序品じょほん第一
序品第一のあらすじ
お経が「如是我聞」で始まる意味
舎利弗→大迦葉(だいかしょう/マハー・カッサパ)頭陀第一:結集(けつじゅう)
阿難(アーナンダ)多聞第一:お釈迦様の侍者(従兄弟の関係・美男・結集前夜に悟りを開く)⇒如是我聞(かくの如く我聞けり)⇒口伝
法華経という経典を理解するコツ
"百聞は一見にしかず"の「一見」がなにより大切な経典。
語句の解釈や教義の解釈ではない法華経の話をしたいと言ったのは、そのため。
「どんなふうに見るか」「どんなふうに聞くか」という基本姿勢を常に意識しながら、自分自身の舵取りをおろそかにしないこと。
モーツアルトの手紙
純度一〇〇パーセントの教え
法華経の学びとは、単なる文字の解釈を超えた深遠な旅路である。まず目に見える層、すなわち経典の文字に刻まれた言葉の海を渡る。ここには、壮大な物語、多様な登場人物、そして緻密な構成が織りなされている。文字としての法華経を知る旅は、学術的な論文や専門家の解説を通じて、さらに深く、詳細に理解を深めることができる。
しかし、法華経の学びはそれだけに留まらない。文字を超えた「法華経独特の世界」への旅がある。これは言葉では捉えきれない、経文の背後にある精神性や哲学、感覚の世界である。まるで経文の文字が消え去り、そこに残された真実のエッセンスを感じ取るような旅。この世界を真に理解するためには、一瞬で全てを見渡すような広い視野や、微細な感覚が必要とされる。
かつて、霊鷲山の静けさの中で、仏陀は大比丘衆に囲まれて座っていた。万二千人の弟子たち、それぞれが阿羅漢として、煩悩や束縛から解放された者たちである。彼らは心の自由を得て、仏陀の教えを実践していた。
そこには、お釈迦さまの養母である摩訶波闍波提(まかはじゃはだい/マハー・プラジャパティー)比丘尼もいた。彼女は、仏陀の生母が亡くなった後、彼の育ての母となり、女性として初めての出家者となった。また、仏陀のかつての妻であった耶輸陀羅(耶輸陀羅/ヤショーダラー)比丘尼も、彼の教えを求めて出家した。
その中には、多くの菩薩たちの名前も並び、さらにはインドの神々やバラモン教の神々までもが、仏陀の説法を聞くために集まっていた。その光景はまさに圧巻であり、それぞれの存在が独自の物語を持ち、それぞれが仏陀の足元に集い、彼の教えを受け取っていた。
そして、阿闍世王もそこにいた。彼はマガダ国の王であり、この王舎城の支配者である。彼ら全員が仏陀を中心に集い、それぞれが順に仏陀に敬意を表し、教えを聞いたのだ。
この時、仏陀は「大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念」と名付けられた経を説いた。これは菩薩のための教えであり、しかし、そこにはさまざまな存在が集まっていた。仏陀の言葉は、菩薩たちだけではなく、すべての者たちに向けられていた。
『法華経』は八巻・二十八品から成り立ち、法華三部経として知られるようになった。この経典には、『無量義経』と『仏説観普賢菩薩行法経』が加わり、これら三つの経典が合わさって大きな意味を持つことになった。
これらの経典が一つになることで、仏陀の教えはさらに深い意味を持つようになった。霊鷲山のその日、多くの者たちが集い、仏陀の教えに耳を傾けた。それは、知恵と悟りの旅の始まりであり、彼ら一人一人にとって、心の変革の瞬間であった。
「妙法蓮華経」という、壮大なスケールを持つ教えが説かれる前に、序章として「大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念」という経典が位置しています。この経典は、妙法蓮華経の開始部分を形成し、その深い教えへの入り口となっています。この経典には、仏の姿が具体的に見えるとしても、その本質が全ての存在に遍在し、生命を育む根源的な力であるという思想が語られています。この考え方は、法華経の核心である「如来寿量品」に通じるものです。また、「実相」という概念が詳述され、これは法華経の重要な教えである「方便品」へと繋がります。さらに、この経典は多様な菩薩の生き方を説いており、教えの多面性を示しています。
法華経という経典は、お釈迦さまが悟りを開いてから四十数年の後、初めて悟りの内容を、純度100パーセント、混じりっ気なしで説いた真実経である。
特に印象的なのは、仏が自己の悟りを他者に伝える難しさを示す経文です。それは、「悟りを開いて気づいたことを、そのままの形で説いても、多くの人々が理解できないだろう」という内容です。これは、人々の性格や能力の違いに配慮し、法華経での真実の教えが、仏が悟りを開いてから約四十年後に初めて純粋に説かれたことを示しています。
★一切衆生=すべての生きとし生けるもの
次々に起きる超常現象の意味するもの
霊鷲山で起こった超常現象は、深遠な意味を秘めています。お釈迦さまが王舎城近郊の霊鷲山に滞在していた時、『無量義経』の説法とともに、彼が深い三昧に入ると、天界からは曼陀羅花や摩訶曼殊沙華が降り注ぎ、六種の震動が世界を揺るがしました。これらの現象は、単なる奇跡ではなく、仏教の深い教えと直接関連しています。まず、天から降る花々は、仏の教えが天上からも賞賛されていることを象徴しています。大地が揺れるのは、仏の教えが世界の根底を動かす力を持っていることを示しています。これらの現象は、仏教徒にとって大いなる喜びとなり、信仰の深化を促します。
さらに注目すべきは、お釈迦さまの額から放たれる光です。この光は、仏の智慧が照らす真理の象徴であり、東方の万八千の世界を照らすことで、仏教の教えが限界なく広がることを示しています。仏の眉間白毫相から放たれる光は、仏陀特有の身体的特徴の一つであり、彼の悟りの深さと智慧の大きさを表しています。
また、お釈迦さまが三昧に入ることで現れる光景は、私たちの住む娑婆世界だけでなく、他の数多くの世界が存在するという仏教の教えを具現化しています。例えば、西方の極楽世界のように、様々な仏が教えを説く世界があり、これらの世界が光の中に現れることで、仏教徒にはさらなる信仰の深みがもたらされます。
これらの超常現象が示すのは、仏教の教えが現実世界においてどのように現れ、どのように人々の心を動かし、信仰を深めるかということです。お釈迦さまの三昧とその際に起こる現象は、仏教の教えの不思議さと奥深さを物語っています。
このように、霊鷲山で起きた超常現象は、仏教の教えと深く結びついており、仏教徒にとっては、その教えをより深く理解し、信仰を確固たるものにする機会を提供しています。
深い三昧から生じる不思議な力
三昧(さんまい)=サマーディ
形態形成場/敬体共鳴
八木重吉の詩
沈黙に耳を傾ける
仏法はどのように伝承されてきたのか
昔々、日月燈明如来(にちがつとうみょうよらい)と名付けられた仏がいた。この仏は、正しい教えを説いて、四諦、十二因縁、六波羅蜜といった法を教えた。その後、同じ名前を持つ仏が二万人も現れ、どの仏も善い教えを広めた。最後の日月燈明如来には、出家する前に八人の子供がいた。父親が仏になったと知ると、彼らは出家し、父親の教えを学んだ。
ある時、日月燈明如来は大乗経を説いた後、深い瞑想に入った。天からは花が降り、大地が震動し、彼の額から放たれた光によって遠い世界が映し出された。日月燈明如来は、妙光菩薩という弟子に大乗経を説き、六十小劫に渡る説法を行った。その後、日月燈明如来は涅槃に入ることを宣言し、徳蔵という菩薩に浄身如来となることを授記(予言)した。
日月燈明如来の死後、妙光菩薩は教えを広め続けた。八人の子供たちは彼を師とし、仏となった。最後に仏となったのは燃燈仏だった。
また、妙光菩薩の弟子の中には求名という者がおり、彼も多くの善を積んで、後に仏となると予言された。そして、妙光菩薩は文殊師利菩薩であり、求名は弥勒菩薩だったのだ。
この話から、お釈迦さまもいずれ大乗教の教えを広めるだろうと示唆されている。この物語の核心は、「仏の継承」であり、弥勒菩薩が次に仏となることが示されている。彼は四千年後(私たちの時間では五十六億七千万年後)に地上に降りて、多くの人々を救うと言われている。これはお釈迦さまが予言した通りである。同様に、文殊師利菩薩の話に出てきた燃燈仏も、お釈迦さまの成仏を予言していた。
「ジャータカ」という、お釈迦さまの前世のお話を集めた経典のなかに、燃燈仏がお釈迦さまに授記をされる、こんなお話がある。
昔、遠いアマラバティーの都に、スメーダという賢者が住んでいた。彼は、世間の迷いから離れて真理を追求しようと、両親から受け継いだ財宝をすべて貧しい人々に施し、無一文になった。彼は、物質的な所有物がなければ、心が自由になり、悟りに近づけると信じていた。スメーダはヒマラヤのダルマカ山近くで庵を構え、修行に励んだ。やがて、彼は衣を脱ぎ、樹皮を纏い、木の実だけを食べながら厳しい苦行に打ち込み、神通力を得た。
この頃、ディーパンカラ(燃燈仏)という仏が人々を導いていた。スメーダはディーパンカラ仏の存在を知らず、山中で瞑想に耽っていた。ディーパンカラ仏はラムヤカのスダルシャナ精舎に滞在し、多くの人々が彼の教えに感謝し、供養を捧げていた。
スメーダは都の人々が道を整えているのを見て、何事かを尋ねた。人々はディーパンカラ仏を迎えるための準備をしていると答えた。スメーダは、仏に仕えたいと願い、道の修復を手伝うことにした。彼は神通力を使わず、手作業で道を修復し始めた。しかし、ディーパンカラ仏が到着すると、道はまだ未完成だった。
この、燃燈仏がお釈迦さまに授記をするお話は、数多い文献の中に見られ、物語もさまざまなバリエーションがあります。そこでもう一つのお話を読んでみましょう。仏の継承についてもわかりやすく解説されています。
かつて、日月燈明如来から弥勒菩薩に至るまでの壮大な「仏の継承」がありました。この系譜は、時間の流れに沿って上から下へと進むもので、二万人の日月燈明如来から始まり、浄身如来、燃燈仏、釈迦牟尼仏、そして弥勒仏へと続きます。これはまさに仏教における、重要な歴史的系列を示しています。この伝統は、仏が涅槃に入った後の「無仏の時代」を通じても続いています。つまり、すべての仏が涅槃に入った後も、仏教の教えは引き継がれ、新たな仏が現れるまでの時を経ているのです。
経典には、「初めも善く、中ほども善く、終わりも善い」という、仏の教えを評する表現があります。これは、仏の教えが常に一貫して質の高いものであることを示しています。お釈迦さまは「律蔵・大品十一」において、伝道への熱情と誠意を込めてこの言葉を述べました。これは、彼自身の伝道宣言でありながら、彼の弟子たちへのはなむけの言葉でもあったのです。
仏教において、正しい教え、正しい法を説くことの重要性は非常に強調されています。特に興味深いのは、仏教の教えが個々人に対して、独立した精神の育成を促していることです。例えば、お釈迦さまは、弟子たちに一人で道を歩くことの大切さを教え、見知らぬ人々の中へと独りで出て行くことを戒めています。これは、連れがいることが心強いかもしれないが、それに依存してはならないという教えです。また、仏教は、心が清らかな人々が真理に目覚める可能性を強調しています。このことから、僧侶たちには正しい法を説くことが強く求められています。
僧侶にとって最も大切なことは何かと問われれば、多くは「仏法を伝えること」と答えるでしょう。これはキリスト教や他の宗教の教えとは異なり、仏教では「仏法を伝えること」が最優先される傾向があるのです。しかし、一般の人々からは、僧侶たちが貧しい人々や困難に直面している人々への具体的な援助に乏しいと批判されることもあります。キリスト教の修道女のような献身的な活動と比較されることもあります。
