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【まとめ】現代諸学と仏法/Ⅱ四句分別という論法①/1四句分別の起源と概観【石田次男先生】

[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]



1四句分別の起源と概観

(1)仏典は四句分別で出来ている

四句分別の概要
四句分別は、「有、無、亦有亦無、非有非無」という四つの部分から成る古代インド発祥の論の形式です。これは現在、インド哲学や仏教学において広く知られています。本章では、四句分別を用いて「空仮中」の概念を形式表現できるかを探ります。ここでの重点は、空仮中の本質から離れて、言語表現を用いて形式上の表現が可能かどうかです。

表現論の範囲
空仮中の本質については、経典や論文、解説を参照しなければ誤解を招く可能性があるため、本章では表現論に限定します。形式表現の意味について、数学の定数や論理学の記号式を例に挙げ、空仮中を形式科学的な観点から示すことが可能かを検討します。

仮空の形式表現
仮空の形式表現は、従来「仮=有」「空=非有非無」とされていました。しかし、私の研究では、「中」の表現を「亦無亦有」とし、「空」に対しても「亦有亦無」という別の表現が可能であると結論づけます。本章では、この論点を明確にしていきたいと思います。

四句分別と仏教の関係
四句分別は仏教以前から存在し、天台などの学派でも使用されてきました。特に仏教においては、四句分別が重要な反省自覚法のツールとして使用されてきましたが、この観点は新しい発見です。仏教学の発展において、四句分別の研究は重要ですが、反省自覚法としての四句分別に焦点を当てるのは画期的なアプローチです。

四句分別の再解釈
古典的な四句分別に対する執着を捨て、古代インドの伝統的な使用法を再構成することが、本章の目的です。このアプローチは、仏法を曲解するものではなく、四句分別自体が仏教以前のものであるため、このような試論が許容されるべきです。

仏教学の西洋化とその変化
仏教学はもともと西洋の学者によって開発され、日本では明治時代に導入されました。当初は西洋的な視点で仏教が議論されましたが、日本の仏教学は徐々に独自の形へと変化してきました。この変化は、四句分別の理解にも影響を与えています。

四句分別の応用と理解の難しさ
四句分別は仏教テキスト全体に広く用いられており、例えば「寿量品」などに見られる応用例があります。しかし、四句分別を使用したテキスト、特に『中論』は、従来の学習方法では理解しづらい部分があります。

『中論』と四句分別
『中論』は、竜樹の著作であり、四句分別を基に仏教的概念を展開しています。西洋の仏教学者はしばしば『中論』の論法を誤解しているとされ、その理由は四句分別の独特な反省法と西洋論理の違いにあります。『中論』の各節には四句分別の思考が隠れており、これが見落とされがちです。

(2)西洋式に合理化した解釈

『中論』と四句分別の理解
『中論』は一般的に帰謬法を用いる論法と誤解されがちですが、これは表面的な解釈に過ぎません。本筋は「四句分別」という、西洋では見られない独特なインドの論法に焦点を当てています。『中論』を理解するには、この四句分別を把握することが不可欠です。

四句分別の基本
四句分別には以下の四つの要素が含まれます。

  1. 無(無い)

  2. 有(ある)

  3. 亦有亦無(あるともなくないとも)

  4. 非有非無(あるわけでもなくないわけでもない)

これらの要素は、仏教の理解において非常に重要であり、それらを理解することが『中論』の理解に繋がります。

弁証法と四句分別
現代では仏法の理法が弁証法の一種と見なされることがあります。論法は合理的な論法と非合理的な論法に分けられ、主観的世界では合理と非合理が混在しているとされます。この文脈で、四句分別も非合理の領域で用いられる推論操作として扱われがちです。

四句分別の現代的解釈
仏教学者の間では、四句分別を現代の論理学で解釈しようとする傾向があります。これにはディレンマやテトラレンマといった論法が関連していますが、四句分別は独自の構造を持っており、単なる合理的な判断法とは異なります。

四句分別の深い理解
四句分別は、単に表面的な論理学的解釈では捉えられない、深い思想的意味を持っています。『中論』における論議は、西洋の古典論理学の法則に従っているとも言われていますが、竜樹が用いる四句分別は、従来の矛盾律や排中律から自由な思考路線を示しています。

