、あれほど美和子さんを嫌っていたはずのゆりさんが、入院の手続きや準備を、おろおろするばかりの僕に代わってやってくれた。

「ありがたいけど、心配で、他のことには、とても集中できない」

 僕は美和子さんの手を握り締めて、早く意識が戻ることを祈り続けた。

「じゃ、アキオちゃんのエサやりは、わたしがやるから、心配せずに、ここにいてあげて」

 そう言って、ゆりさんは、にっこり笑って帰っていった。


 それは桜のつぼみが開き始めた温かい日の午後だった。僕は、

コンビニで買い物をして、病院に戻ってきたところだった。病院のロビーで、場所が分からないようで、きょろきょろしている男性に声をかけた。

「どちらにご用事ですか」

 驚いたことに、その男性は進路の相談に乗ってくれた、調香師の江藤さんだった。

「あ、江藤さん、どうしてここに?」

「おぉ高瀬君じゃないか!友達がここの病院に入院しているって聞いたものだから、やってきたんだけど、広すぎて迷子になっちゃって、またここに戻ってきたところなんだよ。君は?」

「知り合いが入院しているから、看病しているんです」

「香田美和子さんって人の病室を探しているんだけど、わかるかな?」

「えっ、江藤さん、美和子さんと友達なんですか!」 

「君こそ、知り合いなの?」

美和子さんにも、友達がいたのか。それにしても、それが江藤さんだったなんて。彼も多分、同じことに驚いているのだろう。

「とにかく、病室に案内しますよ。でもまだ意識が戻ってないんです」

「病気?」

「いえ。自殺未遂です」

 彼は驚かなかった。そうか、とつぶやいただけで、それ以上なにも言わなかった。


 美和子さんの病室を出て、江藤さんと僕は、病院内にある喫茶店に入った。

 第一志望の大学に受かったことを報告してお礼をいうと、ふたりは同時にたずねた。

「美和子さんとは、どういう知り合いなんですか?」

僕から簡単に説明した。海での出会い、しばらく一緒に過ごしていたけど、母のことや進路でもめて、ひさしぶりに訪ねたら、こんなことになっていたと。

「大変だったね。助かったのは、君のおかげだったのか」

江藤さんは、僕に深々と頭を下げた。そして、美和子さんと自分の関わりを話し始めた。


 現在、江藤さんが勤めているのは、大手の有名化粧品メーカーだ。けれど、若い頃には、もっと小さな会社にいた。江藤さんの入社した二年後に、なかなか優れた調香センスをもった青年が入社してきた。彼の名は石橋秋生。美和子さんのだんなさんになる人だった。

「秋生はセンスもよかったし、本当に真面目で優しいやつだった」

 歳も近かった江藤さんと秋生さんは、すぐに仲良くなった。秋生さんは、家庭的に恵まれない環境で育ち、自分で働いたお金でスクールに通って勉強し、調香師になった人だった。

「両親は小さいときに離婚したと言っていた。あいつは、家庭的な温かさに飢えていたんだろう。だからこそ、人にはやさしかったんだろうね」

 そんな秋生さんの人柄のよさ、センスの良さが、社長の香田氏の目に留まった。社長には、一人娘がいた。それが美和子さんだった。

秋生さんに美和子さんとのお見合い話がもちあがった。はじめは、秋生さんは、この話を断った。社長のお嬢さんには、自分なんて釣り合わないという理由で。

「でも本当は、秋生には夢があったんだ。お金がたまったら会社を辞めて、フランスに留学して、本格的に調香師の修業をしようと思っていたんだ」

 それに秋生さんより十歳年下の美和子さんは、そのときまだ高校を卒業したばかりだった。

「でも、どこから聞いたのか、社長は秋生の留学の夢を知って、もし娘と婚約したら、三年間、フランスに留学させてやる、と言い出したんだ。男ならこんなおいしい話ないよね。夢をかなえられる上に、社長令嬢と婚約できるなんて。結局、秋生は、美和子とお見合いしたんだ」

 ところが、会ってみると、年齢よりずっと美和子さんは大人っぽくて、おまけに美人だった。

「秋生のほうが、彼女にほれちゃったんだよ」

 社長令嬢なのに、わがままなところが少しもなく、十八歳とは思えないほど、しっかりしている美和子さんに秋生は夢中になってしまったんだよ。

「それに、なにより二人は気持ちが通じあったんだと思うよ。彼女も家庭的なものに憧れがあったんだ。実は、美和子は社長の養女だったんだよ」

 社長の香田氏の妻は、身体が弱くて子供を産むことができなかった。子供好きの夫婦は、両親を亡くした子供たちを、夏休みや冬休みに孤児院から預かって、家庭的な生活を体験させるボランティアに参加していた。交通事故で両親を亡くし、親戚のなかに引き取れる人がいなかった美和子さんは、ある孤児院から小学校三年生の夏休みに香田さん夫婦のもとに預けられた。

 素直で、勉強も良くでき、からだの弱い奥さんの手伝いや話し相手を嫌がらずにする、かわいらしい美和子さんを、奥さんはすっかり気に入って、養女として引き取った。

「だから驕り高ぶったところがなくて、温かい家庭を築きたいと思っていた秋生の気持ちを理解してやれたんだろうね」

 古本屋のおじさんの言葉を思い出す。大切な人に先立たれる運命。夫や親友だけでなく、実の両親も亡くしていたのだ。

 ふたりは婚約して、香田家の海の別荘で一緒に暮らし始める。そして、一年が過ぎた頃、秋生さんはフランスに旅立つ。そして二度と日本に戻ることはなかった。

「だから、だんなさんといっても、美和子と秋生が一緒に暮らしたのは、たった一年間だし、まだ婚約の段階で、籍も入れてなかった。秋生が自殺したって聞いたとき、彼女があれほど哀しむとは思ってもみなかった」

「江藤さんは、どうして美和子さんと仲良くなったんですか」

「秋生から見せてもらった写真を見て、ひとめぼれしたんだ。秋生が死んだあと、俺は秋生の親友だったと言って、あいつの思い出話を利用して彼女に近づいた。秋生が死んで三年たった頃、プロポーズしたんだ。でも振られたよ。僕だけじゃない、美和子は誰も受け入れなかった」

「江藤さんは今……結婚なさっているんですか?」

「いいや。いまだに片思いだよ。もう結婚なんてどうでもよくなってきた。美和子にときどき会って、彼女の秋生への思い出に付き合うだけでもいいと思っている。でも、最近ずいぶん塞ぎ込んでいたから気にしてたんだ」

「もしかしたら、僕のせいかもしれないんです」

「たぶんね。わかるよ、美和子が君に惹かれるのは。最初に会ったときは気づかなかったけれど、なんとなく似てるからな、秋生に」

「やっぱり、そうなんですね」

「俺は、彼女を思い出から救い出して、新しい人生を見つめさせることができなかった。でも、まだ若い君ならできるかもしれない。最初は秋生の代わりでも、いつか君自身を見てくれるようになる日が来るよ」

