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【まとめ】現代諸学と仏法/Ⅱ四句分別という論法⑥/6中道論――慧文・南岳・天台・伝教【石田次男先生】

[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]


6中道論――慧文・南岳・天台・伝教

(1)中道に待する相待の仮説――<空>

「中論」における縁起、空、中道の理解
縁起と空の関連性

『中論』では、縁起と空の概念が密接に関連しています。縁起は、事物が相互に依存して存在することを意味し、これに基づくと、すべての事物には固有の本質(自性)がないとされます。この理解から、「縁起であるものはすべて空である」という見解が導かれるのです。

空と中道の結びつき
『中論』では、「空は相待の仮説である」と述べられており、これは空の概念が絶対的な実在ではなく、相互依存の関係に基づいた仮定であることを示しています。この考えは、中道の理解に重要な意味を持ちます。中道は、極端な見解を避け、すべての事物が相互に関連し合っているというバランスの取れた視点を提供します。

比量と現量の区別
「縁起であるもの」は、現実に具体的に存在するものではなく、比量(推理に基づく考え方)によって理解されます。これは、物事を深く反省し、その真実の性質を探求する過程を示しています。

空と中道の相互関係
空と中道の関係は、単なる等価ではなく、相互に依存し合う複雑な関係です。空は中道を通じて理解され、中道もまた空の概念を通じて明らかにされます。この相互依存の関係は、真理の深い理解へと導く道を示します。

仏法における中道の重要性
『中論』で強調されているのは、中道の理念です。これは、仏法における教えの核心であり、すべての教えは、この中道の観点から提供されるとされます。仏教では、現象や事物が相互に依存し合って存在するという中道の理解が、最終的な真理への理解に不可欠です。

三諦の円融
仮、空、中という三諦は、『中論』において円融し、相互に関連し合っています。この三諦の円融は、物事の真実の性質を深く理解するための基盤を提供し、仮の現象から空の究極的な理解へと進む過程を示しています。

仮観から中道への進展
仮の反省から始め、次に空を理解し、最終的に中道の理解に至るという過程は、仏法における深い洞察と理解への道を示します。この過程は、現象の真実の性質を探求するための方法論的な枠組みを提供します。

(2)二境智即一の智法を<中>と言う

三諦の順序と中道の理解
三諦の論理的順序

伝統的に、三諦は「仮(有)、空(非有非無)、中(亦無亦有)」の順序で考えられてきました。これは論理的な進行に従っています。まず、現象界(仮)の存在があり、次にその現象が実質を持たない(空)ことが認識され、最終的には現象と実質の両面が含まれる中道へと進む過程です。

仏法における三諦の順序
しかし、仏法ではこの順序が「空、仮、中」と逆になっています。これは、仏教の教えが根本的に空の概念から出発していることを反映しています。仏法では、すべてが空であるという理解から始め、そこから仮の現象界へと進み、最終的には中道の理解に至ります。

中道からの視点
仏法の教えは、中道から始まることもあります。これは、教える側が既に中道の理解に立っているため、教えの出発点として中道を設定し、そこから空へ、そして仮の理解へと進むことを意味します。この順序は、中空仮と表現されます。

円融三諦の理解
円融三諦では、仮、空、中が同時に存在し、区別されない状態になります。これは、全ての事物が同時にこれら三つの側面を持つという理解です。この理解においては、順序という概念は意味を持ちません。

「中論」における空と中道
竜樹の「中論」では、特に空の概念が強調されています。しかし、竜樹は「空即中道なり」と言い表しており、これは空の概念を中道の理解に結びつけるものです。竜樹の教えでは、空は中道の理解へと導く手段であるとされます。

「中論」の根本的理解
「中論」の根本的な理解は、中道にあるとされます。しかし、文面上では「空」がより強調されており、中道についての明確な言及は少ないです。これは、当時の宗教的・哲学的背景と竜樹の教え方によるものです。