このように、四句分別の理解は『中論』の理解に不可欠であり、それを通じて仏教の深い思想に触れることができます。

(3)弁証法こそ四句分別の一特殊形態の様なもの

四句分別と弁証法の関係
四句分別はサンスクリットの「チャトゥシュ・コーティカ」を漢訳した語で、仏法の理解において重要な概念です。山内得立博士(京都大学名誉教授)によると、この漢訳語は必ずしも適切ではないとされます。仏法の論法と弁証法を比較する際、四句分別を弁証法の一種と見るのは間違いであり、実際は弁証法が四句分別の特殊形態のようなものです。

弁証法の誤解
弁証法には様々な形態がありますが、その中でも「自覚の弁証法」だけが真に成立するとされ、他の形態は原理上成立しないとされています。哲学における多様な考え方と対立関係は、絶対的な判断を導き出すことは難しいとされます。

矛盾律と弁証法
矛盾律に基づくと、Aと非Aが同時に成立することは不可能であり、矛盾事態は不可能の別名です。しかし、哲学や自然界における対立関係は、AとBが同時に存在し対立することが可能です。このことから、ヘーゲル以降の「認識の弁証法」は正確には弁証法ではないとされます。

西洋哲学との違い
西洋哲学における差異、対立、矛盾の概念は、仏教の論法とは異なるとされます。ヘーゲルの弁証法は、現象に対する差異・対立・矛盾の連繋性を持つとされるが、概念上は明確に異なるとされます。

仏法と弁証法
仏法の論法を弁証法で完全に説明することは難しいとされ、弁証法の真の意味を理解することから始める必要があるとされます。実在界における対立関係は、真の矛盾ではなく、そのため真の弁証法は個人の自覚の領域でのみ成立するとされています。

四句分別の位置づけ
仏法の論法は、両否定と両肯定に基づく四句分別の論法であり、仏典は四句分別を基に述べられています。西洋の哲学者たちも四句分別を認識しており、ドイツのヤスパースは四句分別を弁証法と規定していますが、これは本来の仏法の解釈とは異なるとされています。

結論
結局、四句分別は弁証法の一種ではなく、むしろ弁証法は四句分別の特殊形態のようなものです。四句分別の理解と適用は、仏法の核心的な部分を形成しています。

(4)釈尊も外道も用いた四論

仏法における「空」と四句分別
仏法では「空」という概念があります。これは、四句分別を用いると「非有非無」、すなわち「有でもなく無でもない」と理解されます。これは形式論理の矛盾律と排中律に反すると見られがちです。また、「亦有亦無」、つまり「有でもあり無でもある」も、同様に矛盾律と排中律に反するとされます。これらの表現は、四句分別の同時性に基づく言明だからです。

四句分別の歴史的背景
四句分別は仏法内で発生したわけではなく、インド人特有の「判断の四義」や「四論」などとして、仏教の誕生以前から存在していました。釈尊と同時代の六師外道の中にも、この四句分別を用いた思想があり、彼らの教えは「この世は有る」「無い」「有るものでもなく無いものでもない」「有るものでもあり無いものでもある」というさまざまな見解を示していました。

仏教と他宗教の関係
仏教徒も外道も同じ人種であり、双方が四論を用いた議論をしていたとされます。仏教と外道の思想は、例えばキリスト教がユダヤ教から派生したように、同じ文化背景から生まれた異なる思想であると言えます。釈尊はバラモンや六師を超えた存在とされ、その教えは新しい宗教運動を生んだと考えられます。

古代インドの政治背景
釈尊の時代のインドは、貴族政治が崩壊する変動期であり、諸国が合議制により政治を行っていました。このような背景が、新たな宗教思想の出現に影響を与えたと考えられます。

仏教における四句分別の用い方
釈尊は四句分別を用いて、外道の教えを超える新しい教えを展開しました。外道は四句を平面的に並べて使用したのに対し、釈尊はこれを縦型の構造的な反省判断の道具として用いました。これにより、釈尊の教えは深い反省と悟りを含んだものとなり、仏法の核心を形成しました。

(5)六師の四論の用法は?

外道の六派と四句分別の使用
外道の六派には、有神論派から無神論派、つまり唯物論者まで様々な思想が存在していました。これらの修行者は、神や法を中心に解脱を求める宗教家であり、反省的な態度を持っていたとされます。そのため、四句分別を縦型に反省的に用いた者もいたかもしれませんが、これは少数派だったと思われます。多くは概念操作用の横型として四句分別を用いていたとされ、縦型に用いた外道の例は文献上ではほとんど見当たらないようです。

因果に関する外道の論理
開目抄では、月氏の外道について、因果に関する「有」「無」「亦有亦無」を適用した実例が述べられています。これは横型による客観的な分析と概念操作の一例です。