 美和子さん。早く目を覚ましてほしい。目を覚まして僕を見てほしい。母の身代わりなんかじゃない。僕ははっきりと、自分の気持ちに気づいた。僕は彼女を愛している。

「早く意識が戻るといいな」

「戻りますよ、きっと。彼女はただゆっくり眠りたかっただけなんだと思います」

 秋生さんのところになんて、行ってほしくない。僕は祈る。僕のところに帰ってきてほしい、と。


 かずやくん。と、彼女は僕を呼んだ。意識が戻ったのは入院して十日目の夜だった。

「美和子さん!気がついたんだね。今、看護婦さん呼ぶから」

 彼女の枕元のナースコールを押す。

「どうして……ここにいるの。わたし、もうあなたには会わないって決めたのに。やっと、心に決めたのに」

「僕には会わないって決めて、秋生さんのところに行くつもりだったの?」

「夢をみていたの。和也君が、わたしの手を強引に掴んで、どんどん引っ張って。気がついたらここにいたの」

カツ、カツ、カツ。

廊下に響く足音が、どんどん近づいてくる。


翌日に詳しい検査が行なわれ、ずっと食事を食べてなかったせいで、栄養失調になっているけど、きちんと三食食べるようにすれば、大丈夫だろう、ただ精神面で治療やカウンセリングが必要なので、しばらく入院になります、とのことだった。

毎日の散歩で順調に体力も回復し、食欲も戻ってきた。彼女の好きなピンクのカーネーションを抱えきれないほど買ってきて部屋に飾った。ゆりさんも自慢のケーキを焼いてきてくれて、美和子さんは大喜びで三切れも平らげた。僕は本や雑誌をたくさん買ってきた。

夏の穏やかな毎日が戻ってきたようだった。

「僕、第一志望の大学に受かったんだ。理学部に進学することになったんだよ」

「おめでとう。こんなところにいていいの?準備、いろいろあるんじゃないの?」

「いいんだよ。どうせ地元の大学で家から通うことにしたから。それから、英語とフランス語の会話スクールにも行くことにした。あと、土日は調香師養成講座にも通うんだ」

「そう、大忙しね」

「実はね、ある調香師の人と出会って、いろいろアドバイスをしてもらったんだ。その人にテストしてもらったら、僕には才能があるっていうんだ。絶対、この道を進むべきだって言われたんだ。その調香師、江藤さんっていうんだ。美和子さん、彼もこの前、お見舞いにきてくれたんだよ」

「江藤さんが」

「うん。彼から美和子さんの話をいろいろ聞いたよ」

「秋生のことも……」

「うん、素敵な人だったそうだね。でも、僕は秋生さんとは違うんだ。僕自身を見てほしいんだ。僕は絶対、美和子さんを悲しませるようなことはしないから。だからもう死のうなんて思わないで」

「和也君、あなた勘違いしてる。わたし、あなたのことを見ているわ。確かに出会ってすぐのときは、秋生に似ていたから、そばにいてほしいと思っていたかもしれない。でも、秋生とあなたは違う人よ」

「そうだよ。だから僕は美和子さんを大事にするさ。立派に一流の創香師になって、母や秋生さんが果たせなかった夢を実現してみせるよ。美和子さんに、その姿を見てもらいたいんだ」

「ねぇ、和也君。あなた今いくつ?」

「十八歳だよ」

「わたしもうすぐ四十九歳になるのよ」

「だから、なんなの?」

「だから苦しいのよ。もう会いたくなかった。あなたこそ、あなたこそ、わたしを美和子さん、あなたのお母さんと重ねて見ているのよ。男の子は、最初に無意識のうちに自分の母親に恋をする。ただ、それが他人のわたしに重なって、あなた気づいてないだけなのよ。みんな、いつかは恋人を作って、別の世界に飛び立っていくものなの。あなたが本当に大人になって、一流の創香師になるためには、わたしがそばにいちゃいけないの」

「まだ四十八歳なのに。美和子さんは秋生さんが死んだ二十代のころから、そうやって過去ばかりみて、晩年みたいに生きているんだろ」

「もう誰か大切な人なんてほしくないの。失ったときの絶望を思ったら、何もないほうがいいの」

「間違っているよ。「famille」なんて、もうつけるな。僕が新しい香水を創ってやるよ。もっと未来をみてくれよ。失ったっていいじゃないか。そうやって、いつか死ぬのを待ってるのかよ」

「あなたはまだ若い。才能もあって、なかなかハンサムだわ。性格だってこんなにやさしい。一緒に夢をもって、目標をめざして、共に歩んでいけるパートナーがきっと見つかるわ。こんな、おばさんにかまっていないで、あなたこそ、未来を見なさいよ。わたしもあなたのこと大切に思っているわ。だからこそ、あなたのお荷物になりたくないの。あなたの人生を邪魔したくないのよ」

「どうして?邪魔なんかしてないよ。美和子さんに出会えたからこそ、調香師という道をみつけることができたんだ」

「もう会いたくないの!!分かって和也君。あなたがいなくなったら、わたしはまた静かな気持ちで暮らせるの!」

「本当は、美和子さんが僕のこと邪魔に思っているんじゃないか!僕のことガキだと思っているんじゃないか」

「そうね。そうかもしれない」

「あんたの言うとおりにするよ。もう二度とあの海辺の家にも行かない。死んだってしらない。そうやって悲劇のヒロインみたいな生活送ってればいいんだよ。そのうち秋生さんとやらがお迎えに来てくれるだろ。でも、最後にひとつだけ、言わせてもらうよ。いったい美和子さんは、誰のために、何のために、生きているんだよ!」

 つい頭に血が上り、そう捨て台詞を残して、僕は病室を飛び出した。


気がついたら、夕暮れの海岸をひとり、歩いている僕の後ろにアキオがついてきていた。

「もう、お前とも、お別れだよ」

 アキオはいつもと変わらず、僕をじっと見つめていた。

 夏の真っ赤に焼けた夕暮れとは違い、穏やかなローズレッドに、空も海も染まっている。

 昨年の夏、夕暮れ時に、美和子さんが話してくれた人魚姫の話を思い出す。おとぎ話の人魚姫は、王子様の幸せを守るために自分は海の泡になってしまう。

「ねぇ和也君。人魚姫のお話をどう思う?」

 突然、彼女は僕に質問した。

僕は人魚姫はかわいそうだと言った。自分を裏切って他のお姫様と結婚しようとする王子様なんか、ナイフで刺して、人魚に戻って海に帰ればよかったのに、と。

 「そうやって海に帰ることが、本当に幸せかしら。わたしは泡になった彼女は幸せだったって思うの」

 美和子さんは、何か思い詰めたように話していた。

 秋に傾きかけた夕陽は、真っ赤に燃えていて海は血のように、どこまでも深い赤が続いていた。

 沈む太陽。燃え尽きる夕陽。血の色に染まる海。そして海は深い闇に続く。

「わたしも泡になって消えてしまえたらいいのにってこんな夕暮れには思うの。でも、人を愛することさえ、知らないわたしは、赤い海を泳ぎ続けなければいけない。わたしは泳いでいるの。流れる水のなか、流れない時間のなか。待っているの。そのときが来るのを。いつか泳ぎ疲れて、永遠の眠りを許されるときを」

