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【まとめ】現代諸学と仏法/Ⅱ四句分別という論法③/3四句分別と形式論理と非縦非横【石田次男先生】

[出典:http://imachannobennkyou.web.fc2.com/19.htm]


3四句分別と形式論理と非縦非横

(1)矛盾とは何か、なぜか、どのように

四句分別における有・無の操作と矛盾
四句分別と矛盾律の関係性の検討

四句分別の中で有と無を扱う際には、矛盾律の適用という根本的な問題が浮上します。もし四句分別を形式論理として解釈するならば、これは叙述上の有と無が肯定と否定に相当し、第三レンマ(非有非無)と第四レンマ(亦無亦有)は同一の論理式~P∧Pとして表現されることになります。これは矛盾律~(P∧~P)に反するように見えます。

矛盾の再考察
四句分別に初めて直面すると、その複雑さに混乱することが多く、一般の論理学との整合性に疑問が生じます。四句分別が、矛盾律を遵守すべき言語表現の制約に従うと考えるならば、まず矛盾そのものと矛盾律の本質を明確に理解する必要があります。

矛盾の本質と位置
矛盾は、同一時点で両立できない事態として理解されるべきで、論理的には同一命題を同時に肯定および否定することの不可能性を意味します。しかし、矛盾は主語世界(実在する事物の世界)ではなく、述語世界(人間の意思決定や選択が行われる世界)にのみ存在します。

主語と述語の区別
矛盾は、選択のプロセスにおいてのみ生じ、物理的な実在や事象には存在しません。言語上の矛盾(形式矛盾や形容矛盾)と実在する矛盾を区別することが重要です。四句分別では、このような選択における矛盾を探求し、本質的には縁起仮有の現量一切法に焦点を当てます。

矛盾の位置とその解決
矛盾は、選択上の瞬間にのみ生じ、人間の自覚作用や論理操作において重要な役割を果たします。矛盾の認識は、人間の特権であり、意思決定のプロセスを通じて解消されることが多いです。矛盾律は、言語表現の正確性を保つための基本的な原則として機能します。

結論:四句分別と矛盾の理解
総じて、四句分別における矛盾の扱いは、形式論理とは異なるアプローチを取ります。この理解は、四句分別の本質を深く把握することに役立ち、より複雑な意思決定や認識のプロセスを理解する上で重要です。矛盾は人間の心の中にのみ存在し、外部の事物や現象には存在しないという点が強調されます。

(2)矛盾しない<矛盾の真相>

意志活動における矛盾の性質と起源
矛盾の心理的発生

選択上の矛盾は、意志決定という心の活動に起因しています。この矛盾は心理的な実存として個人に固有であり、他人との共有は限定的です。心の中で生じる矛盾は、実体的なものではなく、主観的な体験です。

矛盾の根源
矛盾は心の中で起こる現象で、存在としては明確に定義できない不確かな性質を持ちます。矛盾の原因は、煩悩や心の作用にあり、煩悩自体も実体ではなく、一連の心理的な出来事として存在します。

選挙における矛盾と心理的影響
選挙のような選択の場面では、個人の政治的信念と実際の投票行動との間に生じる矛盾によって、心に矛盾感や悔いが残ることがあります。しかし、この矛盾は選択によって解消されることが多く、心の中に矛盾に由来する苦しみや迷いが生じることがあります。

矛盾と不可能性
矛盾は、本質的に行動上の不可能性を示しており、これによって迷いや苦しみが生じます。選択においての欲望や煩悩の存在が、迷いや矛盾を引き起こします。

矛盾の心理的転換
矛盾は心の中で生じ、迷いや苦しみへと転換されます。このプロセスは、矛盾が解消されると迷いや苦しみが生じる一連の心理的変化を伴います。

レストランでの選択と矛盾
レストランでの食事選択でも、安い料理を選ぶことで生じる心の矛盾や不満が、心理的なしこりとして残ることがあります。これは理性の次元とは異なる、情感に基づく内面の葛藤です。