各派の因果論
サーンキヤ派(数論派)は、精神と物質の二元論を立て、根源的な「有」からの世界展開を説いた派で、因中有果論を展開しました。

  • ヴァイセーシカ派(勝論派)は、無神論的でアリストテレス哲学に似た実体と属性の概念を持ち、因中無果論を主張しました。

  • ミーマーンサー派は、結果が諸要素の集合であるという積集説を採用し、因中亦有果亦無果論を持っていました。

これらの派の四句分別の使用は、叙述用の横型が主であったと推測されます。

六派の影響と仏教への反映
歴史的に見ると、仏教は六師各派に大きな影響を与えた一方で、六師の説や行も仏教に影響を及ぼし、さまざまな要素が仏教に取り入れられたとされます。しかし、これは仏教の教えに反する行為とも言えます。

四句分別の仏法における使用
仏法においては、四句分別を横型に叙述用として使う場合と、縦型に反省論法として使う場合があります。既存の型をそのまま使うのは「応用型」、型を組み替える必要があるのは「原型」の四句分別です。これらの違いは仏教の教えにおいて重要な役割を果たします。

(6)倫理的な<中>を考えた人々の国土世間

外道の四句分別の理解と仏教
外道が「空」や「中」という概念を使っていたという事実は、彼らが仏教のような深い悟りを理解していたということではありません。外道の「空」や「中」は、反省的な深い理解ではなく、日常言語から来たような客観的な概念だったと考えられます。例えば、物理的な意味での「空(シューニヤ)」や、極端を避けて中庸を取るような思想などが存在していたとされます。仏教の特有な教えである反省的な「空」や「中」を説くためには、これらの日常的な概念が基盤になっていたはずです。

外道の思想化と仏教との違い
外道は、これらの概念を自分たちなりに思想化していましたが、それは論理的な反省判断としての「空」や「中」とはかけ離れたものでした。このため、外道の思想と仏教の教えは、根本的に異なるものであったと言えます。

世界三大文化圏における「中」の概念
古代の世界三大文化圏では、「中」という概念が共通して見られます。中国では「中」を重んじる思想が古典である書経や易経に表れ、ギリシャではプラトンやアリストテレスが「中間存在」や「中庸」の重要性を説いています。これらは倫理的な意味で「中」を考える文化的な背景を示しています。

当時の社会と自然環境の影響
当時の社会構造や自然環境も、倫理的な「中」の概念に影響を与えたと思われます。例えば、戦争を避け、平和を好む社会では「中庸」の思想が自然と根付きやすいです。また、四千年前の豊かなサハラ砂漠や古代エジプトの気候など、自然環境の変化も人々の思想に影響を与えたと考えられます。

仏教の「中」と世俗の「中」
仏教の「中」は、これらの倫理的な意味で考えられた「中」とは異なるものですが、同時にこれらの文化的背景が仏教の「中」が生まれる土壌となったと言えます。インドの地域的な特徴や釈迦族の農耕民としての背景も、仏教の教えに影響を与えた要素と考えられます。

(7)四句分別の概観

四句分別と仏教の教義
『妙法蓮華経玄義』によると、四句分別は蔵通別円の四教に基づいて、以下のように分類されています。

  • 有門(基体は蔵教)

  • 空門(基体は通教)

  • 亦有亦空門(基体は別教)

  • 非有非空門(基体は円教)

また、『摩詞止観』では、見惑に関する四つの別が指摘されています。

  1. 単の四見

  2. 複の四見

  3. 具足の四見

  4. 絶(無)言の四見

これらについて『望月仏教大辞典』は、宋の延寿集『宗鏡録』を引用して、以下のように説明しています。

  • 単の四句

    1. 亦有亦無

    2. 非有非無

  • 複の四句

    • 有有と有無

    • 無有と無無

    • 亦有亦無有と亦有亦無無

    • 非有非無有と非有非無無

使方と論理性の違い
四句分別の区別は、使い方ではなく、論理性の違いに基づいています。単の四句は基本的な区別を示し、複の四句はそれぞれの句に更に有無を含みます。具足の四句は各句が四句を包含することになります。

『宗鏡録』による四句分別の解釈
『宗鏡録』では、単の四句、複の四句、具足の四句の外にそれぞれ「絶言」が存在するとされています。これは、四句分別を超えた悟りの段階を意味しており、論理や論法を超えた境地を指しています。

仏教の教義と四句分別
仏教では、法における四句、悟りへの入り口としての四門、妄計における四執、毀法における四謗など、四句分別が様々な意味で使用されます。これは、四句が使い方によって異なる効果を持つことを示しています。