 不思議だった。彼女は誰かを深く愛しているように見えるのに。彼女こそが、いちばんに泡になってしまいそうなのに。

 なぜ死のうとしたのか。もう泳ぎ疲れてしまったのだろうか。いいや、違う。多分、泡になろうとしたんだ。彼女は「本当に愛すること」を知ったのだ。その人を守るために、自分が消えようとしたのだ。

「アキオ、僕は人魚姫の王子みたいな男じゃないぞ。海の底までだって、彼女を迎えに行くさ。いつか必ず迎えに来るから。そのときまで、美和子さんを守っていてほしい」

 ニャーオ。

 グリーンの瞳のなかに、赤い夕陽が映っている。

 時間は流れている。僕の上にも流れている。大人になるために。彼女の上にも流れている。心にできた傷を癒すために。


 時間は超特急で流れていった。いくら時間があっても足りないくらい大学生活はハードなものになった。理学部は一年生から教養課程だけでなく、専門課程も入っていたので、時間割はぎっしり詰まっていた。夕方からは英会話のクラス、続いて仏語会話の授業を受け、家に帰るのは十時過ぎ。土日は朝から夕方まで調香師の養成学校で授業と自習。休む暇も、考える暇もないのは、大変だったけれど、精神的にはかえって楽だった。

 あれ以来、美和子さんには会っていなかった。病院の先生からも、彼女が精神的に安定するまでは、そっとしておいたほうがいいと言われていた。

 精神科のカウンセラーのところに週一回、カウンセリングに行くときは、ゆりさんが彼女に付き添った。

「美和子さん、少し変わったわ。なんていうんだろう、イキイキしてきたのよ。カウンセリングに行って、心のなかに溜め込んでいるものを吐き出すだけでもいいみたいね。わたしにも少しずつ心を開いてくれるようになったし」

 ゆりさんは、帰ってくると必ず電話をくれて、美和子さんの様子を詳しく話してくれた。

 同じくらいの年頃のふたりは、いつのまにか仲良くなっていた。美和子さんも、ゆりさんのように明るい友達ができて、毎週会いに来てくれるようになっただけでも、生きる楽しみができたのかもしれない。

「美和子さんからは、何も聞いてこないけど、やっぱり和也君のこと、気になってしかたないみたい。あなたのことを話すと、表情が変わるの。本当にかわいい人ね。若い女の子みたい。あんなに純粋だからこそ、傷つきやすいんだろうね」

 こんなふうに、ゆりさんからの話を聞くたびに、車を飛ばしてあの海に、美和子さんに会いに行きたい気持ちを抑えるのが大変だった。

 でも、行かなかった。今はまだ行く時期ではないと思った。僕にできるのは、学ぶことだけだった。大学に行って化学を学ぶ。講座に通って、香料を記憶する。英会話も仏会話も、ずいぶん上達してきた。ラジオの語学番組も毎日欠かさず聞いた。学んで、早く大人になって、美和子さんを僕の手で幸せにする。抱きしめて、家庭の温かさを教えてあげる。僕は未来を見ている。僕の未来に彼女は待っている。


「おい、元気にがんばっているか。実は今日はいい知らせがあるんだ」

 大学二年生の夏のある日、めずらしくパリにいる父から国際電話が、かかってきた。

 急にフランス留学のチャンスが訪れた。父の友人の紹介で、ある調香師が、僕の話を聞いて弟子入りをOKしてくれたというのだ。その調香師・ジャンさんは、最近までパリの有名な香水会社のチーフパフューマーとして活躍していたが、過労で肝臓を患ったのをきっかけに、フリーの調香師になって、グラースに戻り、父親のアトリエを継ぐことになったらしい。

「彼の父親も、調香師なんだ。そして大勢の調香師を一人前に育て上げた実績がある。ジャンも、父親のように才能のある若い人を、

一流に教育するのが長年の夢だったそうだ。なかなか天才と呼べるような調香師はいないからね。彼ならTAKASEのブランドにも非常に理解のある人だから、俺も安心してお前の教育を任せられる。彼は学生のころ、香道の勉強をしに日本に留学した経験もあって、

簡単な会話なら日本語でも意思の疎通ができるようだし。どうだろう、フランス語も少し話せるようになったのなら、一度、彼に会ってみないか」

「もちろん、会いにいくよ」

 このときくらい、デザイナーの父を持ってよかったと思ったことはなかった。

「チャンスをものにするのよ。絶対、和也君らしく自然にふるまえば大丈夫だから。次に行くときは弟子として、留学できるようになることを祈ってるわ」

成田まで見送りにきてくれたゆりさんは、しっかりと僕の手を握ってそう言ってくれた。

「ああ、必ず。美和子さんに伝えておいてほしい。フランスから戻ったら会いに行くと」

 香水の都グラース。秋生さんが命を絶った場所。何か分かるかもしれない。飛行機が離陸する。僕は日本を飛び立った。


 パリに着くと、内田さんが迎えに来てくれていた。

 僕は父や兄のアトリエでの仕事の様子やTAKASEのショップを見学した。何日か、父と兄の住んでいる家で過ごし、パリ観光を楽しんで、父の仕事が一段落つくのを待って、僕と父はジャンさんに会うためにグラースに旅立った。

 ニース空港まで飛行機で行き、そこからタクシーに乗る。海岸沿いの広い道を走ると、あの海を思い出す。十五分くらい走ると、ゆるやかな上り坂に入っていく。薄いピンク色の壁の家が、並ぶ景色を眺めているうちに、斜面に広がるグラースの町が姿を見せる。

「おい、高い煙突が、いくつも見えているだろ。あれは全部、香料製造所のものだそうだ」

 父の説明を聞き、僕の胸は高鳴る。中世の古都の雰囲気を残す、ライトブラウンの町。水が豊かで、花の栽培に適した温暖な気候と水はけのよい土地。町に入るとすぐに甘い匂いを感じる。僕たちは町の市場の近くでタクシーを降り、おみやげに果物や蜂蜜を買って、

ジャンさんのアトリエに向かった。


「Je le commence et c'est Kazuya Takase.(はじめまして、高瀬和也です)」

 僕はカタコトのフランス語で恐る恐る挨拶した。

「Je suis bien venu de Japon à une telle place éloignée…(日本からこんな遠いところまでよくきたね…)」

 だんだん早口になって、なんとか聞き取るのが精一杯になる。けれど、どうやら、かなり歓迎してくれている雰囲気だ。見かけは頑固そうな、怖そうな人に見えるけど、実際は気のいいおじさんのようだ。さすが父は、笑いながら談笑している。