筆者も大学時代に、日蓮聖人の御遺文を勉強していた時、日蓮聖人が極楽寺の良観を批判していたことに疑問を感じたことがあります。良観は、当時「生きぼとけ」として崇められ、その慈悲行に感動する人も多かったにも関わらず、日蓮聖人は彼を厳しく批判していました。このことについて、先生は日蓮聖人が仏法を伝えることを何よりも重視していたからだと説明してくれました。つまり、日蓮聖人にとっては、正しい法を伝えることが最も重要であり、貧民救済などはその次にあるという考え方だったのです。
このように、お釈迦さまや日蓮聖人、親鸞や道元などの宗祖たちは、現実の救済よりも正しい仏法を優先するという立場をとっています。この姿勢は、一見冷淡に見えるかもしれませんが、宗教的な教えの核心に迫るものであり、深く考察する価値があります。
そこで、これらの教えや宗祖たちの本心について、私たちも一緒に考えていきたいと思います。それぞれが自分なりの解釈を持って、これらの深い教えを理解し、内面化していくことが重要です。正しい法を理解し、それに基づいて真理に目覚め、社会に貢献していくことが、仏教の理想なのかもしれません。
方便品ほうべんほん第二
方便品第二のあらすじ
名訳「安詳として起つ」にこめられた深い意味
「安詳」という短い言葉のなかに、鳩摩羅什はこういったニュアンスを全部こめたようなんです。お釈迦さまが三昧に入られた時、その深い深いこころの中では、いったいどんなことが起きているのでしょうか。
実は、阿含経などの初期経典に、ところどころその内容が表現されております。これはその一つで、『中部経典』の「双考経」の一節です。ちょっと長い引用ですが、皆さんには、〈なるほどな、お釈迦さまというかたは、こういう深い考察をして、そのあとで三昧から立ち上がられるわけなのか〉と理解して欲しいんです。
この経文で明らかなのは、「思い起こす」という行為が、この現世における自己一身についての考察ではなく、ものすごい時間の流れを全部ひっくるめた考察だということなんです。仏さまの瞑想というのは、こういうものなんです。つまり、こういう「思い起こし」を、ひととおり全部やりおおせたと確信なさった時点で、お釈迦さまは立ち上がられる……、これを「安詳として」と表現しているわけなんです。
お釈迦さま一流の作戦
難解難入の法華経
お釈迦さまは三昧から出られ、そしてゆっくりと立ち上がり、おそばにいる舎利弗に語りかけられた。その時の第一声「諸仏の智慧は、甚だ深くして無量なり。その智慧の門は解り難く入り難くして、一切の声聞・辟支仏の知る能わざる所なり」
無門関第五則:香厳~撃竹の話
忘れていたものを思い出すようなおののきの中で
生まれつきの盲人の方が鏡を理解するような難問。
ヘレン・ケラーの話:何かしら忘れていたものを思い出すような……
病的なワーカホリック/大佛次郎:冬の紳士(雲雀の話:出家願望の物語)
⇒法華経を聞きたければまずはあの雲雀の声を聞け
法華経の重大テーマ「一仏乗」とは
法華経という経典は、大きな二つのテーマを持っている。
一つは「一仏乗」、もう一つは「久遠実成」。この一仏乗というテーマに深くかかわっているのが三乗という考え方だが、法華経を大切な経典としている宗派のお坊さん、あるいは信者さんと話をしているとと、「二乗が…三乗が…」といった会話をしているけれども、よーく耳を傾けていると、二乗が何なのか、三乗が何なのか、ちゃんと理解していない方が随分多い。そこで、法華経前半の最大のテーマ、「一仏乗」を学んでいくために、この考えの基本になっている三乗について考えてみたい。
仏教には十界という考え方がある。人間の心、迷いや悟り、そのすべてを含んだ非常に大きな世界観。それらを十の世界に区分している。
一番上は仏さまの世界から、一番下は地獄の世界までがある。
実は、この十界というものは、一から四までの世界と、五から十までの世界に大きく二つに分けられる。それで、この五から十までの世界を六道といい、輪廻をする世界。つまり、車の車輪のように経巡っていく世界。
人間の世界にいると思っていたら、なにかのきっかけで畜生界や地獄界に落ちたり、ところがそういう世界に落ちていても、またなにかのきっかけがあると天上界のような喜びを覚えたりするが、この六道の世界にいるものは、六道輪廻の絆からは抜けきれない。ですから、仏教では、この六道輪廻の絆から抜け出ることを、大きな意味で、一応「悟り」だと考える。そして、この悟りには四つの悟りがあって、それが仏の悟り、菩薩の悟り、縁覚の悟り、声聞の悟りというす。この四聖界に入った方たちは、もう輪廻をしない。
この十界の中で、二、三、四の、菩薩界、縁覚界、声聞界、この三つの世界を対象としたものを三乗という。「乗」というのは「乗り物」、あるいは「教え」という意味。この「界」という言葉を「乗」という言葉に置き換えて、菩薩乗、縁覚乗、声聞乗と表現し、これを三乗と呼ぶ。そして、この三乗というものが、法華経の中で、非常に重要な位置を占めてくることになる。そこで、仏教では一般的に、この三乗をどんなふうに説明しているか『佛教大事典』にはこんなふうに書かれている。
声聞という生き方
保育園の幼児たちのこと。
仏教において、声聞という道を進む者は、師匠によって自分を形作ってもらうことが重要です。彼らは何もかも捨てて師匠に従い、その指導の下で自己を形成するのが出発点となります。これは日本の社会にも根付いている伝統で、若者が職人の親方の元で修行し、その人の影響を強く受けるような生き方です。お釈迦さまの時代にも、彼に弟子入りした者は、お釈迦さまによって自分自身を作り上げてもらうことを望んでいました。お釈迦さまが亡くなった後、彼の偉大な弟子たちが師匠の役割を引き継ぎました。女性が白無垢を着て新たな家庭に嫁ぐように、彼らも新たな人生を歩み始めたのです。
舎利弗は仏教の中で声聞の代表的な人物で、お釈迦さまによって彼の最優秀の弟子と称されました。しかし、彼がお釈迦さまの教団に入ることになった経緯には興味深い話があります。
舎利弗は仏教教団に入る前、サンジャヤの元で出家し、教団内で優秀な立場にありましたが、心の奥底で真の教えを求める思いがありました。彼は王舎城の街で托鉢するアッサジという修行者に出会います。アッサジの立派な姿に舎利弗は強く引かれ、彼に教えを求めました。
アッサジは「ものみなは成るに因縁あり、壊れるに因縁あり」と答え、舎利弗はこの言葉に深い啓示を受けました。すべては因縁によって生じ、滅するという縁起の教えが、舎利弗にとって重要な真理でした。彼はこの短い言葉から、深い思想を汲み取り、自分が求めていた真理だと確信しました。
しかし、彼がお釈迦さまを選んだのは、アッサジの言葉だけでなく、アッサジ自身が放つ輝きにも影響されたと思われます。舎利弗は無意識のうちに、アッサジの背後にいる偉大な存在、お釈迦さまに目を向け始めていたのです。このようにして、舎利弗はお釈迦さまの弟子となり、その教えを深く学んでいきました。
縁覚という生き方
縁覚、または独覚は、独りで悟りを開く人々を指します。彼らは他人に教えを説くことを求めず、自己の内面の洞察を通して真理を悟る聖者たちです。別名で「辟支仏(びゃくしぶつ)」とも呼ばれています。この生き方は、師匠に導かれる声聞とは正反対で、独立して悟りを追求するものです。彼らが悟るのは、仏教の基本思想である「諸行無常諸法無我・一切皆苦」といった真理です。時には、山奥やジャングルの奥深くに隠れた聖者たちの存在を想像することもあります。
この縁覚のイメージを伝えるため、ヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』を参照することが適切です。この小説は、お釈迦さまの若名を借りた一人の若者シッダールタの物語で、彼の人生と悟りへの道のりを描いています。ヘッセは、お釈迦さまの心の過程をたどり、主人公にシッダールタという名前を与えています。
物語の舞台は、お釈迦さまの時代のインドで、バラモン階級の家庭に生まれた優れた若者シッダールタが登場します。彼は親友のゴーヴィンダとともに世俗の喜びに虚しさを感じ、出家して沙門となります。教えを習得するものの、虚しさを感じ続けます。ある時、ゴータマという聖者の存在を知り、ゴーヴィンダと共に彼に会いに行きます。ゴーヴィンダはゴータマの弟子となるが、シッダールタは異なる道を選び、世俗の世界へと戻ります。商人として成功し、富と快楽を追い求めますが、やがて沙門の心が戻り、遍歴の旅に出ます。
川のほとりでヴァズデーヴァという渡し守に出会い、渡し守としての生活を始めます。ゴータマの死を知り、多くの人々が彼に別れを告げるために川を渡ります。その中には、シッダールタがかつて愛したカマーラもおり、彼女はシッダールタの子を連れていましたが、毒蛇に噛まれて亡くなります。
シッダールタは、残された子供を育てながら渡し守をつづけていくのです。 しかし….....子供は父親に少しもなつきません。それどころか放蕩息子となり、父親を捨てて家出をしてしまいます。なにもかもなくしたシッダールタに残されたのは、川だけなんですね。
こうしたある時、シッダールタは川が笑う声を聞くんです。そのことをヴァズデーヴァに言うと、もう高齢で働けなくなっていた彼は、うれしそうに微笑んで、「やっとここまで来たな」という感じで、川からもっともっとたくさんの声を聞こうと、川のほとりへ誘うのです。これは、その部分です。一緒に読んでみましょう......。
この小説『シッダールタ』の全体像を抜粋だけで捉えるのは難しいですが、人生の苦難を経験した人が最終的に透明な世界を見出す様は、非常に感動的です。人間は経験を積むにつれて、汚れることもあれば、逆に透明になっていくこともあります。氷を重ねることで生まれる透き通った藍色のように、独りで悟りの世界へと進む人がいる。これが独覚(縁覚)と呼ばれるものでしょう。私たち凡人には計り知れない世界です。
仏教では、縁覚と声聞を「二乗」と称しています。大乗仏教の教義から見れば、彼らは二乗根性を持つ、自己中心的で他人を顧みない人間とされがちです。しかし、仏教史を考慮すると、これは誤った論理だと思います。私は声聞も縁覚も、彼らの偉大さに深い尊敬と敬愛を感じています。だから「小乗」という言葉は、正直なところ好きではありません。
この小説は、シッダールタの人生と悟りへの道のりを通して、人生の複雑さと精神の深遠さを探求しています。それは縁覚や声聞が目指す精神性の旅と重なり、私たちにも大いに示唆を与えてくれます。人生の体験を通じて得られる知恵と悟りは、誰にでも訪れる可能性があるのです。
人間をかぎりなく豊かにしていく智慧
菩薩乗について考えてみましょう。「菩薩」という言葉は、一般に、自己犠牲を惜しまず他人のために尽くす人という固定的なイメージを持たれがちです。多くの人がボランティア精神を代表するものとして菩薩を想像することでしょう。しかし、実際には菩薩はもっと幅広く多様な要素を持つ存在です。例えば法華経における菩薩は、単なるボランティア的な存在ではなく、仏法を求め、仏法を広める人々を指します。観世音菩薩のように慈悲深く人々に接する菩薩のイメージは一部に過ぎません。日蓮宗では、特に観音信仰が薄いことも興味深い事実です。
菩薩とは根本的に、仏の悟りや智慧を求める人のこと。つまり、自己犠牲の行為だけでなく、その行為を通じて仏の智慧をどう獲得していくかが重要なのです。菩薩は単なる普通の人間とは異なり、深い智慧を持つ存在として理解されるべきです。