矛盾と感情の区別
矛盾は理性の領域で生じるものであり、感情の領域では発生しません。心の中で、知性(智)、感情(情)、意志(意)の各領域が矛盾を生じさせることがありますが、これらは明確に区別されるべきです。

矛盾の日常的循環
私たちの日常生活では、矛盾と迷いが相互に影響し合いながら循環することがあります。仏法では、この循環に対処することが重要な問題となります。心の中で矛盾が生じると、迷いが主となり、それがさらに矛盾を生む循環が生じます。

仏法における矛盾への対処
仏法では、煩悩や苦しみの源である無明煩悩を取り除くことによって、矛盾を解消し、解脱へと導くことを目指します。煩悩や苦しみが解脱へと転化する過程は、仏法の核心です。

(3)<矛盾>は良心と智慧との勲章

論理操作と矛盾の役割
論理操作における矛盾の処理

論理操作での矛盾の発見と除去は、理性や知性として知られています。これは菩薩が到達した徳から生じる働きであり、この徳の具体的な表現者としては、普賢菩薩(理性)と文殊菩薩(知性)が挙げられます。功徳を積むことで、本有所持の智慧が開発され、強固な理性と知性が育まれるとされています。

智慧と矛盾の関連性
推理や反省において、矛盾を見極めて除去するのは、本有の智慧によるものです。智慧があるからこそ矛盾を感じ、対処することが可能になります。しかし、智慧がなければ矛盾に気づかないため、矛盾による悩みは生じません。矛盾は人間にしか生じない特有の現象で、智慧があるほど大きな矛盾に直面することになります。

矛盾と智慧の関係
矛盾は、智慧がある人の人生における勲章と見なすことができます。これは良心と智慧に優れた人の特徴であり、大望を持つ人に多く見られる現象です。智慧があると、矛盾を矛盾として認識することができますが、同時に無明の働きにより矛盾に直面することもあります。

法性と無明の相互依存性
智慧と無明は、全く異なるものとして切り離すことはできず、法性と無明は相互に依存しています。智慧の本体は、無形であり、無明と法性は実体として区別されず、智慧の用途として機能します。

論理操作における矛盾の役割
演繹法、帰納法、類推法、弁証法は、矛盾を排除するための手段として機能します。これらの方法によって、混沌から矛盾を選び出し、排除し、真理や法則に到達することができます。矛盾律は、これらの操作の基本原則として働くため、矛盾を除去することができるのです。

自我の自覚における弁証法の役割
自我の自覚における弁証法では、矛盾による混乱が避けられないとされ、自覚された自我は不確実な状態になります。これは、合理性に基づく認識の限界に達することを意味し、非合理の世界への転換をもたらします。この非合理領域では、思考を除いた純粋な無分別の行動によって、正しい自我の自覚が可能となります。

(4)非合理世界の律法<選択>

仏法と自覚の非合理世界
仏法における非合理領域の特徴

仏法の自覚の非合理領域では、矛盾律は主役としては登場せず、むしろ脇役の役割を担います。この領域では、矛盾は起こりうるものの、論理学の三原則(同一・矛盾・排中の三律)は直接的には関与しません。しかし、この領域で発生する矛盾はどのように解決されるのかが問題となります。

矛盾の解消方法
仏法では、矛盾は「選択」という行為によって解消されます。理論面では、選択を原理として四句分別の論法を用いて反省を進めることが提案されています。これは、矛盾を含む様々な課題を選択によって解決するというアプローチです。

選択の役割と効用
選択は、矛盾解消だけでなく、より広範な効用を持ちます。例えば、高値・安値などの矛盾を含まない問題も、選択によって解決されます。事実面での選択行為は、より良い状態や状況を選ぶことを指し、それには個人の行為としての意志決定が必要です。