 ジャンさんはまず、仕事場に僕たちを案内してくれた。机の上にはパソコンが置かれ、棚には何百という香料の入った小瓶が置かれている。まず、頭のなかで考えた処方箋をパソコンに入力し、プリントアウトしたものを見ながら助手が調香する。それをジャンさんがムエットにつけて匂いを嗅いで確かめる。また処方箋を書き直す。自分の想像した香りと実際の香りが一致するまで、何回もそれを繰り返し、ひとつの香水を創りあげる。

 僕はここで、江藤さんがしたのと同じような嗅覚テストをされた。今回は二十五種類の香水の匂いを嗅いで、名前と匂いを覚えたあと、一時間後に再度、匂いを嗅いで名前を当てる。今度も全部の香水を言い当てることができた。これにはジャンさんも父も驚いた。

「Kazuya a le talent.Je veux le fils confier Yoshitaka, je.Je le mets en haut en l'excellent perfumer qui peut donner arôme d'encens précieux de TAKASE dans le futur(カズヤは才能がある。ヨシタカ、僕に息子さんをまかせてほしい。将来、TAKASEから名香を出せるような立派な調香師に育ててあげるよ)」

「Je vous confie le plaisir.Veuillez l'enseigner strictement(よろこんで、お任せしますよ。厳しく指導してやってください)」

 父はにこやかに答えた。

 僕は深々と頭を下げた。

 こうして僕の弟子入りは決まった。仕事が暇になる冬に来てほしいという。まだまだフランス語が不安な僕は、大学は前期で退学し、

本格的な仏語会話のレッスンを受けて、十一月に、ここに来る約束をした。


 その日は、ジャンさんの家に泊まることになった。ジャンさんはまだ結婚していない。お母さんと、お父さんのエドさんの三人家族だ。エドさんは、香水会社の調香師養成講座の先生をしていたほどの実力をもつ香水作家だった。

「Non, j'ai été surpris.Est-ce que votre élève est un garçon japonais?(いや、驚いた。お前の弟子は日本人の男の子かい)」

 エドさんは、顔をしわくちゃにして、僕に笑いかけてきた。僕の顔をしばらくじっと見つめた後、彼は奥さんにこう話しかけた。

「Il y aurait que j'ai appris une fois à un garçon japonais dans les vieux jours.J'ai envie quelque peu de ressembler à l'enfant.Je suis une mère, vous savez(昔、日本人の男の子を教えたことが、一度あっただろう。なんだかその子に似ているような気がする。なあ、母さん)」

「Ce sera Akio.Si c'est un japonais, n'importe qui semblera même comme Akio.(アキオのことでしょう。いやねぇ、日本人だったら、誰でもアキオと

同じに見えるんでしょう。あなたは)」

えっ、アキオって今、確かに言ったよな?アキオって人を教えたことがあると。

「La personne, qu'est-ce que vous faites?Est-ce que vous êtes retournés à Japon?(その人、どうしましたか。日本に帰ったんですか。)」

「Je dis et suis désagréable..... encore en a besoin.Je verrai une colline là.Il repose dans le cimetière de cette colline(いいや。今もグラースにいるよ。あそこに丘が見えるだろう。あの丘の墓地に眠っているよ)」

「Je suis mort(死んだんですね)」

「Oh, c'était un bon perfumer, mais a commis le suicide parce que je n'ai pas paru le laisser à un écrivain du parfum lorsque l'honnêteté a dit lorsque vous avez eu le meilleur retour à Japon.Parce que c'était le type qui était sérieux avec la droiture, ce serait un choc(あぁ、いい調香師だったが、香水作家にはなれそうもなかったから、日本に帰ったほうがいいと正直言ったら自殺してしまったんだ。真面目で一途なタイプだったからショックだったんだろうな)」

 運命とは恐ろしいと感じた。たぶん、Akioは、美和子さんのだんなさんになるはずだった秋生さんに違いない。僕は秋生さんと同じアトリエで、創香師を目指すことになったのだ。その晩、結局、一睡もできずに朝を迎えた。

 翌朝、僕はニース空港に向かう途中に、朝市で花束を買って、丘の上の墓地に向かった。エドさんの言ったとおり、Akio.Ishibashiと彫られた墓が、そこにあった。

「和也、どうしたんだい?どうしてここに行きたいなんて急に言い出したんだい?」

 父は、花束を抱えて、じっと墓を見つめたままの僕に心配そうにたずねた。

「ただ、なんとなく。運命を感じたから」

 花束を墓の前に置いた。

 僕は心のなかで秋生さんに話しかけた。美和子さんをあなたとの思い出から連れ出します。あなただって、思い出にしばられたままの美和子さんを見ているのはつらいでしょう?僕は美和子さんを愛しています。だから、彼女をあなたから奪います。

 そんな僕を、父はただ不思議そうに見つめていた。


 アキオが遠慮がちに、僕たちの後をついてくる。秋の風は、夕方になると、もうずいぶん冷たい。砂浜には空き缶が転がり、僕たち以外に人の姿はない。

 薄いブラウス一枚で出てきた美和子さんは、肌寒そうに自分の腕を抱いている。抱きしめて温めてあげようと、彼女の肩に腕を伸ばす。けれど彼女はするりと腕を抜け出ていく。数歩前を歩いていく彼女を、僕は背中から抱きしめた。

「もうシャツ一枚じゃ肌寒い季節ね」

彼女はおとなしく、僕の胸にもたれかかってくる。

「僕、フランスに、グラースに行くんだ」

 彼女は、うつむいたまま、僕の目を見ずに頷く。

「ゆりさんに聞いたわ。本当に今度こそお別れね」

 僕は彼女の言葉は無視して話を続けた。
「秋生さんのお墓に行ってきたよ。彼はもう、この世にいないんだ。僕は決めたよ。今度戻ってくるときには、必ず、美和子さんを迎えにくる。結婚しよう」

 用意しておいた指輪をジーンズのポケットから取り出し、彼女の細い指にはめる。

「本物のダイヤは、もう少し待ってて。安物だけど、今はこれで我慢して」

「受け取れない」

 彼女は指輪をはずして、僕から離れる。

「受け取ってくれよ」

「まだ分からないの?困った坊やね。約束なんて意味のないものなの。指輪を信じて喜べる歳じゃないの。誰かいい人に出会ったときのために、これはとっておきなさい」

「ウソツキ」

 彼女を砂浜に押し倒して、もう一度、力ずくで指輪をはめた。

「放して……」

「嫌だ。もう放さない。いつか人魚姫の話をしてくれたこと、あったよね。美和子さんは僕を愛して、海の泡になって消えるつもりなんだろ。そんな風に生きることが美しいと思っているんだろ。それとも、僕にも愛想をつかして疲れきって、海の底に横たわる人魚の屍のようになるのか。そんなの嘘だよ。本当は誰か、ぎゅっと抱きしめてくれる人が現れるのを待っていたんだろ。歳なんて関係ないよ。美和子さんだって本当はそう思っているんだろ。素直になれよ。僕はあきらめないよ。過去じゃないさ。僕の未来に美和子さんの姿は見えるんだ」