二境智と中道
「二境智即一」という概念は、二つの異なる視点(境)が結合して一つの理解(智)を形成することを意味します。これは、「不一不異」という概念にもつながり、これを中道と呼ぶことができます。中道は、二つの異なる視点が融合する点にあり、そこから真実の理解が生まれるとされます。

中道の多面的理解
竜樹の理解においては、「中道」という概念は多面的であり、単一の解釈に限定されません。中道は、空と仮の相互関係を理解する上での重要な概念であり、真

理を探求する過程において中心的な役割を果たします。

(3)空即中の根拠を追えば

空即中の根拠と中観派の発展
中観派の分裂と論争

6世紀後半、中観派は分裂し、激しい論争が展開されました。特に月称と清弁の間の争いが有名で、月称が主導する応過論派と清弁の独自論派が対立しました。月称は後期インド大乗仏教史において重要な人物とされ、清弁派は言語に自性を認めるとして非難されました。

社会的背景
この時期のインドは、ハルシャ帝国の台頭と戦乱の時代で、西側からの影響も受けていました。社会が激変する中で、中観派の混乱が顕著になり、唯識派が台頭してきます。

唯識派の出現
4世紀半ばには、有部の混乱から中観派と唯識派が登場します。これは、仏道修行の過程で自己の心理に焦点を当て、内界と外界の関係について深く探求する必要性が高まった結果です。

慧文と南岳の役割
中国での仏法の発展において、天台宗の慧文禅師と南岳大師は「中」の概念を明確にしました。慧文は「大智度論」と「中論」に基づき、空仮中の三諦を深く理解しました。南岳大師は慧文の教えを受け継ぎ、広める役割を果たしました。

中道論の位置づけ
中道論は、竜樹の思想から漢土に伝わり、慧文や南岳によって発展しました。竜樹の中道思想は、『中論』において空と中道の関係性を明示していますが、詳細な中道についての議論は少ないです。

中道の重要性
中道の概念は、時代の変遷と共に重要性を増してきました。慧文と南岳によって、仮、空、中という概念が体系的に統合され、中道の位置が明確にされました。これは、空と中道の深い関連性を示すものであり、仏教の教えにおける中心的な役割を果たしています。

天台宗の貢献
天台宗は、空、仮、中の三諦を円融の理解に導いた重要な役割を果たしました。天台の教えによって、次第的な三諦から円融の三諦に至る道が示され、空仮中の関係性が深く探求されました。

(4)三諦を暗示する三法印

三諦と三法印の関係
三法印と三諦の対応関係

仏教における三法印は、仏法の基本的な教義であり、三諦(仮、空、中)と密接に関連しています。具体的には、「諸行無常」は変化し続ける現象の世界(仮諦)を示し、「諸法無我」は一切の法(事物)が固定された実体を持たないこと(空諦)を表し、「涅槃寂静」は究極の真理である涅槃の平静(中諦)を意味します。

論理の筋と一貫性
四句分別と三法印を理解することで、外道から仏法、そして『法華経』に至るまでの一貫した論理の筋が明らかになります。これにより、仏教の教えが各時代や思想家によって独立して存在するのではなく、論理的に連続していることが理解できます。

三法印の暗示する三諦
三法印は、それぞれ仏教の三諦を暗示しています。諸行無常は仮諦の現象世界を、諸法無我は空諦の法理を、涅槃寂静は中諦の究極の真理を指し示しています。これにより、三法印は三諦の基本的な理解へと導く重要な教えとなっています。

三諦との結びつき
三諦と三法印の関連性を理解することで、仏教の教えの深い層が明らかになります。仏教の教えがただの理論に留まらず、実践と深い瞑想を通して真理を体現するための道筋を示していることがわかります。

論理学的な反省の必要性
四句分別と三法印の理解は、単なる理論的な分析だけでなく、深い反省を必要とします。これは、仏教が単に知識を提供するだけでなく、内面の洞察と自己認識を深めることを目指していることを示しています。

真実としての「如実」
「如実」とは、「その時その時の真に迫る」という意味で、無常な世界における真実を示します。これは、一時的で変化する現象であっても、その時々において真実であるという仏教の深い洞察を反映しています。