ここで、畑山博さんによる『教師宮沢賢治のしごと』という本を例に挙げます。この本は、賢治が教師としてどのような人物だったかを探求しています。賢治の元生徒たち、現在は八十歳を超えたお年寄りたちが、彼の教えや人柄について語る記録です。この本を読むと、賢治の人間性、彼が及ぼした影響の深さ、彼の持っていた智慧について深く考えさせられます。彼らの心には今も賢治の思い出が鮮明に残り、その影響は計り知れません。
賢治は詩人、童話作家、宗教的人物として知られていますが、それと同じくらいに教師としても素晴らしい人物でした。畑山さんが賢治の授業を受けた生徒たちから収集した話は、賢治の人間性を浮き彫りにします。彼らの記憶から湧き出る言葉には感動が溢れています。
畑山さん自身も、この取材を通じて賢治に魅了されていったことが伝わってきます。このように人々を魅了し、深い影響を与えた賢治の智慧は、特別な種類のものです。私は、このような人間的魅力として人を豊かにしていく智慧を、「菩薩の智慧」と考えます。それは通常の智慧とは異なる、特別な種類のものなのです。
増上慢の人は、退くもよし
方便品という章は、その内容の豊かさと長さから、経文の重要な箇所が随所に見られる章です。特に後半部分には、言葉が宝石のように輝き、まるで宝石箱のような印象を与えます。この章を深く掘り下げると、時間がいくらあっても足りず、全体像を見失いがちです。そこで、経文そのものよりも、方便品の意味合いに焦点を当てることが重要だと思います。
この章で、お釈迦さまが三味から出て最初に口を開かれた際の言葉は、仏の智慧の広さと深さを示しており、教えを理解することの困難さを強調していました。この「拒絶の姿勢」により、期待していた聴衆の間に動揺が生じました。その後、舎利弗が熱心にお釈迦さまに説法を求める「三止三請」のやりとりが繰り広げられ、この緊迫した状況の中で、約五千人の聴衆が退場するという出来事が起こります。お釈迦さまはこの退場を黙認し、「黙然として制止せず」と言及しています。
このエピソードは、お釈迦さまが初めから「説くべき対象」を選抜しようと考えていたことを示唆しています。五千人の退場した聴衆は、法華経を聴く資格がなかったとも言えます。法華経は大平等の精神を持ちながらも、聴く側と語る側の世界には選抜が必要でした。退場した五千人は、増上慢の気持ちが強く、教えを謙虚に受け入れることができない人々だったのです。
このような逸話は、私たちが持つ増上慢や自己中心性について深く考えさせられます。実際には、我々凡夫のレベルでの増上慢にはある種の可愛げがありますが、より高いレベルに達した人々の増上慢は、その罪の根が深いものかもしれません。この話は、自己の限界を認識し、謙虚に学ぶことの大切さを教えてくれます。
著者がカラヤンに感じた増上慢体験エピソード。
仏は何のためにこの世に出現するのか
★一大事の因縁:開示悟入
雪の上を歩く虫:セッケイカワゲラ(Eocapnia nivalis)
仏の実在が感じとられてくると
コルベ神父のお話
衆生に仏の知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。
「空」と「諸法実相」の違い
「諸法実相」⇒「法華経の世界観」
諸法(存在・現象)の、その実(真実・ありのまま)の相(すがた)
諸法実相とは、単純な構図で理解できる世界ではない
仏教の世界観を考えると、「三宝印」が思い浮かびます。これは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」、そして「一切皆苦」を含めた四宝印とも呼ばれます。さらに深く考えれば、般若経に記された「空」の概念も浮かぶでしょう。この世界は本質的に「空」であるという観念です。「諸法実相」を理解するためには、まず「空」という概念を考察する必要があります。
全ての存在は本質的に「空」であり、この世のありとあらゆるものは、実体を持たず、「空」という状態や関係性で成り立っています。大乗仏教の基本思想は「空」ですが、法華経における「諸法実相」は、般若経の「空」を単にバリエーション化したものではないのです。
「空」という考え方は、物事を否定するプロセスであり、深く見つめれば何も実体がないという本質が明らかになります。重要なのは、表面の現象よりも本質である「空」を観じることです。
法華経は物事の本質を「空」として見ることを勧めているわけではなく、「物事をそのまま、ありのままに見なさい」と教えています。
一方は、まず疑ってかかれ、外観に騙されちゃいけないぞと教えていますが、一方は、この世には無限の多様性と無限の変化が存在している、それらを一つ一つ真実だと受け取りなさいと言っている。こういう違いがあるのです。否定と肯定数学で言うと、ベクトルが反対方向を示しているわけです。
物語を考えると、リアリズム小説と童話の違いがあります。リアリズム小説では、人間の生活や人生が現実的かつ写実的に描かれます。王も庶民も同じ悩みや苦しみを抱えており、矛盾や不合理に溢れた世界が表現されます。これにより、読者は人生の「空」さを感じさせられます。一方、童話はファンタジーに満ちており、日常の些細な事柄から始まる夢が物語を通じて大きく展開し、読者を驚かせます。この退屈な人生が輝かしい世界に変わる瞬間を提供します。
仏教の教えは、このようなファンタジーのような現実肯定ではありません。しかし、般若経のように否定から始まり、最終的に肯定的な世界を見出すより、すべてを最初から肯定する方が素晴らしいことでしょう。
しかし、人間は自己本位で利己主義的な生き物で、自然界の他の生き物と同様に、完全な肯定は困難です。般若経のように否定から始めて、「空」を見つけ出すことができるのはごく一部の人々に限られます。
諸法実相という世界観は、人間の理解を超えたものであると理解すべきです。法華経の中で、解空第一と讃えられた須菩提(スブーティ)でさえ、この世界観を完全には理解できず、外れた存在として描かれています。したがって、法華経の世界観は、一切皆空という単純なものではないと考える必要があります。
それなら諸法実相とは、どんなことをすれば見えてくる世界なのでしょう。
経文にはこう説明がしてあります。
つまり、仏さまが獲得した智慧というのは、気の遠くなるほど長い年月、一心に修行を積み重ねることで得たものである。だから、その智慧は、おそろしく広くて深い。しかも、仏は相手の能力に応じて、もっともよい方法(方便)で、教えを説くこともできる。とにかく、その能力は無量であり、(限界がないくらい大きい)無礙である(何ものをも恐れるものはない)。しかも禅定に入り、深い三昧によって精神統一を完成させているのだ。とにかく、表現しようもないほど驚嘆すべき智慧を、仏は完成しているのです。
つまり、このような、仏さまだけが見ることのできる世界、これを「唯、仏と仏とのみ、乃ち能く諸法の実相を究尽せばなり」とおっしゃっているのです。
仏教には多様な教えが存在します。特に大乗仏教は、「空」という思想から出発した仏教の一派ですが、すべての大乗仏教が「空」だけで理解できるわけではありません。実は、大乗仏教の中には「空」だけでは説明しきれない、またはそれを超えた思想を持つ経典も存在します。その代表的なものが法華経です。
法華経では、仏性や永遠、進化した菩薩思想といった概念が中心となり、仏教の世界観を変化させています。時代が進むにつれ、「諸法はそのまま真実である」という新しい解釈が生まれました。これにより、「仏さまだけが物事をありのままに見る」という考えを超え、「すべてのものがそのまま真実である」という見方が広まりました。
日本の仏教は、この「ものごとはそのまま真実である」という教義を根底に持っています。しかし、教義が深まることは必ずしも素晴らしいことではなく、時にはその深化が仏教の衰退を招くこともあります。教義が高度に発展すると、それが無意味なものとなり、歴史から消えてしまう可能性があるのです。仏教には一種の「業」のようなものが内在しており、教義や教学を担う人々は、この内在的な問題をしっかりと見据える必要があります。教義は両刃の剣であり、その危険性を認識することが重要です。
法華経の中で、諸法実相の世界観は抽象的なものとして扱われますが、それだけに留まらず、具体的な要素も加えられています。舎利弗のような一部の人物にしか完全に理解できないものでありながら、その深みには実際にわかるような具体性が含まれているのです。
ものごとを「ありのままに見る」とは
「物事をありのままに見る」という考え方には、重要な問題点や疑問が内在しています。具体的には、煩悩や悪業などの汚れに対して仏はどのように向き合っているのかという疑問です。私たちが生きるこの世では、異質なものとの対峙が最も難しい課題です。思想や感性が異なるものとどう向き合うか、特に自分に害を与える可能性のあるものに対しては、「ありのままに見る」という態度だけでは対応できません。「存在するものはすべて真実である」という考え方は、簡単に受け入れられるものではありません。
法華経では、このような問題を扱い、具体的に説明します。特に第十二章「提婆達多品」では、悪人や女性の成仏を通じて、仏の見方を明らかにします。さらに、多くの仏弟子や菩薩に対して、将来仏になることを保証する授記が与えられます。これにより、仏の救済の概念が重要な位置を占めるようになります。法華経を読むと、その背後にあるのは仏の救済という思想であることが明らかにされています。法華経は、この点において非常に巧妙に計算された経典と言えます。
教義の話から一旦離れ、私たちの視点で「物事をありのままに見る」という世界について考えてみましょう。
芸術の中には、時折、不思議な力を持った作品が存在します。そういった作品は、しばしば人間の弱さや卑怯さ、嫉妬など、人生の汚れた部分をありのままに描き出しています。しかし、それらの作品には、どこか別の世界から静かな光が射しているように感じられる瞬間があります。また、寂寥感が昇華し、透明で結晶化したような作品もあり、彼岸からの風が吹いているような感覚になります。
たとえば、上野の西洋美術館に展示されているレンブラントのエッチング作品の中に、洞窟のような場所でキリストが貧しい人々に説教している作品があります。なにもかもが薄汚さでいっぱい、そういう画面です。 優雅とかエレガントなどとはおよそ無縁な画面です。ところが、この画にはどこかから寂光が一筋、静かに射し込んでいる不思議な絵です。
このような彼岸からの風や光が感じられる作品に出会うと、それは決して作者の意図や計算だけで生まれるものではないと思います。技巧や技術の問題を超えて、作者が世界を見つめる視線の奥深くに、すでに彼岸の風が吹いているのでしょう。このように、彼岸の光に照らされた視線は、物事をありのままに見つめ、描いていく過程で、透明な寂寥感が滲み出るのではないでしょうか。芸術作品を通して、私たちは彼岸の世界からのささやかなメッセージを感じ取ることができるのです。それは、物事をありのままに見るという姿勢が、単なる現実の描写を超えて、より深い真実に触れる瞬間をもたらすのです。
以前、池袋の文芸座で『私が棄てた女』という映画を見ました。映画の物語は、見かけ上魅力のない女性が、一途に愛を捧げ、最終的には命を捨てるというものでした。この映画が遠藤周作の小説を元にしたものだと知った時、驚きました。その後、私は遠藤周作の作品に再度目を向け、『哀歌』という短篇集を手に取りました。彼の作品には、まるで別の世界からの光が射しているように感じました。遠藤周作の変化の背景を探ると、彼は30代の終わりに重い病を患い、生死をさまよう大手術を経験していました。若い頃から死を見つめ、人間を深く観察してきた彼の視線は、初期の観念的なスタイルから深く、広い視野を持つ作家へと変貌を遂げていたのです。