因縁生起の原理
仏法では、事象の成立には「因縁生起」という原理が関わります。これは、ある状態や境界が成立するためには、適切な原因と条件が必要であり、これらを整えるためには「選択」が不可欠です。

個人の行為としての選択
選択は、一人称非合理領域に属する個人の行為であり、この領域は常に個人に属する問題領域とされます。この領域の内容は、一心法界や己心の法、一念三千などといった表現で示され、事実論としての直接把握が強調されます。

行動の無分別世界における選択
行動の無分別世界では、矛盾律の代わりに「選択」という行為が主役を担います。この領域での問題解決は、「どのように選択すべきか」という原則に基づきます。この原則は、より良いものを選ぶことから始まり、究極的には至高の仏界を選ぶことに昇華されます。

四句分別と選択の関係
四句分別は、三諦の論法を示すオルガノンとして機能し、適切な判断を行い、仏界に相応しい三諦を選び取るために用いられます。これは高速道路の道標のように、正しい方向へ導く役割を果たしています。

選択の重要性と実践
選択の実践は容易ではなく、大きな勇気と無分別智を要する行為です。十界互具の中から仏界を選び取る過程は、個人の究極の選択となります。選択には、深い理解と良心が不可欠であり、仏法の実践において重要な役割を担っています。

(5)形式論理と四句分別とは排除し合わない――その一

山内得立教授の『ロゴスとレンマ』における四句分別
四句分別と論理学の原則

山内得立教授は、『ロゴスとレンマ』において、四句分別についての議論を展開しています。特に、第三レンマ(非有非無)と第四レンマ(亦無亦有)が論理学の基本原則である矛盾律と排中律に挑戦していると指摘しています。彼はこれらのレンマが、排中律を逆転させるものであり、むしろ「容中律」と呼ぶべき状況を示していると述べています。

矛盾律と排中律の機能
論理学において、矛盾律は「同時に真であることができない相反する命題」を排除し、排中律は「命題が真か偽かのどちらかであり、中間がない」という概念を定めます。これらは論理学の不定人称命題を扱う基本的な柱です。

山内氏の解釈の意味
山内氏は、非有非無が矛盾律や排中律を否定しているわけではなく、直接把握世界ではこれらの律法が異なる形で適用されると主張しています。つまり、体験世界と客観世界では、これらの律法が異なる働きをするとしています。

四句分別の矛盾律と排中律への関係
四句分別において、特に非有非無と亦無亦有は、矛盾律や排中律が適用される領域外にあるとされます。これは、矛盾律や排中律が四句分別の中では効力を持たないということを意味しています。ただし、これは四句分別が直接把握のレンマ法であることに基づく解釈であり、一般的な形式論理学の枠組みとは異なります。

生活世界における適用
実際の生活において、非有非無は、矛盾律や排中律の枠組みを超えた「中間的な事態」を認めることが可能です。これは、体験世界においては矛盾律や排中律が異なる方法で機能することを示しています。

反省における原理と選択
一人称非合理領域では、矛盾律に代わる「選択律」や同一律に代わる「不一不異律」が適用されるとされます。これは、反省の基本原理として、矛盾律や排中律とは異なるアプローチを採ることを示しています。

四句分別と論理学の適用
四句分別は、古代インドの論理学より以前から存在し、新因明のような演繹論理とは異なる体系を持ちます。四句分別は、矛盾律や排中律が適用されない独自の体系として機能し、これらの律法を四句分別の中で破棄する立場をとっています。

(6)形式論理と四句分別とは排除し合わない――その二

論理学と四句分別の関係
論理学の三分野と四句分別

論理学では、意味論、語用論、構文論の三つの分野があります。四句分別、特に非有非無の構文は、論理学の基本律法である同一律、矛盾律、排中律を排除した形で提示されます。意味論的には、これらは単なる概念ではなく、判断の過程を表しています。従って、問題は主に語用論に集中します。

