【まとめ】現代諸学と仏法/Ⅱ四句分別という論法⑤/5『中論』のなかの四句分別【石田次男先生】
[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]
5『中論』のなかの四句分別
(1)不生不滅か不滅不生か
中観派と唯識派の歴史的背景と影響
中観派と唯識派の時代と展開
中観派と唯識派はインド大乗仏教の二大潮流です。中観派の創始者である竜樹は2世紀半ばから3世紀半ばにかけて生き、唯識派の大成者である天親は4世紀の人物です。竜樹の中観思想は、7世紀の月称を最後の代表者としてインドで約400年続いた後、中国とチベットに移行しました。
竜樹の影響とその弟子たち
竜樹は提婆、青目(しょうもく)、竜猛などの優れた弟子たちに支えられ、中観派は栄えました。しかし、中観派は中観(空観)への執着が強すぎたために衰退しました。また、竜樹とは異なる時期に生きた「新竜樹」と呼ばれる人物も存在し、これら二人はしばしば混同されました。
竜樹の論法と中観思想
竜樹の論法は、相手の立場を徹底的に論破するもので、特に『中論』においてその能力が発揮されました。竜樹の著作の多くは失われてしまったため、彼の思想を完全に理解することは難しいですが、彼の思想は主に八不(不生不滅など)を通じて表現されました。
竜樹の論理的アプローチ
竜樹の思想には、論理が強調される傾向がありますが、彼の著作には禅定修行を勧めるなど、より落ち着いた面も見られます。『中論』の中で特に生々しい部分は八不の議論で、これは諸法の本質に関する深い洞察を示しています。
八不の意義と竜樹の見解
八不は、生滅の現象を超えた不生不滅の真理を示すもので、この概念は竜樹によって広められました。竜樹の中観思想は、有部やバラモン、外道の実体論に対する批判として機能し、推理推論の破棄を要求するものでした。彼の見解は、諸法が因縁によって生じるという縁起の法則に基づいています。
(2)一に待するものは二か多か
八不の深遠な意味と適用
八不中道への挑戦と理解
「不滅不生」という概念は、有部や六師の断常観に挑戦するものです。これは二者択一の論法が不適切であることを示しています。さらに「不断不常」、「不一不異」、「不来不去」と続きます。これらは、中道の観点から一般的な相対的見解を超えたものです。
不一不異の広範な解釈
「不一不異」は、一と異が互いに依存しながらも、どちらも独立している状態を示します。これは、同一律や自己同一性(アイデンティティ)の概念に反論するものです。通常、「一」に対するものは「多」であり、「異」に対するものは「同」です。しかし、竜樹はこれらを「不一不異」として包括的に捉え、「一待多」や「一待同異」の概念を用いています。
不一不多とその適用
「不一不多」は、「一」が単なる「二」に対立するものではなく、より広い意味を持つことを示します。例えば、一人の人間が多様な状態を経験することを含むような、より幅広い解釈が可能です。
八不と時間の理解
「不来不去」は、時間が物理的な存在ではなく、事象の継続としての時間の概念を説明します。これは、時間を客観的な物として捉えるのではなく、時間が起滅するものであることを示唆します。
総括
八不は、有部や外道の実体論に対する反論であり、二元論的な見解を超えた中道の理解を示しています。これらは、生滅、断常、一異、来去という四つの連続する概念を中心に構築されており、竜樹によって深い洞察として提示されました。八不は、事象の本質をより深く掘り下げ、中道の真理を明らかにするための手段として用いられています。
(3)同一律の否定・自己同一の否定――不一不異
同一律と自己同一の否定:「不一不異」の深掘り
「不一不異」の複雑な関係
「不一不異」は単なる論理ではなく、人間の経験や自己認識に深く関わる概念です。この言葉は、一方で同一性を保ちながら、他方で常に変化し、多様性を示す事象を反映しています。この複雑な関係は、人間の成長過程や昆虫の変態など、日常の事例で明確に見られます。
同一律の否定
「不一不異」は同一律に挑戦します。同一律は、事物がその本質において不変であるという考えです。しかし、人間の経験や実生活の事象は常に変化しており、この変化は「不一不異」という概念でより正確に表現されます。同一律が「AはAである」と主張するのに対し、「不一不異」は「Aは常にAであるとは限らない」という現実を示しています。
自己同一の否定
自己同一性の概念もまた、「不一不異」によって問い直されます。自己同一性は一貫した個体性を指し示しますが、実際には、個人は時間と共に変化します。この変化は、「不一不異」の理解によりより適切に表現されることになります。