この現象の背後には、法華経が説く「諸法実相」という世界のヒントが隠されていると感じます。「ものごとをありのままに見つめる」というのは、見方ではなく、視線の本源に重要性があると思います。その本源に、彼岸の世界からの寂寥に満ちた光が射していなければ、真の洞察は得られないのです。
また、「美」の概念について考えることも、諸法実相の理解への一歩です。人間の側面からではなく、彼岸の世界が深く関わる「美」の中には、人知を超えた領域が存在します。この美を二つに分けて考えると、一つは青春の真っただ中にいる人間が見る世界の美しさ、もう一つは末期の眼を持ってしまった人間が見る世界の美しさです。
青春の真っただ中にある美しさは、一度きりの絶妙な贈り物です。例えば、モーツァルトの音楽は、青春の輝きに満ちた美しさを表現しています。彼の晩年の作品には、彼岸から吹いてくる風のような美しさがあり、それは人間がこの世に「さよなら」を告げる際に見える美しさです。
同様に、お釈迦さまの最後の旅の途中での描写にも、このような美しさが見られます。死に向かう道のりで、彼は過去の思い出を振り返り、それぞれの場所に感慨深く言及しています。このような眼差しは、人間が特定の瞬間に経験するものです。例えば、卒業式の際に校舎を振り返るときに感じる深い感慨は、その一例です。
最終的には、「諸法実相」、つまり物事をありのままに見る世界は、このような経験を積み重ねていくことから始まると思います。それは、ただの抽象的な理念ではなく、具体的な経験と感慨の積み重ねによって形成されるものなのです。
譬喩品ひゆほん第三
譬喩品第三のあらすじ
心の眼が開く
法華経の第三章「譬喩品」には、「三車火宅の譬え」という名高い譬え話が含まれている。この話は、法華経の第二巻に位置しており、仏教徒にとって非常に重要な部分だ。この章では、仏陀がなぜ譬え話を語るのかという前提が示されている。先に、舎利弗が仏陀の教えを理解し、仏陀は彼に華光如来になるという予言を授ける。しかし、他の弟子たちは舎利弗の予言を喜びつつも、仏陀の真の意図を理解できずにいた。そこで仏陀は、彼らにも理解できるように、簡単な譬え話を用いて教えを説明しようとする。
しかし、法華経の解説書では、この譬え話の前半部分がしばしば省略されている。この部分は、舎利弗の心の眼が開かれるという重要な場面を含んでいるにもかかわらず、多くの著者がこの心理的過程を追いかけていない。このため、読者はしばしば不満を感じ、教義の深い理解に至らないことがある。
方便品の章では、仏陀が当初、法華経は難解であるため説かないと聴衆を拒絶する。しかし、舎利弗たちの熱心な懇願に応え、仏陀は教えを説くことを決意する。この段階で、舎利弗はすでに仏陀の本心を理解していた。この理解の鍵は、方便品の経文にある。仏陀の初めての言葉は、衆生に同じ悟りを与えたいという誓願を示している。これは、阿弥陀仏の第十八願と類似している。また、方便品には、仏陀が衆生に仏の知見を開かせるためにこの世に出現したという教えも含まれている。これは「一大事因縁」と名付けられ、仏の出現の理由を示している。
しかし、法華経が説かれること自体が、仏にとっての本願であり、舎利弗はこの点を理解していた。この理解により、法華経の説法が始まった時点で、すでに舎利弗は仏陀の心を理解していたのである。
忘れている自分を思い出す
仏教にはさまざまな流派があり、それぞれに異なる教えや視点が存在する。特に、禅宗や小乗仏教と大乗仏教では、教義に顕著な差異が見られる。大乗仏教は、「空」の概念だけではなく、「仏性」や「永遠」といったテーマも追求している。これらの概念は、空観の哲学だけでは説明がつかない深みを持っている。大乗仏教の特徴の一つは、「仏・菩薩の誓願」が強調されている点にある。一般的に人々は仏教の悟りや救いを、修行を通じて得られるものと捉えがちだが、大乗仏教では仏の慈悲や誓願の力がより重要とされている。これは、悟りが努力によって獲得されるものではなく、本来持っているものという視点への転換を意味する。
法華経を深く理解するためには、自己の内面を深く探求し、普段は意識しない自分自身と向き合うことが重要だ。例えば、法華経で舎利弗に授けられた授記は、物語のほんの始まりに過ぎない。法華経は多くの人物に授記を与え、その数は数えきれないほどになる。ただし、ここで忘れてはならないのは、授記と禅宗の「印可」は異なるものであるということだ。印可は師が弟子の悟りを証明する行為であるが、授記はまだ悟りを得ていない人に対し、将来仏になるという予言をする行為である。例えば、仏が道を歩いている際に出会った人に対して、「三百年後に〇〇如来になる」と予言するような場合、その人は驚くだろう。重要なのは、授記が未来において絶対的な確実性を持っているという点である。これは、現在の状況ではなく、未来への確固たる約束として理解されるべきだ。
舎利弗に対する仏陀の授記の前には、舎利弗への深い言葉がある。梵文訳を見ると、舎利弗が長い間仏陀の弟子であり、前世の修行と誓願を忘れ、「さとり」の境地に達したと誤解していたことが明らかにされる。仏陀は、舎利弗に前世の修行と誓願を思い出させ、智慧を目覚めさせるために法華経を説いたと述べられている。舎利弗は、過去の長い旅路を忘れ、現世の悟りにのみ執着していたが、真の悟りはそれだけではなかった。仏陀は、舎利弗に前世の修行と誓願を思い出させることで、真の智慧の目覚めを促したのだ。
この教えは、人間が現世だけを全てと見なすと、法華経のような教えは理解しづらいものとなるが、過去の生を思い出すことで、法華経の教えが身近なものに変わり始めることを示唆している。大河の水音のように、法華経は徐々に心に響くようになる。
人間はしばしば自己を探求しようとするが、外側に目を向けていることが多い。内面を見つめることは簡単ではないが、一旦内側に目を向けると、驚くべき発見をすることがある。法華経はこのような内面の転換を通じて、宝の蔵のような価値を持つ教えとなるのだ。
仏性はすべての生きとし生けるものに本来備わっているとされているが、道元は仏性の本質について異なる見解を持っていた。彼は、仏性は成仏するまでは存在せず、成仏した後に初めて「仏性が具足していた」と認識されると説いている。これは、仏性の実在は成仏というプロセスを経なければ確認できないということを意味する。道元にとって、仏性と成仏は紙の裏表のように密接に関連しており、別個の概念として扱われない。
この考え方は、子供たちのナゾナゾ「お母さんと赤ちゃんはどちらが先に生まれたか」という問いに似ている。このナゾナゾの答えは、「赤ちゃんを産むまでは女性だったが、赤ちゃんを産んで初めてお母さんになる」であり、お母さんと赤ちゃんは同時に生まれるということを意味する。道元の仏性に関する見解とこのナゾナゾは、相互に依存する関係を示している。
法華経もこのような考え方を示している。仏陀は法華経を説く時が来たと述べ、「わが所願の如きは、今、すでに満足し……」と言葉にした。これは、成仏という証がなければ、具足しない仏性のようなものだと示唆している。母親になる前の女性のように、道元の考え方によれば、成仏する前の仏性はまだ具足していない。このような観点から、法華経の「授記」が登場する。授記がなければ、法華経はいつまでも完結しない経典となる。この見解は、仏性と成仏の関係性を深く掘り下げ、仏教の深遠な教えを示している。
あちら側感覚とこちら側感覚
仏教でいう、あっち側とは、いわゆるあの世:霊界のことではなく「彼岸の世界」のこと。仏の価値観の世界。絶対の世界、あるいは価値観を超越した世界。日本仏教の怠慢の一つは、この「彼岸の世界」と「霊界」とを、キチンと区別して教えようとしないこと。むしろ霊界専門になって、祖霊供養を生業としてしまっている。もっとも日本人は、この霊界感覚が根深くて、やむをえない要素もある。⇒例:能の世界でいう「鏡の間」⇒仏教が表現する彼岸とは別感覚の世界。
「彼岸の世界」を「鏡の間(霊界・幽界)」と混同してしまうと、法華経の一番大事な部分が、歪曲されかねない。
音楽を全存在で愛し、短い生涯を駆け抜けたシューベルト。彼の心の中には、二つの世界が共存していたと想像される。彼は、本来の居場所が「あちらの世界」にあると感じていたが、現実には「こちらの世界」で生活していた。この状況から、シューベルトはおそらく、この世が一時的なもの、仮の人生であるという考えに至ったのだろう。
この「あちらの世界」という感覚が重要である。世俗的な価値観ではなく、永遠の価値観に目覚めた人は、この世の重要性が薄れ、「あちらの世界」に心が惹かれ始める。シューベルトの心の中では、この二つの世界が適切なバランスで存在していたのだ。このようなバランスが、彼の音楽に深い感情と豊かな表現をもたらしたと考えられる。シューベルトの音楽は、この世とあちらの世界の間に架かる橋のようなものであり、彼自身がその両世界を行き来しながら生み出した芸術の結晶だったのではないだろうか。
★本籍は「あっち側」、現住所は「こっち側」を生きぬいた人の話
1:スピノザ
バールーフ・デ・スピノザ、17世紀のユダヤ系オランダ人哲学者は、社会や人間の悪意に翻弄されつつも純粋な生き方を貫いた。彼の人生は、まるで物語のようなもので、社会科の教科書にもその名が登場する。汎神論の提唱者として知られ、西洋の一神教的背景の中で異端的な宗教観を持っていた。
スピノザの初めの挫折は20代で始まる。ラテン語教師の娘への恋愛と失恋、そしてその後の孤独と絶望から、彼は独学で哲学の道を歩み始める。しかし、そのすぐれた才能と独創的な思想が教会の怒りを買い、最終的には破門される。17世紀ヨーロッパにおける破門は、人間としての生きる道を断たれるほどの大事だった。
スピノザはこの逆境の中で、屋根裏部屋での孤独な生活を送りながら、レンズ磨きで生計を立て、肺病と闘いつつ、後世に残る著述を完成させる。44歳で静かに亡くなるまで、彼の思索は純粋なものであり続けた。後世の人々は彼を「屋根裏の哲人」「神に魅入られた人」と呼び、彼の信仰はどこか東洋的だった。
スピノザの一生を考えると、彼は本来「あちら側」の世界に属しているが、「こちら側」の世界で生きることを余儀なくされたように思える。もし私たちがスピノザのような人生を送り、「あちら側の世界」を持たないなら、反抗的になるかもしれない。しかし、「あちらの世界」が本籍で、「こちらの世界」が仮の世だという信念が強ければ、精神は天に向かって飛翔し、純粋なものへと昇華するかもしれない。スピノザの人生は、この世の逆境にもかかわらず、その精神性が純粋さを保ち続けたことを示している。
2:白隠禅師
法華経の譬喩品を考えるとき、白隠禅師の名が浮かぶ。臨済宗の僧侶であり、法華経によって深い悟りを得た人物として知られている。白隠は四十二歳の時に、ドラマチックな体験を通じて法華経の真髄を理解した。彼は既に二十代で二度の大悟を経験しており、修行や文芸においても非凡な才能を発揮していた。幼少期から法華経に親しんでいた白隠だが、出家後はその経典から離れていた。十五歳で出家し、肉身が火にも焼かれず、水にも濡れないような力を求めて苦行を続けたが、効果は見えず、心は満たされなかった。その後、法華経に再び目を向けるが、最初はその教えに疑念を抱いていた。