語用論としての四句分別の適用
横型(叙述的)な使用においては、「非因非果」のように概念名辞を入れ替えて使用することで問題は生じません。例えば、法華経の「非実非虚・非如非異」はこの理解法で明確になります。一方、原型の「非有非無」は、論理学でいう叙述用としてではなく、反省自覚の思量のツールとして縦型に使われます。これは、仏教における釈迦、龍樹、天台の教えにも当てはまります。

自覚領域における論理律の役割
自覚の領域では、論理律は存立せず、論法だけが有効です。この領域は一人称非合理領域に属し、論理学の律法はここでは適用されません。釈迦においても、四句分別は論法として用いられていたわけです。

同一律、矛盾律、排中律の捨て方
自覚の非合理領域ではこれらの律法は完全に放棄されますが、合理領域内では保持されています。他を教化するために再び世俗の分別の中に戻り、これらの律法を使用することがあります。つまり、論法の使用において、状況に応じてこれらの律法を選択的に使用し、捨てるか保持するかが異なります。

四句分別と論理律の矛盾と保存
四句分別において、第三・第四レンマ(非有非無、亦無亦有)は、矛盾律・排中律を排除しています。しかし、これらのレンマ間の繋がりにおいては、これらの律法が保持されています。第一・第二レンマ(有、無)と第三・第四レンマとの関係で、矛盾律・排中律は保持されるのです。

言語表現と論理学の適用
四句分別の使用において、論理学の律法を完全に破棄するわけではなく、状況に応じて適用するかどうかが異なります。特に、四句分別を用いる際には、矛盾律・排中律は必要に応じて放棄されることがありますが、これは形式論理と四句分別が互いに排除し合うわけではなく、異なる文脈で適切に適用されるものです。

(7)不可説を因縁あるが故に説く

論理律と四句分別の複雑な関係
論理律と四句分別の適用

論理学の同一律、矛盾律、排中律と四句分別の関係は択一的ではありません。四句分別の使用において、論理三律が適用されない状況と、それが再び活用される状況の理解が重要です。四句分別は非合理世界の反省法であり、論理三律は主に合理世界に属します。非合理の領域にこれらを持ち込むと、効果を発揮しません。

四句分別における論理三律の「取」と「捨」
四句分別が論理三律を「取る」場合は、句間の組成順序に関して適用されています。これは、無分別に向かいながらも、分別を通じて四句分別を正当に成立させるためです。また、四句分別を解説する際にも論理三律は必要です。これらは天台大師が提唱した「施・開・廃」という三義の概念で理解されます。

「施・開・廃」の概念
「施」は、権迹法を現実世界で便宜上用いること、「開」は本義を明らかにするために権迹法を開くこと、そして「廃」は本義が現れた後、権迹法の使用を終えることを意味します。これは、四句分別の使用においても同じで、特定の状況で論理三律が使用され、また別の状況で廃されます。

四句分別と論理三律の矛盾と保存
四句分別の内部構造を見ると、第三・第四レンマの内部では矛盾律と排中律が排除されていますが、句間ではこれらの律法が保存されています。つまり、四句分別全体にわたって矛盾律と排中律が完全に排除されているわけではなく、特定の文脈では保持されています。

言語表現と論理学の適用
四句分別を言語に表現する際は、論理三律に従っていない部分もありますが、その説明記述は論理三律に従う必要があります。つまり、句の表現自体が論理三律に従っていなくても、その説明は論理三律を使用して行われることがあります。

四句分別のルールとしての「選択」
四句分別の基本ルールは「選択」です。これは、反省と自覚のプロセスを通じて縦に深く掘り下げ、選択することを意味します。反省自覚は行為であり、矛盾律を基準にはしませんが、その根本基準に立つ上で、言説面では矛盾律を守ることがあります。

四句分別と論理学の適用
最終的に、四句分別は縦型の世界に関わるものであり、横型の世界、つまり合理的、客観的な世界の言語表現に適応させる必要があります。このプロセスでは、論理三律が重要な役割を果たしますが、四句分別自体はそれを超越しています。