三諦の円融
三諦の理解は、仏教の究極の真理である円融三諦へとつながります。これは、仮、空、中の各諦が互いに関連し合い、究極の真理を形成していることを意味します。この円融の理解は、仏教の深遠な教えへの入口となります。

(5)真理論としての如実法――法の無常と無性

真理論としての如実法の理解
事実と真実の違い

事実は個々の体験や観察に基づくもので、人によって異なる可能性があります。例えば、近視の人と視力が良い人では見えるものが違います。しかし、これらの事実が真実であるかどうかは、更なる調査や反省によって確認される必要があります。

真実の探求
物理学や自然科学では、客観的な真実を追求することが可能ですが、社会科学や哲学では真実が常に変わる可能性があります。仏法では、主観と客観が分離していない直観的な体験を重視し、この体験を通じて真実を探求します。

仏様の直観
仏様の直観では、無常な世界がそのまま真実(如実)として受け入れられます。この真実は、実体と虚構の区別がなく、常に変わる世界のありのままの姿です。

空と中の理解
現実の世界を深く思索することで、実体論の不成立が明らかになり、空(全てが無常であり、固定された実体がない状態)に至ることができます。さらに、否定を超えた肯定の態度として、第四レンマ「亦無亦有(ともに存在しないが、ともに存在する)」に到達することが可能です。

天台の教え
天台は、非空非有と非有非空を用いて中道を説明します。これは、理法と事法が別々に存在するのではなく、現実(事法)がそのまま真実(理法)であるという仏法の教えを示します。

法の理解
仏法では、物理的な現実(事法)と理論(理法)が密接に結びついています。現実の事象(事法)を基に、理論(理法)が展開されることで、仏法の深い真理が明らかになります。

仏法の実践
仏法の理解は、単なる理論的な理解にとどまらず、実践と瞑想を通して深められるべきものです。真理の理解は、論理だけでなく、実践を通じて得られるものであることを理解することが重要です。

(6)有無二道本覚真徳とは!?

有無二道本覚真徳の理解
四句分別と生命の理解

四句分別は仏法における智法としての役割を果たし、境法(現実世界)にも関連します。生命の時間的側面から考えると、四句分別を通じて生と死、有と無の理解について考えられます。

生と死の二見
通常、生命の終わり(死)は有から無への変化と捉えられますが、反対に無から有へ(生まれること)の変化は一般的には受け入れがたいとされます。しかし、仏法ではこれらの過程も自然なものとして捉え、有無相通じることを理解します。

四句分別の適用
有から無への変化だけでなく、無から有への変化も可能とする理解は、四句分別の第三と第四レンマで説明されます。これは、現実の命の存在が凡夫には明白でない可能性を示唆します。

常見と断見の超越
仏法においては、有から無へ(断見)、無から有へ(常見)の単純な見方を超え、中道の教えに基づき、より深い理解に至ります。仏法の中道では、断常の二見を超えることが可能です。

真理への反省操作
四句分別の理解は、理論の範囲内での反省操作を通じて可能となります。仏法は実存論、自覚論であり、認識論や存在論ではないため、生命の存在を四句分別を用いて深く理解することができます。

生命の四句判断
生命に関する四句判断は、不断不常の中道の在り方を顕す役割を持ちます。生命の存在は「不滅不生」とされ、これは竜樹の強調する点です。

四句分別の限定的使用
四句分別は、仏法において理論的な記号として用いられ、直接的な悟りそのものではありません。そのため、四句分別は最終的には心行所滅として消え去る運命を持ちます。

有無二道本覚真徳の意味
「有無二道本覚真徳」とは、生死や有無の現象を超えて本覚を達成する仏法の教えを指します。これは反省道を通じてのみ達成可能であり、覚了した真徳(真の徳)がそこから生じます。

四句分別の教法的位置付け
四句分別は、仏法において重要な教法的位置を占めますが、存在論に帰着することは仏法の本質から外れることを意味します。四句分別の真の理解は、悟りへの道筋を示す手段として重要ですが、その本質を理解することが重要です。

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