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4年間ワーケーションを続けて起きた5つの内面的変化 #他人の目が気にならなくなった

2016年から海外のウェブサービスのローカライザーとして、世界91都市を転々としながら仕事をしてきたジュリアです。

新型コロナウィルスの拡大で海の外に出ることが難しくなった今、この4年間で目にした景色がふいに浮かぶことがあります。それはまるでデジャブのような走馬灯のような。

会社と家の往復を辞め、心が赴くままに移動をしてきた4年間は私に何を与えてくれたのかを考えてみました。4年前よりも圧倒的に変わったものといえば内面でした。

"自分で決める力" がついた

会社に通っていた頃は、朝けたたましい目覚ましの音で無理やり目覚め、寝ぼけ眼のまま体を電車に押し込み出勤。オフィスで着いたらランチまで仕事して、ランチ休憩で一息ついたら午後もあっという間に終わっていく。満員電車が辛いから紛らわせるために適当な店で飲んで帰って・・・×週5と、仕事で細かい決断する場面や、毎日何を食べるかくらいの選択はありましたが、それ以外のほとんどは流されて生きていたと記憶しています。

そんな日々から一転、毎月飛行機に乗り、3日に1度は宿を移るというめまぐるしい生活の中で最もついた力といえば "自分で決める力" でした。

移動生活を送っていると当たり前ですが、毎日泊まる宿、1日のスケジュール、どこで仕事をするか、どこを観光するか、どこで買い物するか、何を食べるか。いつ移動するか、その方法は?など、リサーチして決めることが膨大にあります。

このリサーチ&決断を怠けてしまうと、旅に投資しているのに関わらず生活の質が落ちてしまうのでここは必死です。ついつい宿決めがめんどくさくなって適当に選んだら、イマイチ!気分が下がり同時に仕事も観光も意欲がだだ下がり、という苦い失敗を経て妥協ない選択をするようになりました。

常識は人それぞれと思うようになった

この4年間で各国に友人と呼べる人ができました。その中にはイスラム教の人もユダヤ教の人もいて、一緒にお酒は飲めません。しかし宗教が違うからといって、分かり合えないかといえば全くそうではなく同じ時代を生きてきたもの同士むしろ共感できるところの方が多いのです。ただ彼らには自分とは違う信仰があるだけ。

さらにこれというのは宗教に関わらず、同じように生まれ育った友人に対しても言える事だなと気づきました。友人は価値観が似ているように見えても、やはり信じているものは少しずつ違う。

それは今まで自分の中に強固にあった「こうじゃなきゃいけない」という常識が崩れ去った瞬間でもありました。

例えば
・朝は早く起きなければいけない
・LINEにはすぐに返信しなければいけない

とか、一見どうでもいい事ですが、意外に自分を縛り付けている概念に気づき、それを盲信するのではなく、「自分は本当にそう思うのか?」と逐一考えるようになりました。"すぐに返信しなければならない"  信仰を手放した時には、自分の時間が戻ってきたかのような自由な気持ちがしました。

他人の事が気にならなくなった

これと同時に起こったのが "他人のことが気にならなくなった" という現象です。価値観の違いがあれど「そっか、XXさんは○○○を信じているのか」と冷静に捉えられるようになり、相手が信じている世界観というものを認識できるようになりました。

それまでは例えば友人というと、自分の延長にある存在という感覚がありました。友人なのだから価値観や信じるものは一緒だろう、という前提で会話を進めていた気がします。

人は自分が信じたいものを信じていると気付いてからは、"相手がどう思っているか" 、"相手が自分をどう評価しているか" ということが全く気にならなくなりました。なぜなら相手は自分が観たいようにしか自分を観ていないし、それは私がコントロールできるわけでもないと気がついたからです。

自分の機嫌をとるために創造活動を始めるようになった

この生活を続ける中で、まるっきり1人で誰とも会わないという瞬間も何度かありました。ひとり旅をする人は、私のような状況を経験した人も少なくないと思いますが、私は例えば1週間誰とも会話をしないということは人生においては初めてでした。

まるっきり一人の時間。今まで人と共有していた時間が自分に戻ってくるので最初は戸惑います。誰かの発信物や動画コンテンツを観たり、観光してみたり、数日は消費的な娯楽でも満足ができるのですが、そのうち物足りなくなって退屈を感じてきます。そんな時、気分を上向きにしたのは、料理や文章の執筆、動画制作など創造活動でした。

移動生活はドーパミン放出で瞑想状態に

なぜ移動を続けるのか?と聞かれたら、細胞 (Cell) を動かすためだと思っています。移動を続けていると、その刺激でドーパミンが放出するのか、自分の体のひとつひとつの細胞や目に映る景色が躍動しているように感じるのです。国を移ったり、日本に帰国した時は、目に映る景色の粒子の粒のようなものが見えたりもします。

頻繁に移動を好む人の事を "多動" と呼び、新奇探索性が高くリスクを恐れず刺激を求めていく人間はドーパミン受容体DRD4の遺伝子の長さにも影響しているとか。こういった人にとってドーパミンを出し続ける移動生活は "瞑想" に似たものがあるんじゃないかと。最初は外的な刺激が気持ちがよくて仕方ないのですが、気付いたら意識は内にむかっているという瞬間が多くあるのです。物理的に旅をしていますが、意識が旅をしているようでもある。

ある時ストレスが完璧に消えたことがありました。忘れもしない2018年秋、クアラルンプールのシャングリラホテル前でタクシーを待っていた時。頭の中から完璧に他人の存在が消え、全てうまくいっているという万能感。

「あれ、私今この瞬間全くストレスを感じていない」と。

もちろんこの感覚は長続きはせず、いつもの感じが数日後には戻ってきました。でもねストレスがなくなるということが衝撃だったのです。生まれてこの方ストレスがないということは皆無でした。家では両親に怒られることがあれば、学校では意地悪な子もいて、年が上がるとヒエラルキーがあって、大人になったらさらに気を使うことが増えます。なので、ストレスというのは生きる限りはつきまとうものだと思っていました。それは間違いだったと気付いた時の衝撃といったら・・・。瞑想も極めた人もこんなような感覚になるのかな?

といった経験を通して、私は移動は自己探求であり、瞑想でもあると捉えています。

人は人生経験の中で、誰かにとっての真実を無意識に自分にとっての真実だと思って、取り入れてしまっていることがあります。そのあらゆる観念や価値観を自分はどう思うのかと丁寧に取り出して確認していく作業、私にとっての4年間はそんな時間でした。

日常の箱を飛び出し、新しい環境で、様々な人々に出会うと視野は広がります。さらに自分らしい生活を作っていく必要があると、人は自分について考えを巡らせるようになります。

ワーケーションは、今まで自分が持っていた価値観を一度まっさらに、フラットにして、自分は何が好きでどんな価値観を持っているのか、この地球にある好みを選び取り、それを積み上げていく内面の旅でもあると思うのです。

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