 僕の言葉に合わせて涙があふれ出す。砂の上に扇のように広がった長い黒髪の上に、一滴、また一滴とこぼれ落ちる。

「信じていいの?」

「信じてほしい」

「待っていていいの」

「必ず迎えにくるよ」

 夕陽が照らし出す彼女の顔には、深い影ができて美しい。夕陽が沈んでいく。今日の彼女からは香水の匂いがしない。そのままの彼女が、いま目の前に横たわっている。そっと僕は唇を重ねた。彼女の腕が、僕の背中にまわる。

 夕闇が、ゆっくり僕の背中に落ちてくる。重なり合った二人の影が、夕闇に溶け込んでしまうまで、僕たちは誓いのくちづけを交わし続けた。


 十一月、僕がグラースに旅立つ前日は、ちょうど母の命日だった。

僕は美和子とゆりさんと三人で、母のお墓参りに出かけた。

 僕とゆりさんは、母が好きだったホワイトマウンテンという真っ白なユリの花束を車のシートに乗せて、美和子を迎えに行く。季節はずれの海沿いの駐車場は、がらんとしていて、僕のグリーンのマーチが、やけに目立った。

 車を見つけ、駆け寄ってくる美和子の腕にも、抱えきれないほどのホワイトマウンテンが揺れていた。

「あら、同じ花を買っちゃったわ」

 助手席に座った彼女は、残念そうに言った。

「いいよ。たくさんあったほうが、母さんも喜ぶさ」

 僕たちは、海のはずれにあるひっそりとした丘の上の墓地に着く。もう死んで十五年も経つのに、母のお墓はいつ来てもきれいに掃除されていて、管理人の方をありがたく思うばかりだ。

 僕たちは、花を飾りつけ、線香に火を点す。ゆらゆらと舞い上がる煙を見ながら、僕は母に自分の選んだ道を報告した。

 母さん、あなたが選んで死ぬほどの苦しみを味わった道を、僕も選びました。あなたが死を選んだ理由が、いまの僕にはわかりません。けれど、いつか知る日が来るでしょう。それは、僕の死にたいと思う理由になるかもしれません。けれど、僕は死にません。僕は美和子を守っていきたい。あなたの親友だった彼女を、僕は愛しました。明日、フランスに発ちます。どうか彼女を見守っていてください。

 いつのまにか、空からは雨が、ぽつり、ぽつりと降り出していた。

「和也君、もういいかな。雨が降ってきたから、そろそろ車に戻りましょう」

 そう言って、ゆりさんが荷物をまとめ始めたとき、美和子さんがバッグの中から香水瓶を取り出して、いきなりお墓に振りかけ始めた。

「大事な香水でしょ。いいの?」

 止めようとするゆりさんの手を振り払って残りの香水も降りかける。大きな香水瓶に入っていた「famille」が空っぽになったとき、辺り一面が香りの海になった。

「これで全部なくなった。もう江藤さんに新しく作ってもらったりしないわ」

 美和子は、お墓に眠る母に宣言するように言った。

 雨が急に激しくなる。甘い空気は、どんどん、大粒の冬の雨に流されていく。

「あの日を思い出すわね」

 ゆりさんは、美和子の様子を見ながら呟いた。雨に濡れるのも、もう気にならなくなったようだった。

「ゆりさん、あの日って、もしかして葬式のこと?」

「ええ、覚えてないの?」

「何を?」

 僕は、はっとする。美和子と出会う前、別荘で僕を悩ませた悪夢。誰かの葬式、香水の雨と涙。棺に抱きついて泣きじゃくる男。

「無理ないわよ。和也君はあのときまだ三歳で、お母さんが死んだことさえ、よく分かってないみたいだったもの」

 空になった香水瓶をお墓の上に置いて、美和子がゆりさんに言う。ゆりさんは、きっときつい眼差しになって美和子に言い返す。

「あのときわたし、香田さん、あなたのことが許せなかった。あんなに悲しんで棺のそばで泣いている義隆さんに、追い討ちをかけるように、自殺現場に充満していた香りを振りかけたんですもの」

 やっぱり、あの夢は、古い記憶がよみがえったものだった。まだ幼い頃、美和子が母の葬式でばらまいたその香りを僕は覚えていたのだ。ふたりの会話を止める言葉も見つからず、ずぶ濡れになりながら聞いていた。

「わたし、義隆さんが憎かった。美和子がなぜ死んだのか、彼にわかってほしかったの。言葉を使うよりも、一度記憶に焼きついたら、なかなか逃れることのできない香りを使って、彼の記憶に美和子という妻の存在を思い知らせたかったの」

「どういうことなの」

 やっと、こう一言、聞くことができた。

「ねぇ和也君。あなたのお父様は、確かに素晴らしいデザイナーだわ。わたしもTAKASEの服が大好きよ。でも、あなたの家に家庭は

ある?あなたはデザイナーとしてのTakase Yoshitakaではなく父親として家族の一員としての高瀬義隆を見たことがある?」

「いいや、ないな。父や兄はいつだってTAKASEのデザイナーだもの」

「それは仕方ないわよ。あれだけ仕事が忙しいんだもの」

ゆりさんは、あくまでも父をかばおうとする。

「モデルとスキャンダルを起こす時間はあっても、奥さんやまだ幼い和也君にかまう暇はなかったのかしら」

「それは勘違いよ。嫉妬深い美和子さんが、浮気だと思い込んでいただけだわ。モデルさんたちとのお付き合いもデザイナーにとっては、いいショーをするためには必要なのよ」

ここでゆりさんと言い争っても仕方がないと思ったのか、美和子が僕の正面に立って話し始める。

「この香水は、家族って名前なのよ。未完成の家族」

「famille」は、未完成。

未完成の家族。家族という名の香水を完成させようとして、死んでいった調香師たち。家族を作る前に日本で彼の帰りを待つ婚約者を残して死んでいった人。幼いふたりの息子を残して死んでいった人。

 現実の世界の家族の心は離れ離れのまま、想像の世界に理想の家族を築き上げ、それを表現しようとして、自分の実力のなさに、現実と香りの世界の壁にぶつかったとき、彼らは現実を捨ててしまったのか。

「和也君、現実に家族の温かさを感じたことのない人に、家族の温かさを感じさせる香水なんて創れると思う?未知の香りを考え出すのが創香師かもしれない。でも香り自体は未知のものでも、それを考え出すアイデアや材料は、経験したものから生まれるものだと私は思うの。それが創り出せないのは才能がないからではないと思うの」