しかし、四十二歳の秋、白隠は「看経」という看板を掲げ、僧侶にマンツーマンで法華経を教え始める。そして、譬喩品を読み進める中で、部屋の外で鳴いていたキリギリスの声が彼の心に響き、突然、法華経の深い意味を悟った。白隠は感動のあまり号泣し、法華経がなぜ「経王」と呼ばれるのかを理解した。この時、彼は以前に理解していた法華経が、実際の教えとは似ても似つかないものだったと気づいた。
法華経はなぜ破天荒な教えと言われるのか
舎利弗は、お釈迦さまから直接授記を受けたことに大きな喜びを感じていましたが、同時に一つの疑問が心に浮かびました。他の会衆が彼の授記を喜んでいる様子は見えたものの、彼らが本当にお釈迦さまの教えを理解して喜んでいるのか、舎利弗には疑わしいように思えたのです。彼らは単に舎利弗が授記を受けたことを喜んでいるだけではないかと。
この疑問を抱えて、舎利弗はお釈迦さまに願いを述べました。彼は、会衆が混乱し、法華経の教えに疑念を抱いていると感じ、お釈迦さまに、これらの疑問や混乱を晴らし、教えをやさしく再度説明するよう頼んだのです。
お釈迦さまは舎利弗の願いに応え、わかりやすい譬え話を用いて、仏の真意を説明することにしました。そこで語られたのが、「三車火宅の譬え」です。この譬え話は、この章の中心的な部分となり、このためにこの章は「譬喩品」と呼ばれるようになりました。
この譬え話に入る前に、いくつかの重要なポイントを理解する必要があります。お釈迦さま自身が法華経を説くことをためらっていたことを思い出しましょう。舎利弗が熱心にお願いしたことによって、ようやくお説法が始まったのですが、教えは非常に異例なものでした。舎利弗自身、心の中で、こんなことを考えながら聴聞していました。
「この世の指導者である仏の声をはじめて聴き、わたくしの驚きはすさまじかったのです。『悪魔が仏の姿をして、この世に現われて、わたくしを悩ますのであろうか』とさえ思いました。」と。
では、この破天荒さの源はどこにあるのか。実は、法華経から離れたとたん、次々に見えてくる仏教の景色というものがある。特に、大乗仏教経典には、二乗、つまり声聞の生き方と、緑覚の生き方を徹底的に否定した経典が散らばっている。
【大集経】声聞・緑覚の二乗は、自分ばかり六道の生死を離れて、再び生まれて来ないから、父母の恩に報いることができない。この人たちはちょうど、深い穴に落ち込んで、自分が出ることもできず、また人を救うこともできぬようなものである
【方等陀羅尼経】枯れた樹に花が咲かず、山の水が逆に流れず、一度火で炒った種からは芽が出ないように、二乗も成仏することはない
【首楞厳経】五逆罪のような罪人でも成仏の可能性があるが、二乗にはそれがない
【浄名経】二乗に施しなどしても功徳にはならない、むしろ二乗に供養するものは、かならず地獄に堕ちる
【維摩経】二乗の行う善業と、凡夫の犯す悪業を比較して、凡夫の犯す悪業のほうが救いがある
日蓮聖人が「我が御弟子を責め殺さんとにや」と驚愕するくらいんの内容。
声聞や縁覚の弟子たちは、ある種の状況に慣れ親しんでいました。彼らは、自分たちはもはや成仏の望みがないと感じ、失望に満ちた弱音を吐き始めていたのです。しかし、法華経が説かれると、事態は一変しました。お釈迦さまは、二乗も三乗もなく、すべての存在が成仏するという驚くべき教えを説き始めたのです。
この新たな教えを聞いた弟子たちは、驚きと疑念に包まれました。彼らは自分の目と耳を疑い、まるで悪魔が仏の姿をして彼らを惑わせているのではないかと感じたほどでした。舎利弗が心の中で「悪魔が仏の姿をして、この世に現われて、わたくしを悩ますのであろうか」と疑ったのも、そのためです。このように、二乗が成仏するという教えは、それほどまでに革新的で破天荒な内容だったのです。
二乗蔑視と、女人蔑視:インドの仏教の歴史を踏まえないと、このあたりはなかなかわからない。
チャーリー・チャップリンの映画「独裁者」は、ナチスドイツとヒットラーを風刺した作品でした。この映画では、チャップリンが狂気の独裁者とその双子のユダヤ人床屋を一人二役で演じていました。物語のクライマックスでは、床屋が独裁者に成りすまし、国外逃亡しようとする場面がありますが、偶然にも大演説会場に迷い込み、演壇に引っ張り上げられてしまいます。独裁者に成りすましていた床屋は、やむなく演説を始め、「人間はみんな兄弟です」という心に響くメッセージを伝えます。映画は、この力強い訴えで幕を閉じました。
法華経の教えも、この映画の演説に似た特質を持っていました。昨日まで一部の人々を排除するような教えがあったにも関わらず、今日には「みんな兄弟ではないか」という訴えに転じたのです。聞いていた人々は、この変化に驚いたでしょう。しかし、心に深く響く真の教えは、映画の中の偽独裁者床屋が語る「愛」の教えだったのです。お釈迦さまが仏乗という「心の真実」を説き始めた背景には、仏教全体の流れがありました。この背景があったからこそ、舎利弗の授記が他の会衆に与えた喜びは非常に大きなものでした。
そこへ到る道はただ一つ
「三車火宅の譬え」は、法華経の中でも特に印象的な部分です。この譬え話は、ある富裕な長者の家が火事に見舞われるという設定で始まります。家は古く朽ちており、多くの人々が住んでいますが、家には入口が一つしかありません。長者は、この火事から無事に脱出しますが、彼の多くの子供たちは家の中で遊んでおり、火事の危険を全く意識していません。
長者は最初、子供たちを力ずくで救出しようと考えますが、すぐにそれが不可能であることに気づきます。彼は代わりに、子供たちを家から誘い出すために、彼らが欲しがる玩具を外に用意すると告げます。その結果、子供たちは家から逃げ出し、無事に救出されます。しかし、長者は子供たちに約束した玩具の代わりに、もっと素晴らしいものを与えます。
お釈迦さまはこの譬え話を終えた後、舎利弗に質問をします。彼が最初に約束した玩具を与えず、最終的にはより優れたものを与えたことが嘘ではないかと。しかし、舎利弗は、長者が子供たちを救ったこと自体が重要であり、約束の違反ではないと答えます。
この譬え話は、仏道を進むには様々な方向があり、仏教には多様な教えが存在することを示しています。天台大師や日蓮聖人のような方たちは、この複雑さを深く考え、法華経にその答えを見出しました。
お釈迦さまは、この譬え話を説くにあたり、「理解のすぐれた人は唯一つの喩え話をしても、直ちにその意義をとる」と述べています。これは、聞く者が話の中から仏さまの真意を理解し、単に聞くだけでなく、深く考えることの重要性を示しています。
この話の構造を、簡単な図で説明してみましょう。つまり、法華経が説く、一仏乗(大白牛車)とはどういうものかという構造ですね。
多くの人々は、世界には多様な宗教があり、仏教内にも多くの宗派が存在するが、最終的にはすべて同じ頂点にたどり着くという考えを持っています。著者はこの考えに理解は示しても、法華経によれば、この発想は誤りです。法華経の中で語られる「三車火宅の譬え」には、古びた家に「唯一つの入口しかなかった」とあります。これは、我々が生きる迷いと煩悩に満ちた世界、つまり三界の特殊な構造を象徴しています。
火宅を一歩出てみると
かつて、高校の先生から著者が聞いた物語があります。それはアフリカのキリマンジャロ山についてのものでした。赤道直下にそびえるアフリカ最高峰の山頂は、一年中白い雪で覆われています。ある日、登山隊がその高い場所で豹の死体を発見しました。その場所は通常、豹が生息する範囲ではないとされています。登山隊は、この豹が山裾で生活し、日々その威厳ある山を仰ぎ見ていたのではないかと結論づけました。山頂の雪に覆われた神々しい静けさと、深い青い空の背景に心を引かれ、豹は衝動に駆られて山を登り始め、力尽きたのだと。この話を聞いて著者は驚きました。なぜなら、著者自身が似たような体験をしていたからです。
幼い頃、著者は父の勤める社宅に住んでいました。その窓からは町を見下ろす山が見え、私は飽きることなくその山を眺めるのが好きでした。マーケットが近くにあり、騒がしい環境でしたが、山を見ていると、周囲の雑音はすべて消え去ってしまいました。山頂の神々しい静けさに心奪われ、真っ青な空の背景に小さな雲が流れる様子に魅了されていました。その素晴らしい場所への憧れは強く、アパートを出て山に近づこうとしました。しかし、人込みの中では山の姿が見えなくなり、結局迷子になってしまうのでした。そんな著者のために、母親は胸に木札を下げ、住所と名前を書いていました。
かつて、ジャーナリスト立花隆は、宇宙を訪れたことのあるアメリカの宇宙飛行士たちの声を集め、その経験を「宇宙からの帰還」という書籍にまとめました。この本は昭和五十八年に出版され、地球の外で何を感じ、どのように変わったのかを探求しています。百人ほどしか存在しない、この特別な経験を持つ人々の話は驚くべき内容で満ちており、読む者に深い印象を与えます。
この本を通して、私たちは地球を外側から見た人々がどれほど変化するかを理解することができます。宇宙飛行士たちの言葉は、宗教的な感覚に満ちており、多くが「神」を感じたり、その存在を信じるようになったり、さらには伝道者になる人もいます。彼らはまた、地球を一つの生き物として感じるようになると言います。これは非常に興味深い点です。
この話から、我々は理解できない「あっち側」の世界、つまり宇宙の向こう側について考えることができます。私たちはそのような世界を直接知ることはないかもしれませんが、それを理由に外界に対して無関心でいるべきではありません。未知の世界を探求することは、私たちの理解を深め、新たな視点をもたらすかもしれないのです。
身心脱落について著者が悟ったこと
二日前の夜、私は法華経の譬喩品を研究していたとき、心の中に興味深い思考が浮かびました。この思考のおかげで、長い間解決できなかった疑問が、まるで霧が晴れるように解消されました。
その疑問は道元の禅語、特に「身心脱落」に関するものでした。道元は悟りを「身心脱落」と表現していますが、これが何を意味するのか、長らく私の心を捉えていました。もし身と心が失われるとしたら、人間として何が残るのでしょうか。これは困難な問題です。ある解釈では「身心脱落」の後に残る何かが悟りの本質だとされていますが、それは私には理解し難いものでした。また別の解釈では、人間は仏から何かを受け継いで生まれるとされていますが、これも完全には納得できませんでした。
しかし、譬喩品を研究している中で、「身心脱落」という言葉がふと頭に浮かび、「身と心が失われた後に何が残るか」という考えが変わりました。私は「身心脱落」とは、身も心も失われて完全に消え去ることを意味するのではないかと考えるようになりました。
この考えに至ったのは、燃え盛る火宅から、長者が「出ておいで」と呼びかけるシーンがあります。その呼びかけに応じて、一人のお坊さんが静かに出口から外へ出て行く姿を見て、私は「身心脱落」とは、そういうことなのではないかと閃いたのです。
身と心が失われた後に何が残るかを考える必要はないのです。
全てが「あっち側」、すなわち彼岸の世界へ移行することこそが重要なのではないでしょうか。
これは日蓮宗の僧侶による法華経の解釈に基づくものですが、私は今、「身心脱落」をこのように理解しています。そして、いつか私たちも仏さまの呼び声に応じて火宅の外へ出て、そこに広がる美しい光景を目の当たりにすることを願っています。静かで、泣きたくなるほど美しい景色、光が降り注ぐその光景を。
燃える家とは