仏典における四句分別
四句分別は、多くの仏典に頻繁に登場します。『望月仏教大辞典』によると、これらの四句分別は、雑阿含経、旧華厳経、大般涅槃経、大智度論、倶舎論など、多くの経典で見られます。

禅宗と四句分別
中国と日本の禅宗では、天台の『小止観』が坐禅作法の基礎とされています。これは、禅宗が天台宗の影響を受けていることを示しています。また、『宗鏡録』は十世紀後半に成立し、その時代の学問的流行を反映しています。四句分別の理解は、仏典の読解に不可欠な要素です。

(8)<絶言の四句>の意味

「絶言の四句」と仏教教義の理解
『宗鏡録』における「絶言の四句」は、「言語道断・心行所滅」、つまり言葉を超えた体験の世界への入り口としての意味を持ちます。これは、言語による思索や伝達を超越し、直接体験に基づく実践への契機として理解されるべきでしょう。

「絶言の四句」の応用
大乗仏教においては、この「絶言の四句」は「非有非無」「亦無亦有」の二つのレンマと「有」とを組み合わせて、空仮中の三諦を構成し、理論から実践に転じる重要な役割を果たします。これは、分別を超えた「無分別」への入口を示しています。

馬鳴の教えと「絶言の四句」
馬鳴の教え、「因言遺言」→「離言真如」は、言語の限界を教え、その理解を通じて言説から離れ、真如、すなわち悟りへ進む道を指し示しています。ここでの「絶言の四句」は、言説を超えた行動の世界への進入を意味しています。

「絶言の四句」の使用法
四句分別自体は言説を立てるための方法ですが、絶言の場合は四句を使って四句を超える方向へ使っています。つまり、無分別立行への入口として機能し、色々な主張や思想、言語からの解放を促します。

インド伝統の影響
インドの古来伝統に基づく『宗鏡録』では、四句分別を尽くした先にある「言語道断・無分別」の領域を指しています。これは、分別の極まった先にある無分別の領域を示唆しています。

『止観』における四句分別
『止観』では、四句分別について詳しく論じられており、人々が四句に執着して争う「失意の四句」から、菩薩がこれを超えて「得意の四句」を得る過程が説明されています。この教えは、「従空入仮の絶言」の側面を示しており、三権の絶言(仮、通、別の教え)は不十分であり、一実の絶言(円教の教え)だけが真実であるとされています。

中道観と四句分別
最終的には、四句分別を双遮(両方を否定)し、双照(両方を照らし出す)して、仏の教えに取り入れることが中道観における態度とされています。これは、四句分別を超えた仏教教義の深い理解を示しています。

(9)論理性の自覚

論理と「中」の捉え方
論理の面から「中」を把握するのは確かに難しいことです。この「中」とは、「無でもあり有でもある」という判断のことを指します。これは『宗鏡録』での第三「亦有亦無」とは異なり、実は「亦無亦有」の反対の表現です。

「中」の理論的理解
理論としての「中」の把握は難しく、特に「中」の教理についての段階的区別が重要になります。これには次の三つの段階があります:

  1. 但中(別教における中)

  2. 不但中(円教における中)

  3. 妙中(法華にのみ説かれる中)

これらの段階にはそれぞれ異なる解釈があり、理解を深めるための順序が存在します。

各段階の説明

  • 但中では、空仮の二諦を破って中諦だけを論じます。これは空や仮と中との関係をパック食品のように扱います。

  • 不但中では、空仮の二諦に即して中諦の理を説きますが、まだ事を説いていない段階です。

  • 妙中では、中諦の真実第一義を教え、三諦の渾然一体を示します。これが真の中道論です。

論理の限界と「中」の理解
論理面からの「中」の理解は、結局不可能です。なぜなら、「中」は叙述判断ではなく、反省判断で得られるものだからです。論理学や現代論理学では扱えない範疇に属します。結果として、論理面からの完全な理解は限界があると言えます。

「絶言の四句」の役割
「絶言の四句」は、無分別立行への門として機能し、実践的な側面へ導きます。これは、四句自体を四句で超越する方向への使い方を意味しています。

四句分別の背景
四句分別は、インドの思想家たちによって時間をかけて考え出されたものです。これは、人間が考えうる限りを徹底的に並べた結果、形式的に四句が出てきたものです。これは、分別以前の無分別から分別以後の無分別へと進むための手段であり、仏法の教義の理解に不可欠です。



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