(8)形而上論議は通用しない

排中律と四句分別の関係
排中律の基本原理

排中律は、ある判断とその否定の間に中間の選択肢が存在しないことを示します。記号論理学で、この原理は「Pまたは非P(P∨~P)」として表され、Pと非Pの間には中間が存在しないと主張します。これを否定すると「非有かつ非無(非有∧非無)」となり、山内氏が指摘する「排中律の逆転」状態になります。これは四句分別の第三レンマ「非有非無」と同じです。

合理世界と非合理世界の違い
合理的な世界(横の世界)では、「有か無か」の選択しか認められませんが、非合理的な自覚の世界(縦の世界)では「有にも非ず、無にも非ず」という中間の状態が存在します。山内氏はこの状況を「容中律」と名付けています。このように、横の世界の排中律と縦の世界の容中律は、否定的に関連しながらお互いの存在を許容しています。

四句分別の深い意味
四句分別は、横の論理世界から見た場合、簡単に理解することが難しく、欧米の研究者による解釈がしばしば我々の理解とはかけ離れています。四句分別を「四句否定」と呼ぶことは誤解を招く可能性があります。実際、四句分別は否定の機能の一部ではありますが、全体を表すものではありません。

中観の真理と四句分別
中観の真理は、四句分別を超えた場所に存在すると考えられています。しかし、四句分別を単に否定的なものとして扱うと、矛盾律や排中律に反してしまい、無意味な操作になる恐れがあります。四句分別は、横型の論理世界ではなく、縦型の反省法として適切に理解されるべきです。

美の存在と四句分別
例えば、「この花は美しい」という判断は、心の状態に依存します。美しさは内部の感覚であり、実際には「美という存在」ではなく、個人と花との関係性における「仮有」としての美しさを感じることです。これは、四句分別の枠組みで考えると、一つの現象としての美しさを理解することになります。美は「存在する」ではなく「認識される」ものです。

中道の実践と四句分別
中道とは、執着から離れた態度で、すべてを公平に扱うことを意味します。四句分別を実践する上での中道は、あらゆる選択肢を公平に扱うことであり、執着から解放されることを意味します。
これは「容中律」や「無執著律」としても理解されます。分別は、知識の産物であり、実践されるべきものですが、執着を持たずに用いることが重要です。

(9)四句分別と円融中道

四句分別から不思議境への到達
四句分別の役割と不思議境

四句分別は、日常生活の迷妄や無分別から出発し、最終的には教え(分別)の果てに達し、無分別の境地である「観」(不思議境)に辿り着きます。この不思議境は、四句分別を通じて達成される究極の智法(知る法)であり、内法を外法化したものですが、実際には外部に存在するものではありません。

四句分別の構成と目的
四句分別の出発点は、分別以前の無分別を否定することです。この分別は、第二句(有)、第三句(非有非無)、第四句(亦無亦有)の三句で構成され、最終的には「絶言の四句」、すなわち不思議境に到達します。この境界は、分別を超えた無分別法としての双照建立の円融中道を意味します。

日常生活と四句分別の適用
「観」という行為は、日常行事の中に存在するものです。たとえば、職場での上司と部下の関係を通じて、現量(直接把握)から思量(反省)へと進む過程が、日常の四句分別の実践例となります。これは、一心一切法の関係を縦と横の軸で理解することとも関連しています。

一心と一切法の関係
「一心より一切の法を生ず」は、心が一時に一切の法を包含するとき、これを横型の関係として捉えます。しかし、実際には縦型でも横型でもない、非縦非横の関係性が存在します。この関係性は、直接的な知識や言語では捉えられない、不可思議な境界を示しています。

中道の実践と四句分別
中道とは、執着から離れた状態を指し、四句分別の実践においては、あらゆる選択肢を公平に扱うことを意味します。これは「容中律」や「無執著律」としても理解され、分別と智慧の産物として実践されますが、執着を持たずに用いることが重要です。


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