法華経は二十八品(章)から成り立ち、その中で譬喩品は最も長い章です。さらに、法華経は八巻に分かれており、その「二の巻」は譬喩品と信解品のみで構成されていますが、その大部分を譬喩品が占めています。この譬喩品はお坊さんにとっても読むのが難しい章で、珍しい漢字がずらりと並ぶため、声に出して読むのは一筋縄ではいかないのです。漢字に詳しい人でも、譬喩品の漢字をすべて読める人はほとんどいないでしょう。
譬喩品の偈文、つまり詩的な部分には特に興味深い内容が含まれています。この偈文は、普通の文章とは異なり、韻文の形式を取っています。韻文は、詩や和歌、俳句のようにリズムを持つ言葉で、記憶に残りやすい特性があります。経文の中では、長行と呼ばれる通常の説法の部分を偈文で再度繰り返すスタイルが取られています。
法華経の中では、偈文が特に長く、譬喩品の中でも特に長大です。この偈文には、長行で語られた「三車火宅の譬え」が再度語られるだけでなく、長行にはない独特の内容が含まれています。例えば、謗法の罪について詳細に語られた部分や、法華経を誰に説くべきかという指示があります。
偈文の内容は大きく三つの部分に分かれています。一つ目は「三車火宅の譬え」の繰り返し、二つ目は謗法罪についての説明、そして三つ目は法華経を説くべき相手についての指導です。
特に興味深いのは偈文の視点や力点が長行の内容とは異なり、私たちが住む三界という「火宅」の恐ろしさを強調している点です。この偈文は、現代のオカルトやホラー映画のような戦慄を与える描写で満たされており、魑魅魍魎が跋扈する恐ろしい世界を描いています。これは、仏教の経典にしては異例の内容と言えるでしょう。
この譬喩品の偈文を解説するためには、登場する魑魅魍魎、つまり怪物や悪魔たちを一つずつ詳しく説明し、難解な漢字の意味を解き明かさなければなりません。しかし、これだけで説明が終わってしまうと、実際の凄惨な地獄絵の伝達は難しいと考えました。
そこで、別のアプローチを取ることにしました。「もう一つの燃える家」というテーマを掘り下げることにしたのです。私たちの世界を表面的に見ると何も異常は見えませんが、その裏側には恐ろしい真実が隠されています。まさに燃え盛る家のようなものです。当初は、地球を蝕んでいる「環境破壊」について話すことを考えていましたが、そのテーマは抽象的で現実感が乏しいと感じました。そこで、もっと身近なテーマに目を向け、来るべき「超高齢化社会」について考えることにしました。私たちは皆、火の粉を浴びるか、火に焼かれるかのような近未来の現実に直面しています。
「火宅の譬喩」では、長者が一人であっち側に逃れ、燃え盛る家にいる子供たちに「この家は燃えている」と警告しました。私たちは、この警告を現実の中で捉え直し、本当に何が燃えているのかを問い直す必要があります。仏さまへの信仰や彼岸への憧れは大切ですが、現実的な危機感がなければ、それらはなかなか生まれにくいものです。
高齢化社会という火宅の様相
高齢化社会の問題は突如訪れる天災のようなものではなく、既に進行中です。加えて、子どもの数は歴史的に低下し、教育費の増加や社会的弱者の増加も予想されます。これらの問題は、現代の行政、医療、保険、年金システムに重大な影響を及ぼす可能性があります。
高齢化社会の問題は、単に老人福祉の問題ではなく、全社会的な課題です。将来、私たちはより若い世代が高齢者を支えるために強力なサポートが必要になるでしょう。しかし、現代の若者たちは、学業、いじめ、非行などの問題に直面しています。加えて、将来の介護を担うことになる女性たちは、現在さまざまな社会的課題に直面しています。
この超高齢化社会において、私たちが直面するであろう最大の課題は、心の問題です。私たちは、社会全体が高齢者をどのように扱うか、どのようにして彼らの尊厳を保つかを考えなければなりません。人間は、自然界の他の生物と異なり、弱者や不適応者と共存する唯一の生物です。しかし、合理主義や経済優先主義が、この人間の尊厳を脅かしている可能性があります。
この経をみだりに説いてはいけない
譬喩品の偈文の前半部分では、「三車火宅の譬え」が繰り返され、私たちが生きる世界の恐ろしさとおぞましさが描かれています。地獄変相図のように、私たちの世界がどれほど恐ろしい場所であるかが説かれているのです。そして偈文の後半部分には、長行にはない内容、「謗法」についての詳細な説明がされています。ここでの「謗法」とは、法華経の教えに反することを意味します。この部分では、法華経を謗ることの恐ろしい報いについて徹底的に語られています。
実際に、法華経や日蓮聖人に対して生理的な反発を抱く人もいます。彼らは、法華経や日蓮聖人を独善的、排他的であると捉え、地獄への脅迫と感じていることがあるのです。これは誤解であり、お互いにとって不幸なことです。法華経が謗法の罪を説く態度を単純に好きだとか嫌いだとか言うのは、表面的な解釈で、もっと深い理解が必要です。
「仏教電話相談」で、ある相談者が、宗教団体を辞めることについての相談をした際に、地獄に堕ちると脅されたという話があります。この相談者は、法華経の一節を読まされ、その経文には背信者が受ける恐ろしい報いが書かれていたため、辞められなくなったと語っていました。彼は、法華経が脅迫の道具として使われていると感じ、仏教に対して否定的な印象を持ったのです。これは間違った読み方であり、法華経が説く「謗法罪」は、このような意味ではありません。
法華経の真意は、恐怖を煽ることではなく、人間の心に深く訴えかけることにあります。謗法の話は、人間がどのように行動すべきか、どのような心構えを持つべきかを示唆しています。この偈文の解釈は、単なる文字通りの読み方を超え、より深い洞察と理解が求められるのです。
法華経の扱い方は、ダイナマイトや劇薬、あるいは原子力の扱いに似ていると言えるでしょう。これらはすべて、適切に使われれば人類に大きな恩恵をもたらしますが、専門家でない人によって扱われると大きな問題を引き起こす可能性があります。法華経もまた、その深遠な教えを理解する「機械」(仏教の理解能力)を持たない人々に語ることは、大きな矛盾や混乱を引き起こす恐れがあるのです。
法華経の方便品第二で、お釈迦さまが三昧から立ち上がり、初めて口にされた言葉は「この教えは難解難入だ」というものでした。
これは、法華経という未曾有の大説法に入る大前提となる重要な言葉です。ただの前提ではなく、この教えの核心を理解するための大きな手がかりとして捉えるべきなのです。
この点を心に留めることが重要です。法華経を学ぶには、その深い教えを理解するための適切な準備と心構えが必要であり、誰にでも簡単に理解できるものではない、というお釈迦さまの教えが、この経典の根底に流れているということなのです。
経文の奥にひめられた真実
法華経の難しさは、なぜ法華経を説くために方便が必要で、成熟するのに時間がかかるのかという前提を含んでいます。法華経の理解には、この特殊な世界を知ることが重要です。著者自身も、法華経が理解できなくなった時期があり、法華経の本質を探して迷った経験があったそうです。法華経を学ぶ者には、このような状況がよくあるようです。
法華経は、その素晴らしさや、読むことで得られる良い結果、そして功徳について述べられています。しかし、これを読んでも法華経の本質が何なのかはわかりません。西洋哲学の思考方法に慣れた人は、法華経に具体的な実体がないと感じるかもしれません。
例えば、猿が玉葱の皮をむいても中身がないように、法華経を学ぶ者も同様の肩透かしを経験することがあります。若い頃の白隠禅師も、法華経を理解するのに苦労した一人です。彼は法華経を薬の効能書きのように見ていましたが、後に眼を開いて法華経の真の意味を理解しました。彼の経験によると、真の法華は目に見えないが、奇縁で見えることがあると伝えています。
法華経の「難しさ」は、白隠さんの表現に倣えば、
「真の法華を見ることの難しさ」と言えるでしょう。
西洋には「カトリック作家」と呼ばれる文学者がいます。フランスのベルナノス、ジュリアン・グリーン、モーリアック、アンドレ・ジイド、イギリスのグレアム・グリーンなどがその一例です。日本には「仏教作家」という言葉はないのに、「カトリック作家」と呼ばれる人がいることが興味深いですね。遠藤周作、曽野綾子、高橋たか子などが有名です。
特に、「カトリック文学」の最高峰とされるモーリアックの『テレーズ・デスケールー』には驚かされました。神々しい内容を期待していた私は、全く逆の、神の存在が一切出てこない物語に拍子抜けしました。テレーズ・デスケールーという女性が夫を毒殺しようとし、裁判にかけられる恐ろしい物語でした。そして、グレアム・グリーンの『情事の終り』を読んだ時、初めてカトリック作家たちが目指す世界が見えたのです。
あらすじ:
第二次世界大戦の前後、ロンドンを舞台にした物語が展開します。主役はモーリス・ベンドリクス、少し名の知れた小説家です。彼は高級官僚を主人公にした小説の取材のため、ヘンリ・マイルズという役人と知り合い、その過程でヘンリの妻セアラと深い関係を築きます。ヘンリは面白みのない男で、夫婦関係は形だけのものでした。そこからモーリスとセアラの情事が始まり、彼らは互いに深く惹かれ合います。しかし、突如としてセアラはモーリスから離れてしまいます。その理由は、モーリスにも読者にも謎のままです。数年が経ち、ある雨の日、モーリスはヘンリと偶然再会し、再び彼の家に出入りするようになります。セアラとの再会はありますが、彼女は変わってしまっていました。なぜ彼女が変わったのか、その理由は誰にも分かりません。この時、ヘンリはモーリスに心の悩みを打ち明け、セアラが変わった理由を、別の男ができたためだと疑っていました。モーリスも同じ疑念を持ち、嫉妬心から探偵にセアラを調査させます。調査の結果、情事の相手がいないことが明らかになりますが、セアラは病に倒れ、結局は肺炎で亡くなります。ヘンリとモーリスにとって、セアラの死は共通の悲しみとなります。モーリスは、とうとうヘンリにセアラとの関係を告白しますが、セアラの死の意味は依然として謎のままです。
そして、セアラの日記が発見されます。彼女とモーリスが密会していた日、ロンドンがVロケットの爆撃を受け、モーリスが死んだと思い込んだセアラは、神に対して彼の命を救う代わりに永遠にモーリスと別れると約束します。しかし、モーリスは生きており、セアラは苦悩の中で神との約束に苦しむことになります。この日以降、セアラの生活は神との格闘に変わり、最終的には教会への通い疲れから肺炎で亡くなります。この物語は、セアラの突然の「情事の終り」の謎をめぐる、深く感動的な展開を見せるのです。
その日、モーリスとセアラは密会中にドイツのVロケット爆撃に遭い、モーリスが死にかけた瞬間、セアラは神に対して彼を救う代わりに永遠に別れることを約束します。モーリスが生きていたことに気付いた後、セアラの苦しみが始まります。この物語は「神」を描くのに非常に巧みで、神の力がすべての行動の背後に影響していることを示します。神は一度も登場しないが、この物語の中核となる存在です。
このカトリック文学を読んで、著者は法華経についての理解を深めました。法華経の経文の中に法華経の実体を求めるのは誤りで、法華経の真理は特定の状況の中で突然、鮮やかに見えてくるものだと気付いたのです。法華経を説くためには、正しい時期と方法、そして信じてついていく姿勢が必要であることも理解しました。
信解品しんげほん第四
信解品第四のあらすじ
多くの人々の幸福のために生きよ