 僕はこの言葉を心に刻みつけた。秋生さんが死んだ理由。母さんが死んだ理由。僕もまた家庭の温かさを味わったことのない人間のひとりだから。それは僕が死ぬ理由にも、十分なりうるものだから。

「もう、わたしには、未完成の「famille」は必要ない。わたしには、あなたがいるから。あなたにも、わたしがいるわ。「famille」を完成させる必要はないのよ」

 彼女の瞳から、香水よりも美しくて貴重な涙がこぼれている。僕のために。この涙を無駄にしてはいけない。僕は改めて決心を固める。

「でも、これだけは忘れないで。わたしのための香水があっても、あなたがいなくては、意味がないのよ」

 僕は、この言葉の本当の意味が、まだこのときには分かっていなかった。僕は彼女より、ずっと子供だったから。ただ大切に、彼女の言葉を胸にしまって、調香師の修業に旅立った。


 初の香水「TAKASE№1」を完成させたのは、二十五歳の秋だった。父がチーフデザイナーを兄の義明にバトンタッチして、弟が香水部門を発足させる、世代交代のシンボルとなる大切な香水だった。ジャンは、この香水は必ず売れるので、そんなに心配しなくても大丈夫だと緊張している僕を励ましてくれた。

「Bien que ce soit ........... d'Aucun. 5 système de Chanel, ce n'est pas imitation de qui a publié si loin parfum à tout et je suis doux et une rose et jasmin sont finis avec une base.L'image romantique, magnifique est bonne à une femme vêtements affectueux de TAKASE(シャネル№5系のフローラル・アルデヒドだけど、決して今まで発売された、どの香水のまねでもないし、薔薇とジャスミンがベースで柔らかく仕上がっている。ロマンティックで華やかなイメージはTAKASEの洋服を愛する女性にぴったりだ)」

 ジャンの予想通り、この香水は高い評価を受けることができた。ヨーロッパでは、それなりの売れ行きだったが、日本では圧倒的な支持を得ることに成功したのだ。これは兄の宣伝戦略の巧みさのおかげでもあった。一流の写真家を起用して、十五段の新聞1ページを使った新聞広告。女性誌の見開きを買い取って、シールをはがすと香水の匂いがする斬新な広告。インターネットでの多彩な広告戦略。

 ファッション誌は、よそに遅れまいと、TAKASEの新時代到来と、香水部門を担当することになった高瀬家の次男の調香師を、競って取り上げた。二十五歳という、この世界では異例の若さで、僕はTAKASEの専属創香師として名前を知られる存在になったのだ。パリや日本の雑誌の取材。TAKASEのパーティ。まわりは急に華やかになり、グラースで過ごす時間よりも、パリや東京で過ごす時間が多くなってきた。

 美和子も、僕のデビュー作を気に入ってくれた。けれど僕は「TAKASE№1」の出来に、それほど満足していなかった。

「C'est le secret pour créer toujours de nouveaux parfums comme Accélère. encens de la blessure de premier ordre ne pas attacher profondément à jamais à parfum prospère(成功した香水にいつまでも執着しないことが、一流の創香師として、常に新しい香りを創り出す秘訣だよ)」

 ジャンのアトリエから独立して、新しく自分のアトリエをもつことになったになった僕を、ジャンさんはこう言って送り出してくれた。

「TAKASE№1」の発売から約二年後に、新作「Canary」を発表する。これはTAKASEの春夏コレクションのテーマ「バード・パラダイス」という鳥の羽根の美しさと、自由な生き方をイメージさせるいつもに増して華やかなデザインの服に合わせて、かねてから制作していたフローラル・フローラルの香水を「Canary」と命名して発表したものだ。この香水のコードネームは「MIWAKO」。過去の思い出から飛び立って、自由に生きることを、楽しんでほしいという願いを込めて創り上げた。だから、発売前に、この香水を美和子に贈った。

「素敵ね。すごく素敵!和也には、やっぱり非凡なセンスがあるわ。よかった、あなたがあの時、この道を選んでくれて」

 電話の向こうの美和子は、かなりハイテンションだった。

この言葉を聞いて、ついに彼女は僕を理解し、受け入れてくれたように思えた。

 ジャンさんも、この香水を初めて嗅いだとき、こう言った。

「Cela fait un coup.Bien que TAKASENo.1 fût bon, il manquait dans la personnalité un petit.Je suis devenu meilleur dans aucun temps(これはヒットするぞ。TAKASE№1も良かったけど、いまひとつ個性に欠けていた。あっというまに一流になったなぁ)」

 僕も、この香水が女たちの心をつかむものであると確信していたが、予想以上の反応に、驚いたのは僕自身だった。

「今年の春は都会の風がやけに甘い。まるで街中の女たちが花になったようだ」

 人気のアイドルやカリスマモデルが愛用していることが火付け役となって、日本のファッション界で、ひとつの香水がここまで注目されたのは、初めてのことではないかと思うほどのヒット商品になった。もちろん欧米でも高い評価を受け、「TAKASE№1」の売上をあっというまに抜いてしまった。


もうTAKASEの創香師の立場は十分確立できた。今年こそ美和子をグラースに連れてこようと、僕は決意を固めた。ある雑誌に載っていた「Canary」愛用者のいろいろな感想や香水に対するこだわりを読んだのが、そのきっかけだった。

 彼氏や夫がこの香りを好きだと言ってくれるから、など、ほとんどの人が、香水と自分との関係ではなく、香水をつけている自分と、それを嗅ぐ人との関係を語っていた。フランスに留学するときに、美和子がくれた言葉。大事に胸にしまっていた言葉。あのときの僕には、あいまいにしか意味がわからなかったけれど。今、やっとわかった。こんな当たり前のこともわからずに香水を創っていた自分を僕は恥ずかしく思った。

 香水は香水だけでは意味がない。つける人がいて、それを嗅ぐ人がいて、そこから物語は生まれる。いくら素晴らしい香水を創って、贈ったとしても、彼女をひとりにしたままでは意味がないのだ。僕がいて、彼女がいて。そこに家族の香りは生まれる。今「famille」を完成させる必要はない。すぐに日本に戻ろう。そして、彼女を連れて戻ってこよう。僕は美和子とふたりの「famille」を完成させなければならない。


 結婚したい女性がいるから、しばらく日本に戻りたい。僕がそう打ち明けると、父も兄もすぐに納得してくれた。僕は帰国を決めて、ひさしぶりにゆりさんに国際電話を入れた。今までにも何度か美和子にフランスに来て一緒に暮らそうと言ったことがある。けれど、なかなか決心してくれずに今まで離れて暮らしてきた。帰る前に、ゆりさんからもひとこと、美和子に決心するように言ってもらおうと思ったのだ。