「不一不異」の実用性
「不一不異」は、理論だけでなく、実際の生活や個人の自己認識にも適用可能です。この概念は、個人が経験するさまざまな変化や成長を、同一性と変化の両面から捉えることを可能にします。これにより、自己理解や事象の認識がより柔軟かつ深いものになります。
総括
「不一不異」は、伝統的な同一律や自己同一の概念を超えて、現実の複雑さと流動性を捉えるための重要な道具となります。この概念は、哲学や論理学においてだけでなく、個人の自己理解や日常生活においても重要な役割を果たします。
(4)無常→縁起→無自性→空→中の構造
無常から中道への理解
無常の理解
般若部の教えは、阿含部における「諸行無常」の教えに基づいています。無常とは、世の中の全てが常に変化しているという理解です。しかし、これだけではまだ俗諦の範囲内に留まっており、真の仏法の理解には至っていません。
縁起から無自性へ
縁起の教えは、事物が独立した実体を持たず、すべての存在が因果関係によって生じていることを意味します。この縁起の理解から、事物が固有の自性を持たない(無自性)こと、そしてそれゆえに「空」という状態にあることが理解されます。
空と中道
空とは、事物が固定された本質を持たない状態を指します。これは、事物が絶えず変化し、相互に依存しているという仏法の基本的な理解です。そして、これが中道の理解へとつながります。中道とは、事物が一方の極に偏ることなく、全ての存在が互いに関連し合っていることを認識する教えです。
三法印と四諦の関連
仏教の教えには「三法印」という基本原則があります。これは諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という三つの点を指し、これらはすべて中道の教えと密接に関連しています。四諦の法輪、すなわち苦、集、滅、道の教えもまた、この中道の理解に基づいています。
無常から涅槃への流れ
無常から始まるこの理解の流れは、涅槃という究極の理解へと導かれます。涅槃とは、すべての苦悩や惑いからの解放を意味し、これは中道の理解を通じて達成されるものです。
結論
仏法では、物事の本質を理解するためには、単に無常という表面的な理解に留まるのではなく、縁起と無自性、そして空と中道の理解に至る必要があります。これは、実体のない、互いに関連し合っている事物の真の本質を理解するための道筋です。
(5)竜樹の武器・第三レンマ<空>
竜樹の中心教義:空と中道
竜樹の論法
竜樹は仏教の教えに深い洞察を加えた学者で、その主要な著作「中論」では、「有」の概念を徹底的に論破しました。彼の論法は、「これは真実ではない、あれも真実ではない」という形で進められ、最終的には「空」の概念で結論づけられています。
空の概念
竜樹の説く「空」とは、物事が固有の実体を持たないという理解です。これは、物事が相互に依存し、独立した存在ではないことを意味します。彼は「空即中道」と述べ、空の概念が中道の教えと密接に結びついていることを強調しました。
中道と空
中道は、物事が極端な一面だけでなく、全体として相互依存しているという理解です。竜樹は、この中道の理解を深めるために、他の著作である「大智度論」などを通して、実践的な修行の重要性を説きました。
竜樹の空の特徴
竜樹の説く空は、単なる抽象的な概念ではなく、実践的な般若(智慧)の一環として理解されます。これは、彼の教えの根底にある「実相般若空」とも関連しており、外見上の違いはあれど、基本的には天台宗などの教えと同じ根本的な理解を共有しています。
竜樹と天台宗の関係
竜樹の教えと天台宗の教えは、基本的には同じ真理を指しているものの、外面的な表現や方法論においては違いが見られます。竜樹は、当時の人々が理解しやすい形で空の概念を説いたのに対し、天台宗はさらに進んで妙法の円融空へと理解を深めました。
結論
竜樹の教えは、真理を求める者にとって重要な道しるべです。彼の「空」の概念は、単に抽象的な哲学ではなく、実践的な智慧としての般若の一部であり、中道の理解へと導くための重要な手段であることを理解することが重要です。
(6)縁起法(諸法・事象)は無自性(無実体・無本質)だ
縁起法の理解:無自性の概念
縁起法の解説
縁起法は、事象や諸法(すべての存在)が相互依存して成り立っているという仏教の教えです。これにより、事象は独立した実体や本質を持たないとされ、すべてが関係性の中で形成されていると理解されます。