物語は、仏教の教えにおける重要な転換点に焦点を当てています。ここで、お釈迦さまが仏教の中の三つの生き方、すなわち三乗が、実は一つの究極の道へと導くための方便であることを明らかにされました。特に、声聞乗の代表である舎利弗に対して、お釈迦さまは彼が未来に華光如来となることを予言し、授記を与えます。これは、誰もが仏になれるという教えの具体化であり、法華経が究極の教えであることの証です。
この背景から、信解品では四人の大声聞がお釈迦さまの前に進み出ます。彼らは長い間僧団の指導者であり、空・無相無作の考え方に従い、この世を実体のない空と捉える生き方をしてきました。しかし、彼らは舎利弗が法華経により未来の仏となることを目の当たりにし、深い喜びに満たされます。
彼らはお釈迦さまに向かって、自らの心境の変化を譬え話を通して語り始めます。この譬え話は「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え」として知られ、法華経の中の七つの譬え話の一つです。特筆すべきは、この話がお釈迦さまによって語られたのではなく、大声聞たちがお釈迦さまに対して語ったものであることです。
彼らは、これまで望んでいなかったり考えてもいなかった偉大な宝玉を得たと表現し、この新たな発見と理解に満ちた心境を、譬え話に託して伝えるのです。この譬え話は、彼ら自身の心の変化とともに、法華経の深遠な教えの理解を促すものとなっています。
それでは、物語を追いかけてみましょう。
かつて、幼い頃に家を出た若者がいました。彼は長年にわたり、国から国へと流浪し、貧しい生活を余儀なくされていました。その間、彼の父親は息子を探しに出てきていましたが、息子を見つけることはできず、ある町に定住し、やがて大富豪となりました。しかし父親は、息子のことを一日たりとも忘れたことはありませんでした。
時が経ち、不思議なことに、息子は故郷に戻り、父親の住む町に足を踏み入れました。父親の邸宅の前で、彼は驚くほどの豪華さを目の当たりにし、自分には居場所がないと感じて逃げようとしました。しかし父親は一目で彼が自分の失われた息子だと気づきました。息子が捕らえられると、恐怖に打ち震えて気を失いました。父親は息子の心が傷ついていることを知り、彼に水をかけて目を覚ますよう命じました。
息子は自分に適した仕事を探していましたが、父親は息子を引き留めるために、彼に便所掃除の仕事を提供しました。息子は仕事を引き受け、貧しい小屋で生活しながら働きました。父親はしばしば息子を遠くから見守り、彼に特別な待遇を与えることで、自分の実の子としての位置を与えようとしました。
長い年月が経ち、父親が死に近づいたとき、彼は息子を呼び、全財産を譲ることを発表しました。息子は驚き、深い喜びに満たされましたが、賤しい自己像に苦しんでいたため、依然として貧しい小屋での生活を続け、財産には手をつけませんでした。
父親の死が迫ると、彼は親族、国王、大臣、町の人々を呼び寄せ、息子が自分の実の子であることを明らかにしました。この瞬間、息子は自分の身分が変わり、父親の莫大な財産を受け継ぐことになりましたが、彼は自分が財産を受け継ぐことを望んでいなかったにもかかわらず、深い喜びを感じました。
この物語の中心となるのは、四人の大声聞たちの過去への反省と悔恨です。彼らはかつて、自分たちの教えや理解に満足していたため、他人の幸福や大勢の人々の幸せを軽視していました。この物語では、彼らが過去を振り返り、自身の心の貧しさや狭い見方を悔い改める姿が描かれています。
特に、譬喩品の「三車火宅の譬え」で示されたような、真実の一つの生き方や輝かしい未来への展望から、この章では、明らかに過去への視線が向けられています。彼らは自己の解脱を目標に、小乗仏教の教えに固執していたのです。この小乗の教えは、「自己の解脱のみを求め、他を顧みない」という思想で特徴づけられます。
しかし、彼らが教えを説く立場にあった時、他人には「大勢の人々の幸福のために生きよ」と指導していましたが、実際には自分たち自身にはそのような思いやりが欠けていたのです。この矛盾した行動により、彼らは深い反省に至ります。経文にも彼らが仏の教えに対して無関心であったことや、老齢で碌でなかったことが語られています。
この譬え話は、彼らの成長と変化の物語であり、自己中心的な考え方から脱却し、より広い視野を持つことの重要性を示しています。彼らは自らの過ちを認め、より大きな真実に目覚めたのです。
かつて、経文を熟読する著者の心に、ある種の啓示が訪れた。「これはまさに文学のようだ」と。文学は創造の芸術、しかし、それとはまた異なる、学問という世界が存在する。物語や詩、戯曲を学問の刃で解剖し、その深淵を探る。この仕事は、多くの大学の教授が行う。彼らもかつては創造の情熱に満ちていたはずだ。しかし、時が経つにつれ、彼らはその情熱を失い、学者へと変わっていった。そして、皮肉にも、学者としての地位や名声が彼らに付きまとうようになる。
一方、売れない作家や詩人の人生は、これとはまったく異なる。成功を収めた学者たちは、若き学生たちに創造の重要性を説き、彼らの心に火を灯す。しかし、彼ら自身はもはやその炎を持たない。それでも、学生の中には教授たちの言葉に触れ、創造者の道を歩み始める者が現れる。教授たちは、そうした若い才能を複雑な感情で見つめる。
さて、仏教の教えでは、我々は仏から派遣され、多くの求法者のために数えきれない例話や因縁を語り、究極の道を示す。仏弟子たちはこれを聞き、悟りへの道に専念する。皮肉なことに、大弟子たちは元々「多くの人々の幸福」を考えてはいなかったが、彼らの説法を聞いた菩薩たちはそうした生き方を始める。
仏は、これらの菩薩に対し、「やがて未来世に成仏する」と予言する。仏にとって、社会的地位など重要ではない。例えば、名声を得た大学教授に対し、仏が「全てを捨てて真の詩人になる気があれば、その道を開く」と言ったら、どんな反応があるだろうか?多くは現状に固執するだろうが、中には「本当の情熱を取り戻し、本物の詩人になりたい」と願う者もいるかもしれない。
かつて、仏教の教えが生まれ、広まった時代、小乗仏教はしばしば「自己の解脱のみを追求し、他者を顧みない」と非難された。しかし、これを深く考えると、人間にとって自己の解脱を求めることは自然なことではないか。小乗仏教の生き方を、高いところから見下ろすような立場を取る人が多い。しかし、そうした視点を著者は疑問視する。
実際、仏陀である釈迦ご自身も一時、「自己の解脱のみを求める」時期があったとされている。『律蔵大品』によれば、悟りを開いた後、釈迦は深い真理に到達し、その真理が人々には理解し難いと感じた。彼は、自己の教えが他者に理解されなければ、それは自身にとっての疲労や苦悩に過ぎないと考えた。
しかしその後、梵天という神が降臨し、釈迦に教えの普及を請うた。これに応じ、釈迦は「多くの人々の幸福のために」という思いで教えを広め始めた。この話は、重要な教訓を含んでいる。自己の解脱を追求する人々を単純に利己主義と決めつけ、軽蔑するのは適切ではない。彼らにも、それぞれの苦悩や願いがあるはずだ。小乗仏教を軽んじる人々に対し、彼らが本当に他者の幸福を求めているのかと問いたくなる。
著者は、小乗仏教も大乗仏教も、本質的には消滅していると考える。現代では、それらの区別に意味はなく、残っているのは利害に基づく「便乗仏教」や、思想的な基盤を失った「無乗仏教」のように思える。仏教の教えが、どれほど高尚であっても、他者を尊重しいとおしむ心がなければ、その教えの価値はない。
あらゆる手段で衆生を導く
何十年もの時間を経て、父親が息子と再会する場面から始まります。息子は、父の豪華な姿に圧倒され、逃げ出してしまいます。父は息子を無理やり連れ戻そうとするものの、これは失敗に終わります。ここから、教えや信仰を強制することの無効さが浮かび上がります。そこで父は策を練り、質素な人物を使って息子に接近し、低賃金の仕事を提案します。息子はこれに応じます。この点で、低能力者には彼らに適した教えを用いるべきだという教訓が示されています。しかし、息子は仕事に就く前に、実際の報酬を要求します。これは、宗教心の低い人々には現世的な利益を説く必要があることを示しています。
次に、息子が便所掃除に励む場面があり、父が彼を哀れんで、自らもその汚れた世界に降りていく様子が描かれます。父は卑しい姿で息子に近づき、食物や衣服、生活必需品を提供し、「父」と呼んでも良いと告げます。
この物語は、宗教の本質を、自らを低くし、他者の生活を共有することに見出しています。
この譬え話はまた、四大声聞の大弟子たちの信仰の告白でもある。彼らの悔恨と、長い間抱き続けてきた苦悩が、この物語を通じて表現されている。しかし、物語の結末では、これらのマイナス面が一転し、大いなる喜びへと昇華される。この物語は、単なる経文以上のものだ。法華経は、文学的な要素に溢れ、特に信解品の章はその最高峰に位置する。
法華経の経文は難解であるが、譬え話は面白く、容易に理解できる。一部の仏教学者は譬え話を低次元だと見なすが、その本質的な価値は計り知れない。譬え話の素晴らしさは、そのシンプルさにあるのではないか。
心の、最後の「ひっかかり」が取り除かれる
お坊さんになったばかりの頃、池上本門寺で経典が収められた場所を訪れたことがあります。その大きなお堂の上階には、漢訳された一切経が収められていました。一切経とは、経典のすべて、つまり「いっさい」という意味です。そこに足を踏み入れた瞬間、感動と驚きが混じった「エーッ」という声が自然と漏れました。その経巻の多さには本当に驚かされました。見ただけで頭がクラクラし、圧倒されるほどの膨大な量だったのです。
「一切経すべてに目を通す人はほとんどいない」と聞いていましたが、その場で納得しました。案内してくれたお上人さんが、長い竹竿を伸ばし、「ここが法華経です」と教えてくれた時、法華経八巻はその大きな経典群の中で、まるで山にとりついた蟻のようでした。この一切経の量のものすごさを皆さんにも見せたいと思いました。
仏教の教えが多種多様に分かれ、複雑化している原因は、経典の多さにあると私は感じています。俗に「八万法蔵」と呼ばれるこの多さは、内容が相反することが説かれる現象も生んでいるのかもしれません。一切経を目の当たりにしたことは、仏教の奥深さと、その複雑な問題を身体で感じる貴重な体験でした。
これまで、「法華経は複雑化し、多様化した仏教を統一した教え」と解説してきました。また、「法華経では、これを一仏乗という思想で表現している」とも説明しました。しかし、一仏乗の真の素晴らしさを伝えるのは難しいです。一仏乗は法華経独自の思想と見なされがちですが、他の経典も独自の思想を持っています。例えば、華厳経には華厳経独自の思想が、般若経には般若経独自の思想があります。
「一切経も、法華経の一仏乗に集約されている」と言うと、多くの人が疑問を抱きます。確かに、膨大な一切経と、たった八巻の法華経を比較すると、法華経が重いとは考えにくいです。
法華経を学問の対象とする人と、信仰の対象とする人とでは、ここで考えが分かれます。この分岐点を過ぎると、日蓮聖人を深く愛する人と、嫌う人とに分かれるのです。法華経という一つの経典が、仏教全体を覆い尽くすほど大きく見えるか、それとも単なる一つの経典と見るか。一仏乗を真に理解するためには、このような問題が出てくるのです。
魅力あふれる四人の高弟たち
スブーティ(須菩提)
マハー・カッチャーナ(摩訶迦旃延)
マハー・カッサパ(摩訶迦葉)
マハー・モッガラーナ(摩訶目犍連)
薬草喩品やくそうゆほん第五
薬草喩品第五のあらすじ
仏の智慧とは?