「和也君、ちょうどよかった。電話するべきかどうか迷っていたの。早く、早く戻ってきて。お願い。仕事より大事なことがあるでしょう」

 いきなり涙声で言われて、僕は驚く。何のことがわからないけど、美和子に何かあったのだろうと思った。

「何があったの。落ち着いて、ちゃんと話して」

「美和子さん、病気で倒れたの。お医者さまはたいしたことないって言っているんだけど……」

「そんなに悪いの?」

 もともとあまり丈夫な人ではない。風邪をこじらせて入院したことも何度かあったから、今回もそれほど驚かなかった。

「それが手術することになったの。最近、みるみるやせちゃって、心配していたのよ。よく薬を飲んでいるし、食欲がわかないからって、あまり食べないし。今までとは何か違う気がするの。わたし、なんだか不安なのよ」

「ちょうど、日本に帰ろうと思って電話を入れたんだ。わかった、なるべく急いで帰るよ。手術はいつなの」

「来週、火曜日の午後よ」

 ただごとではないような、嫌な予感がした。もう、事実、彼女は歳なのだ。今年で確か五十七歳になるはずだ。身体だって弱い。もしものことがあるかもしれない。日本でも仕事ができるように荷物をまとめながら、僕は後悔していた。もっと早く連れてきて、一緒に暮らし始めるべきだったと。


 手術後は、思っていたよりも回復が早く、退院して美和子の家で一緒に暮らすことになった。

 帰国するとすぐに僕たちは入籍を済ませ、本当の家族になった。

高瀬美和子。自分の母と同じ名前の女性を、僕は妻に迎えることになった。

 退院した日の夜は、ゆりさんの手料理で、三人プラス一匹のホームパーティで結婚を祝った。

父や兄からは、リボンで飾られえたベンジャミンの鉢植えと、大きな花束、そしてTAKASEの最新作のワンピースが届いた。

僕も「Canary」のヒットのおかげで、立派なマリッジリングを贈ることができた。美和子も、前に指輪を贈ったときとは違い、今回は素直に喜んで受け取ってくれ、早速、左手の薬指に指輪をつけてくれた。

美和子は病気のせいで、すっかりやせて、やつれてしまった。それでも品があって、色っぽさを感じさせる彼女を見つめることができるだけで満足だった。アキオもすっかり歳をとって、もう昔のように足にじゃれついてきたりしない。ソファーにのんびり横たわって一日中眠っている。


「だんなさんですか。お話があります」

 帰国後、病院に行くと、僕は担当の医師に呼ばれた。

「残念ですが、奥様は肝臓と大腸が、癌に侵されています。親類の方もいないようだし、以前、精神科に通院されていたようなので、本人には告知していません。手術をして一時的に回復しても、長くて一年もつかもたないかですね」

 日本への飛行機のなかで、もしかしたら、癌かもしれないと、覚悟を決めていたので、自分でも不思議なくらい冷静に医師の話を聞くことができた。

 

あと一年。運命は変えることはできない。でも、残された時間の限り、彼女と一緒に幸せな毎日を送ろうと心に誓った。

 フランスに連れていくのがいいかもしれないと思った。秋生さんの死んだグラースで生涯を閉じたいと、もしかしたら美和子は思っているかもしれないから。それに温暖で花に囲まれたあの町は、病の進行を遅らせてくれるかもしれない。

「フランスに行こうか。グラースは、花がいっぱい咲いていて、とても明るい町だよ。近くのコート・ダジュールは一年中青くて穏やかな海が広がっているよ」

 けれど彼女は首を横に振った。ここで暮らしたいのだと言い張った。彼女はたぶん気づいているのだ。自分の命が残り少ないこと、

僕と過ごせる時間があとわずかだということも。彼女の好きなようにさせるのが一番だと思い、僕も日本で暮らすことに決めた。


 毎朝、トーストにのせたチーズの焼ける匂いで目を覚ます。僕のための目玉が二つある目玉焼きを焼いてくれる。そして、山盛りのフルーツサラダ。高校三年生の夏の朝の風景と少しも変わっていない。変わったのは「新婚のおままごと」ではなく、本当の結婚生活だということだけ。

「なつかしいなぁ。もう十年近く経つんだね。あの頃から」

 コーヒーの香りが匂いたつ。湯気の向こうに、美和子の笑顔。本当に、この人が、僕を残して逝く日がくるのだろうか。あのころと少しも変わっていないのに。

一日中のんびりと、ふたりの時間は過ぎていく。美和子が本を読んでいるそばで、僕は調香のアイデアを練る。

 夕暮れになると砂浜を散歩する。秋の海をふたりで見るのは、今年が最後かもしれない。言葉にしなくても、ふたりともそのことを感じていた。

何気ない穏やかな時間も、一秒もこぼさずに、記憶のなかに残しておこう。彼女が死んでも記憶は残る。その記憶はどんな香料よりも、素晴らしいエッセンスとなって、僕の香水を形作るだろう。

 僕たちは、夕陽のなかで、何度もキスをした。未来でも、過去でもない。今、ふたりでいることの証に。愛し合っている証に。今、ふたりで同じ景色のなかにいることが大切なのだと、腕のなかの彼女のぬくもりは、僕に伝えていた。


僕は「famille」の処方箋を大幅に書き直して、新しい香水を創ろうと試みた。甘いだけでなく、セクシーで大人の女性を意識したものに。より深く、より温かく。海のような、すべてを包み込むような香り。僕が美和子を愛した証に、彼女がつけたときに、最高の香りのハーモニーが生まれる香水を創ろう。

「famille」改め「MAR」と名付けて、僕は調香を始めた。家族の香りは、日常の中で十分堪能していたので、香水を創り上げる必要はなかった。僕や美和子の体臭、アキオのペット臭、台所の生ゴミの臭い。そんな臭いがあってこそ、家族の匂いは存在する。この家に、自分たちの生活の歴史を、知らず知らず、匂いとして残している。小さな香水瓶に詰め込んでしまえるわけがないのだ。瓶の中に、理想の世界を閉じ込めたって、しかたがないのだ。蓋を開け、誰かの肌のぬくもりで、空気のなかに拡がって、消えていく。香水とは、そういう儚いものだから。


 今の僕には、たくさんのことがわかった。秋生さんは才能がなかったわけじゃない。家族のぬくもりなんて、美和子と一緒に育てていくものであって、香水の世界で表現する未知のものではないと気がつかなかっただけ。そのうち自然とわかることだったのに、社長令嬢の夫になるには、なにがなんでも一人前になって帰らなければならないというプレッシャーに負けただけ。

 母もそうだ。父に存在を認めてもらうには、他にも方法があったはず。僕は知っていた。母が処方した「famille」には、嫉妬の気持ちがこもっている。確かに父は浮気者だったのかもしれない。でも母が一番知っていたはず。自分が一番、父に愛されていることを。