実体と本質の否定
竜樹の教えでは、実体や本質といった概念が否定されます。これは、物事が固有の「自性」を持たず、他の要素との関係性によってのみ成立するという考え方です。彼の論は、有論や実体論に対する反論として展開されています。
「無自性」とは
「無自性」とは、物事が独立した自己の本質や実体を持たないことを意味します。縁起に基づくこの理解は、世俗的な認識の範囲内での議論であり、より深い勝義の理解に至るための基盤となります。
勝義から世俗への視点
竜樹は「中論」を通じて、勝義(究極の真理)から世俗(日常の現象世界)へと視点を移し、物事の本質的な「空」性を明らかにしました。これは、物事が相互依存しており、独立した存在ではないことを示唆します。
時間論と縁起法
時間の概念もまた、縁起法の一部として理解されます。時間は固定された実体ではなく、事象の相続や連続性を見る「形式」としてのみ存在します。これは、時間が実体ではなく認識の方法であることを示しています。
結論:縁起法の重要性
縁起法の理解は、すべての事象が相互依存しているという仏教の核心的な教えです。この教えは、物事の真実の性質を理解するための重要な道具となり、実体や本質といった概念に囚われることなく、事象の相互関係性を深く理解することを可能にします。
(7)言説の仮名と化他の力用
言説の仮名と化他の力用についての理解
縁起とは
縁起という概念は、仏教における基本的な教えであり、すべての現象が相互依存によって存在することを意味します。この概念は、事物が個別の実体を持たないことを示し、現象世界の仮の性質を説明します。
縁起の実用性と真実性
縁起は仮名、つまり仮設された言説でありながら、実際の現象を説明する上での実語(真実を述べる言葉)として機能します。これは、実体や自性を主張する哲学や外道の教えと対比され、実際の現象の性質をより正確に捉えるものです。
化他の力用
化他の力用とは、他者を導くための方法や手段を意味します。縁起の教えは、他者を真理へ導くための仮名として用いられ、実際には仮名でありながら、真理を伝えるための有効な手段となります。
縁起法の深い理解
縁起法は一見理解しやすい概念ですが、その徹底した理解は非常に困難です。日常生活や言語活動では実体を前提とした考え方が常識化しており、縁起法の深い理解に至ることは容易ではありません。
縁起の実際的適用
縁起法による現象の理解は、個々の事象が諸因諸縁によって生じるという認識に基づきます。これは因果関係が相互に影響し合い、無常性の中で常住するという考え方です。
縁起と法華経の関連
縁起法の概念は、法華経においても重要な役割を果たします。法華経における教えは、縁起法に基づいており、迷いや悟り、無明や法性もすべて縁起によって生じると理解されます。これにより、縁起は法華経の教えにおいても核心的な概念となります。
(8)<縁起→無白性>は世法、<→空>が仏法――縁起・無自性・空
縁起、無自性、空についての理解
縁起と無自性の関係
縁起とは、すべての存在が相互に依存して生じるという概念です。この考えによれば、すべての現象は独立して存在するのではなく、さまざまな要素の相互作用によって生じています。つまり、縁起は、事物が固有の本質(自性)を持たないことを示しています。
縁起から無自性への展開
縁起が示すのは、事物が特定の状況や条件下でのみ存在し得るということです。それゆえに、どんな存在も、独立した自性を持たないとされます。縁起から無自性へのこの理解は、仏教における重要な教義です。
空の概念への進展
無自性からさらに進むと、空(くう)という概念に到達します。空は、現象が固有の本質を持たないこと、つまり本質的には何も存在しないことを意味します。この理解は、すべての現象が一時的で変化し続けるという観点を強調し、現象の真の性質をより深く理解する道を開きます。
縁起に基づく現象の理解
縁起に基づく現象の理解は、事物を単なる物理的存在としてではなく、それらが生じる条件や文脈において捉えることを求めます。このアプローチは、物事の相互依存性と無常性に光を当て、現象をより包括的に理解することを可能にします。
縁起、無自性、空の統合
縁起、無自性、空の概念は相互に関連し合っており、それぞれが仏教における深い洞察と理解へと導く重要な要素です。これらの概念を統合することにより、現象の本質をより深く理解し、現実の世界をより明確に見ることができます。
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