かつて、迦葉と他の三人の大声聞が「長者窮子」の譬えについて話し合い終えた時、お釈迦様は彼らの理解を肯定し、「その通りだ。お前たちの理解は正しい」とおっしゃった。続いて、お釈迦様はこの経文の重要な言葉を語り始められた。「如来とは、あらゆる教えの王であり、嘘偽りはない」と断言されたのだ。如来の教えは、すべての者を究極の智慧へと導く。
「薬草喩品」という章の特徴は、仏陀が自らを「真理を知る者、仏である」と高らかに宣言する場面にある。その宣言の言葉は力強い。これと対照的に、「長者窮子」の章では、「客作の賤人(かくさのせんにん)」というフレーズが登場し、深く根付いた劣等感を示している。これらは鋭く対比されている。しかし、薬草喩品では、同じ一仏乗を説いているものの、それが仏の立場から語られることで、仏の智慧が多角的に展開されている。
一切智地とは、真実の世界、仏の世界といった、根本的な基盤を意味する。この基盤に触れることは、仏の教えの核心に触れることだ。
この概念を理解するために、留学生の例を考えよう。異国の地で文化や風土に悪戦苦闘している留学生がいる。知識だけでは文化の真髄を理解するのは難しい。しかし、同じ日本出身の人に出会うと、共通の土台があるため、すぐに打ち解けることができる。これは、深いレベルで共有されている世界観があるからだ。
同じように、「皆悉く一切智地に到らしむ」という教えは、私たちが内面の深い部分で、仏の世界を共有することを意味する。仏の教えは、表面的な理解を超え、見えない深い部分から影響を及ぼす。それは、知識ではなく、心の奥深くからの共感と理解である。
法華経における「仏の智慧」について考えると、その真髄はなかなか掴みにくいものだと感じます。法華経では、この智慧は直接的に詳細に説明されているわけではないのです。多くの場合、「仏の智慧は非常に理解しにくい」という表現が繰り返されるだけで、具体的な内容には踏み込まれていません。仏教における教えが根本的には一つであるという主張がされつつも、その理由を探ると「仏だけが真理を完全に理解しているから」という結論に戻り、再びその智慧の難解さを強調する形になっています。
薬草喩品では、この「仏の智慧」とは何かを説明しようとしています。ここでは、真理の本質について少し詳しく説明しようという試みがなされていると言えます。しかし、結局のところ、仏の智慧の本質は依然として明らかにされていないのが現状です。このように、法華経は仏の深淵な智慧について触れながらも、その全貌を完全に明かすことはありません。それは、究極的には理解が困難な、深遠なものとして描かれているのです。
言葉を変えれば、諸法実相をもうちょっと説明しておこうという章でもあるのです。
著者は、仏像がただ座っていることについて、非常に奇怪な質問を受けました。質問者は、仏像がただ坐っているのを「怠慢」と捉え、観音さまやお地蔵さまのように積極的に動き回るべきだと考えていたのです。この質問は、現代のビジネスマンたちの価値観を象徴しているように思えます。彼らは忙しく活動していますが、それはあくまでも横方向の動きで、精神的な成長や内面的な深さといった縦方向の広がりには気づいていないのではないでしょうか。現代社会の価値観と仏教の教えとの間にあるギャップを深く感じ取りました。
法華経を通じて、仏の智慧が多次元的であること、そしてそれが我々人間には理解しがたいことを感じ取る。立花隆の『宇宙からの帰還』は、宇宙飛行士たちの内的体験に焦点を当てており、通常のインタビューとは異なる深い話が展開される。宇宙飛行士たちの体験は、地球上の経験とは根本的に異なる特殊なものであること、そして彼らが感じる「地球の美しさ」や「宇宙における神の感覚」について言及する。
宇宙空間と多次元世界の関連性に触れ、宇宙空間が疑似異次元の世界である可能性を探る。人間は現世以外で生きることができず、そのため「神」や「仏」の真の理解は困難であると結論づける。この本から、宇宙空間の特殊性とその体験の重要性を再認識する。
宇宙、その果てしない空間は、我々の地球での日常とはまるで異なる世界です。想像してみてください。そこには「上」も「下」もなく、方角の概念すら失われています。重力の不在は、物体が上から下へと落ちるという私たちにとっての常識を完全に覆します。鉄の塊も羽毛も同じ重さで、重さそのものが意味を持たなくなるのです。時間さえも、地球時間を持ち込まなければ、一日も一週間も区別がつかない曖昧なものになります。そして、その一歩外には、完璧な沈黙と無が広がり、この宇宙空間に足を踏み入れた者を包み込むのです。地球上で当たり前とされているものが消え去った瞬間、人間の心には大きな衝撃が走るでしょう。
さて、私たち人間にとって「上」と「下」の概念は、思考や感情、生活の根底に深く根ざしています。重さと軽さの区別も、私たちの認識にとって欠かせない要素です。しかし、この上下や軽重と無縁の空間で、人間はその思考をどう変えるのでしょうか。宇宙空間へと放り出された人間には、「内側」と「外側」の区別しか残らないと言われています。この変化は興味深いものです。心は、この宇宙の真空の中で、純粋なものにならざるを得ないのです。
法華経の平等観と人間の平等観
高く澄んだ空に、ひとつの雲がぽつんと現れる。まるで物語の幕開けのように、その雲はじわじわと広がり、やがては空一面を覆い尽くす。そして、雨を降らせ始める。この雨は、大地の草木を潤し、彼らを成長させ、花を咲かせ、実を結ばせる。雨雲も大地も一つだが、雨の恵みを受けて育つ草木にはそれぞれの個性が現れる。人間もまた、この草木のように、仏の教えを各々の能力や素質に応じて理解していくのだ。
仏教の教えの核心、慈悲の精神に触れています。慈悲には差別がないが、その教えを受ける者たちには無限の多様性がある。平等と差別は、本質的には一つでありながら、現象的には異なるものと捉えられる。
仏教は多様で複雑に枝分かれしているが、その根底は一つであるという教え。多様性は表面的な現象に過ぎず、本質を見極めることの重要性を説いている。これを理解するには、法華経の一仏乗という立場が不可欠であり、それが仏の教えの大きな目的の一つである。
一仏乗という概念を通して、「平等を根底にした差別」が育んでいく、「ほんとうの、ほんとうの幸い」への道筋を示しているのです。それは、多様な存在が共に成長し、教えを通じて真の幸せを見出していく過程を物語っているのです。
如来を名で呼んではいけない
仏とは何か、この問いに焦点を当ててお話ししましょう。
仏とは、私たち凡夫とは根本的に異なる存在です。特に法華経において描かれる仏は、その特異性が強調されます。「われこそは仏なり……」という宣言は、その差異を端的に示しています。
お釈迦さまが悟りを開いた瞬間、その教えを人々に初めて説いたのが、「初転法輪」として仏教で知られています。しかしこの時点で、お釈迦さまは仏という存在が私たちとは絶対的に異なるものであることをはっきりと示されました。原始仏典『律蔵大品』の冒頭部分には、お釈迦さまの伝記が記されており、そこには重要な言葉が刻まれています。
しかし、話を進める前に、お釈迦さまと五人の比丘の関係について触れておきましょう。お釈迦さまが出家され、六年間の厳しい苦行を行なったことは周知の事実です。そして、肉体の苦痛だけを伴う苦行には意味がないと悟り、その道を捨てられました。この五人の比丘は、お釈迦さまが苦行を捨てるまで共に修行していた仲間たちです。彼らにとって、お釈迦さまは途中で挫折し、堕落した者と映ったのです。
仏の領域に足を踏み入れた詩人
見えているようで、見えていないのが人間
さて、内観の場合、その基本を、自己を調べるという部分に置くのは、それなりにルーツがあるんです。吉本伊信さんの『内観への招待』を読んでみましょう。
私たち人類は、見事な文明社会を築き上げてきました。この輝かしい成果は、人類の知恵と創造力の賜物であり、その偉大さを過小評価することはできません。しかし、文明社会の華やかな表面に惑わされることなく、もっと深く、人間の叡智に目を向けるべきです。思いを馳せてみてください。「文明というものが、もしかしたら人間の表層意識の産物に過ぎないのではないか」と。そして、「心の奥底に眠る真の叡智は、まだ未だに隠されているのではないか」と。
薬草喩品を読むと、仏と比べた際の人間の無力さが際立ちます。しかし、それと同時に、人間が持つ潜在的な力、未開発の可能性への希望や期待も感じさせます。「得る所の功徳は、自ら覚知せざるなり」という言葉は、まさに人間の本質を突き詰めたものかもしれません。この経文は、私たちがまだ自覚していない深い智慧や、内に秘めた可能性を示唆しています。人間という存在は、表面的な文明の成果を超えて、もっと深い次元での自己認識と成長を求められているのです。
[一]に込められた深い意味
数学との出会いは、幼少期に「1、2、3、4」と数を数えることから始まりました。特に「1」は、私の数学的旅の出発点となりました。最初は単純な数え上げでしたが、学校で数学を学ぶにつれ、「1」の概念は驚くほど複雑になっていきました。例えば、小学校で「1」を「1/3」に分割することを学びました。この瞬間、「1」という数がどれほど柔軟であるかを理解し始めたのです。また、「1対1」の関係性も学びましたが、比較対象が変わると「2対1」になり、まったく新しい次元の「1」が出現しました。
さらに、貯金の利息で「1パーセント」と「1割」の違いに直面しました。同じ「1」でもその使用方法によって、まったく異なる影響を与えることに気づきました。時間の概念においても、13時が午後1時となることは、私にとって「1」の相対性を教えてくれました。
数学的な旅を進む中で、「1」は常に私の考えを刺激し続けてきました。二次関数や楕円の方程式において、同じ「1」が異なる形で表現される様子は、その神秘性をさらに強調しました。虚数の「1」は、また別の次元の話ですが、それでも「1」の核心は変わりません。
このように、私の数学的探求は、「1」という数字の多様性と複雑さの中で展開してきました。「1」には無限の表現があるという事実は、数学の魅力の一端を示しています。私は、今後もこの不思議で魅力的な数字、「1」の探求を続けていきます。
日本人特有の自然認識の仕方
参考文献
序品第一
『法華経(上)』坂本幸男・岩本裕訳注/ワイド版岩波文庫
『原始仏典九・仏弟子の詩』テーラガーター(長老の詩)早島鏡
正訳/講談社出版研究所
『モオツァルト・無常という事』小林秀雄/新潮文庫
『妙法蓮華経並開結』法華経普及会編/平楽寺書店
『どくとるマンボウ昆虫記』北杜夫/新潮文庫
『新潮国語辞典現代語・古語』新潮社
『原始仏典一・ブッダの生涯』―大いなる死(大般涅槃経)岩松浅
夫訳/講談社出版研究所
『仏教説話体系1釈尊の生涯』仏教説話体系委員会著/中村元・増谷文
雄監修/すずき出版
『新釈尊伝』渡辺照宏/大法輪閣
『原始仏典一・ブッダの生涯』―成道から伝道へ(律蔵大品十一)
畝部俊英訳/講談社出版研究所
『生命のニューサイエンスー形態形成場と行動の進化』ルパート・
シェルドレイク/幾島幸子+竹居光太郎訳/工作舎
『八木重吉詩集』佐古純一郎編/彌生書房
『新約聖書』日本聖書刊行会発行
『沈黙の世界』マックス・ピカート/佐野利勝訳/みすず書房
『良寛詩集譯』飯田利行/大法輪閣
『歎異抄』金子大栄校注岩波文庫
『正法眼蔵』鴻盟社
方便品第二
『法華経(上)』坂本幸男・岩本裕訳注/ワイド版岩波文庫
『大乗仏典4法華経Ⅰ』松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳/中央公論社
『妙法蓮華経並開結』法華経普及会編/平楽寺書店
『新訳仏教聖典』木津無庵編/大法輪閣
『仏教聖典』仏教聖典刊行会/平楽寺書店
『現代語の法華経』庭野日敬/佼成出版社
『原始仏典四・ブッダのことば』一対の思い(双考経)/関稔訳
談社出版研究所
『わたしの生涯』ヘレン・ケラー/岩橋武夫訳/角川文庫
『冬の紳士』大佛次郎/講談社(文庫コレクション)
『佛教大事典』小学館
『シッダールタ』ヘッセ/高橋健二訳/新潮文庫
『教師宮沢賢治のしごと』畑山博/小学館
『名演奏のクラシック』宇野功芳/講談社現代新書
『週刊朝日百科/動物たちの地球1大自然の不思議』日高敏隆/朝
日新聞社
『人と思想コルベ』川下勝/清水書院
『奇蹟』曽野綾子著/文春文庫
『モーツァルトの手紙』吉田秀和編訳/講談社
『原始仏典一・ブッダの生涯』―大いなる死(大般涅槃経)/岩松浅
夫訳/講談社出版研究所
譬喩品第三
『法華経(上)』坂本幸男・岩本裕訳注/ワイド版岩波文庫
『正法眼蔵』鴻盟社
『シューベルトー孤独な放浪者―』ひのまどか/リブリオ出版
『破門の哲学―スピノザの生涯と思想―』清水禮子/みすず書房
『日本の禅語録十九白隠』鎌田茂雄/講談社
『宇宙からの帰還』立花隆/中公文庫
『法華経の風光第二巻燃える家』紀野一義/水書坊
『高齢化社会』吉田寿三郎/講談社現代新書
『この国は恐ろしい国―もう一つの老後―』関千枝子/農山漁村文化
協会
『世界文学全集15テレーズ・デスケールー』遠藤周作訳/集英社
『グレアム・グリーン全集12情事の終り』永川玲二訳/早川書房
信解品第四
『法華経(上)』坂本幸男・岩本裕訳注/ワイド版岩波文庫
「原始仏典一・ブッダの生涯』―成道から伝道へ(律蔵大品六)畝部
俊英訳/講談社出版研究所
『仏教説話大系2~3釈尊の弟子たち(1)~(二)』仏教説話体系
委員会著/中村元・増谷文雄監修/すずき出版
『聞き語りお釈迦さまのお弟子たち1~3』
薬草喩品第五
『法華経(上)』坂本幸男・岩本裕訳注/ワイド版岩波文庫
『宇宙からの帰還』立花隆/中公文庫
『母性社会日本の病理』河合隼雄/中公叢書
「原始仏典一・ブッダの生涯』―成道から伝道へ(律蔵大品一〇~一
四)一畝部俊英訳/講談社出版研究所
『宮沢賢治全集I』ちくま文庫
『内観への招待』本伊信/朱鷺書房
『NHKこころをよむ華厳経』鎌田茂雄/日本放送出版協会
『右脳と左脳脳センサーでさぐる意識下の世界―』角田忠信/小学
館ライブラリー
『日本人の脳脳の働きと東西の文化』角田忠信/大修館書店