「famille」に自分の気持ちを託して死ねば、一生、父の心に、自分が最高の女性だったという思い出を残せると信じられたからこそ、母は死を選ぶことができたのだろう。

 僕は調香を学び、香りの中に自分の気持ちを託すということを知り、「famille」に秘められた想いを感じとる。「MAR」は、海、母を意味する。人々の想いのすべてを包み込んでくれる、海のような包容力をもつ香りを創りたい。今の美和子との生活が、そんな香水を完成させるためのすべてを教えてくれるだろう。

 僕の腕のなかで、彼女は眠っている。静かな寝息を感じる。肌のぬくもりを感じる。温かい血の流れも。美和子に関するすべての記憶が、僕の香水を創りだすイメージにつながっていく。


 僕のなかで、目には見えない振り子が音もなく揺れている。美和子という女性をイメージの香り「MER」に向かって、何十回も処方箋を書き直し、試行錯誤を繰り返して、次第に振り子の振幅を小さくしていく。彼女のなかでも、命の振り子が死に向けて揺れている。どちらの振り子が止まるのが先か。死ぬまでに間に合わせたい。美和子のための、彼女の肌で温まった匂いを、僕が嗅ぐための香水だから。

 

 冬が過ぎ、春が薄れ、夏が訪れ、また秋がめぐってくる。


美和子は、ほとんど寝たきりの状態になってしまった。この家で死なせてやりたいと思い、病院の訪問看護の制度を使って、在宅で看病を続けた。体中に転移した癌のせいで、一日に何度も激しい痛みに襲われるようになり、モルヒネの点滴を始めてからは、一日中ぼんやりしていることが多くなった。

ゆりさんも心配して、ここのところ、ずっと泊まり込んで、看病してくれている。

「もう、そろそろかもな」

一年間、持ちこたえてくれただけでも、感謝していた。彼女は僕との家族を完成させるために、病気と闘いながら、生き続けてくれたのだ。

「覚悟、できているの?」

「あぁ、仕方のないことだ。わかっていたからこそ、濃密で貴重な時間を過ごすことができた。病気に感謝しているくらいだよ」

 僕が心配だから。そう言いながら、ゆりさんの方が、よっぽど気落ちしていた。

「和也……」

 美和子の僕を呼ぶ声がする。寝室に駆け込むと、美和子が起き上がっている。

「だめだよ、寝てなきゃ」

「いい匂いがするわ。和也の服や身体から。あの香水が完成したの?」

「ごめん、まだなんだ。もうすぐ、もうすぐ完成させるから、早く元気になろうな」

 彼女はにっこり微笑んで頷く。

「わたしが死んだら、美和子さん、あなたのお母さんと同じお墓に入るのね。高瀬美和子って名字まで同じになっちゃって、きっと驚くでしょうね、美和子さん」

 窓を開けて、と彼女は言う。

 冷たい風が、身体にさわらないように、毛布を肩からかけてやり、僕は窓を開ける。

 ちょうど、夕陽で赤く染まった海が見える。

「去年の今頃は、もう、秋の夕陽をあなたと見ることは二度とないだろうと思っていたわ。あなたがそばにいてくれたから、今まで生き延びることができたのね。わたし、幸せだった。あなたも、もっと幸せになってね。わたしの思い出に縛られず、あなたを愛してくれる人を見つけてね」

 こぼれそうになる涙をこらえて、でも、気休めではなく、本気で僕は言った。

「なに言ってるんだよ。これからもっと、美和子と僕で幸せになるんだろ」

「ありがとう。この言葉を聞けただけで、幸せよ。もう少し若かったらよかったのに。ごめんなさいね。あなたの未来に一緒にいてあげられなくて」

 話しながら、次第に息が苦しそうになってくる。

「ほら、無理して起き上がったりするから。もう夕陽も沈んだし、横になって温かくして休もう。また明日、続きはゆっくり話そう」

「もう少し、窓はあけておいて。潮風が心地良いの」

 僕は、彼女の身体をベッドに横たえて、枕元の椅子に座る。彼女は僕の手を握り、目を閉じる。

「香水、完成したら教えてね。わたし、ずっと待っているから。新しい恋人ができたら、一緒にお墓参りに来てね。わたし、楽しみにしているから」

 目を閉じたままそう言うと、静かに寝息をたてはじめた。


 もう、すっかり暗くなった砂浜を、僕はひとりで散歩する。

二十数年前、母に連れられて、僕はこの砂浜を散歩していただろう。母の友達だった美和子にも、手をひかれて歩いたことがあったかもしれない。幼い僕の目には、彼女はどんな女性に映っていたのだろう。まだ幼い僕と夫婦になる日が来るとは、そのころの彼女は、夢にも思わなかっただろう。

 父が、母が死んでからというもの別荘を訪れなかった理由が、今の僕には痛いほどわかった。愛する人との思い出がつまった場所は、ひとりでいるにはつらすぎる。美和子は強い女性だったのだろう。秋生さんや僕との思い出のあふれるこの海で暮らし続けたのだから。いつまでも秋生さんを忘れることができなかった気持ちも今ならわかる。過去にこだわっていたのではなかった。彼女にとって秋生さんはずっと現在だったのだろう。


「MER」を完成させたとき、次の香水を考え出すことができるだろうか。一流の創香師になるには、成功した過去の香りにこだわらないことだと、ジャンは言っていた。完成させたとき、何かが終わりを告げるような気がする。永遠は未完成のなかにあるのかもしれない。またいつか誰かを愛して、その人と家族になる日が、もし来るのならば。美和子の言うように母と妻の眠るお墓に、新しく愛する人を連れて行くときがもし来るのならば。そのときには、「MER」を完成させて、ふたりの高瀬美和子が眠るお墓に香水の雨を降らせよう。


 散歩から戻って寝室をのぞくと、美和子はぐっすり眠っていた。棚から未完成の「MER」を取り出して、彼女の耳たぶに一滴落とす。寝室に甘く、重い匂いが拡がる。深い海に抱きしめられているようだと、匂いを吸い込みながら思う。

 枕元で彼女の横顔を見つめ続けた。潮風が熱でほてった彼女の頬を冷やしてくれていた。

 秋は眠って、海から冬はやってくる。浜辺には音もなく冬の気配が拡がっていく。

 いつのまにか、うとうとして、短い夢を見た。甘い香りの霧が僕を包みながら、少しずつ薄れていく夢。グラースでは今頃、花たちが眠りにつく季節だなぁと、うたたねしながら、ぼんやりとおもいだしていた。

「和也、くん」

 彼女に呼ばれたような気がして目を覚ます。

 うっすらと、ほほえみを浮かべていた。僕の創った香りが彼女を包んでいた。窓から冷たくなった潮風が吹き込み、匂いは風と共に空に舞い上がる。

十一月。花たちが眠りにつく季節。

 愛する人が、永遠の眠りにつく季節。







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眠れない夜に

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