ブラックコーヒーに祝福を一匙(エッセイ)

 得意と苦手とがあるだろうけれど、私はコーヒーがすきである。
 苦味が苦手という友人は常にいて、冗談めかして「大人だねえ」なんてにこにこと言われることもある。勿論、それを向きになって否定したり、鼻に掛けたりはしない。コーヒーひとつで判断が揺るがないほど、年齢の上でとっくに、私はいい大人である。
 私がいい大人だということは、私の友人たちもまた、いい大人だということだ。何しろ私と友人づきあいをしてくれる人たちなので、慎ましやかで思慮深く、恋人ができたからといって浮かれポンチ—―失礼、過剰に浮足立つタイプではない。
 それはよく分かっている。

 しかし。
 いや、だからこそと言うべきか。
 いい大人が「友人Aと友人Bが交際していることを知らない」状態で突然結婚報告を受けるとどうなるか、どれほど驚くか、いい大人たちには少しだけ分かっていてほしい。
 心臓に悪い。私だけが知らなかったのかな、なんて思う。だいたい『付き合ってることを知られるのが恥ずかしい』なんてキャッキャウフフ高校生じゃあるまいし、一定の情報公開はしていただかないとかえって支障があることは、根回しの必要な大人社会生活をしていれば経験があるでしょう!?
 と、言いたくなってしまう。
 正直これが一度目ではないので「またか!」と思ってしまった。
 分かってほしさのあまり、普段使わない太字を使ってしまった。
 もちろん、彼ら彼女らも誰にでも明かしていなかったわけはないと思う。私が一番の大親友というわけでもないし。余計に昨今の感染症がうんぬんかんぬんで顔を合わせる機会も少なかったわけだし。
 単に「お前がソレを明かしてもらえるほどの友人ではなかっただけだよ」と指摘をされれば、まったくそう思うのでぐうの音も出ない。

 でも、部内恋愛禁止の学生でもなければ、社内が気まずくなるのを避けたいオフィスラブでもないのだ。
 それなら「いい大人が、結婚ないしそれに準ずる関係を目指して交際をしています」という事実は、少し明らかにしてもらわないと、本当にびっくりするのである。
 身もふたもないことを言えば、あまりに急だとお祝いのプレゼントだって用意できないし、式の予定があるなら遊ぶ予定だって変わってくる。自分が招待されるかどうかは別だ。でも秋口に披露宴を控えた花嫁を、真夏の海へ連れ出すのは憚られるケースだってある、一生に一度の晴れ姿へ日焼け跡が残っては大変だ。
 この手の亜種として、
「私は二人の交際を知っていたが、知らなかった友人Cに『こないだの飲み会でAとBから結婚報告受けたんだけど、付き合ってたって知ってた? いや仲良いなとは思ってたけど……』と言われる」
なんてケースもある。
 これも結構堪える。これは『仲いいなとは思ってた』という事実でどうにか緩和されているくらいである。『仲の良さ』すら表沙汰にされていないと、本気の寝耳に水でびっくりする。
 ここで友人Dに「えっ知らなかったの」とでも言われてみろ。
 そりゃ「お前が教えてないからな!」と掴みかかりもするだろう。
 だれが驚きたくて驚くものか。分かるものなら分かっておきたい。自らお化け屋敷や絶叫マシーンへ挑むのとはわけが違う。誰も悪くない、責めようとも思わない。とにかくびっくりとするのである。

 声高に交際宣言してくれというわけでもない。それはそれで、おかしな話なのかも、と思うし。
 何かの折に教えてもらえると、実は外野も、ちょっと嬉しくなるのは確かだ。私なんかは他人の幸せを喜ぶことに特化した能力者だから、別の友人からわざわざ「かくかくしかじかでお付き合いすることになりました」と連絡を貰ったときには、小躍りしてケーキを買ってきてしまった。
 とはいえ、なにしろ私の友人である。
 私と友人づきあいをしてくれる友人なのである。
 慎ましやかで懐が深くて細やかな気遣いができて情に厚い、困ったときには助けてくれるし私も助けになりたいけれど、いい大人だからなんでも話すわけじゃない。いい大人といい大人の友人関係が、何もかもを晒して成立するわけじゃないことは、よくわかっている。だからこそ友人関係が保たれる。
 いつ誰となにがあって交際に至って、なんて、それ自体をひっくり返してひけらかして肴にするのは大人がやるには少し品がないことだから(学生の時分だって、当時根掘り葉掘り聞きたがってしまった同級生たちには申し訳ないことをした)。

 だから、これはちょっとさびしいなあ、と思っているだけだ。
 お祝いをするにも心の準備がいるもので、それってたぶん、「彼女が幸せなら大変嬉しいけれど、彼女に訪れる生活やさまざまな変化が少しさびしい」という気持ちが、自分の中へ勝手に沸き起こってくることへ多少の覚悟をしておきたいということなのだ。
 友人の結婚に際してのさびしさを語ると、そこそこの確率で「自分が結婚していない・予定がないことと照らし合わせての焦りやひがみでは」と指摘されるが、人に訪れた「結婚・婚姻」という事象を単にそれだけの切り口でしか捉えられないなら黙っていてほしい。勿論それはあなたの勝手である。
 私は私で、私の勝手で、「私の友人に結婚という事象が訪れた」(友人と友人がその手でつかんだというべきかな)という事実に際して、大なり小なり彼女や彼に訪れる変化を目の当たりにして、喜びとさびしさを抱いている。
 友人づきあいは変わらないかもしれない。
 今までみたいにお茶をしたり、カラオケに行ったり、お酒を飲んだりショッピングに付き合ってもらったり、なんでもない話で盛り上がることができるかもしれない。たぶん、その通りだと思う。
 でも彼女の帰っていく家が、彼と一緒に暮らす部屋になるのだなあ、と思うと、なんだか悔しいような口惜しいような気持ちになる。私は彼女に恋しているのでもない。彼に恋しているのでもない。
 二人が思う『二人にとっての幸い』を私が喜ばしく思うことと、私が一抹のさびしさを覚えることとは、当たり前に両立するだけだ。

 兎角この『さびしさ』というやつは、生きる限り付きまとうので、上手に付き合っていくしかない。さびしさないし孤独こそは生涯の友人にほかならない。とはいえ、急な来訪には用意が整わないので、もう少し覚悟をさせてほしい。
 私はひとりで暮らしていくつもりだから、ずっと何度もこのさびしさを迎えるのだと思う。自分の影みたいなものが折に触れては玄関ドアをノックして、それを私は、ああまたかと思いながら部屋へ迎え入れている。
 それでいて、慣れてしまうのはなんだか違う気がするもので。さびしい時のコーヒーが美味しくてよかったなあと今は、部屋に響くドリップメーカーの音を聞いている。彼の淹れたコーヒーは飲めるのよ、なんて言われた日にはきっと、とうとう泣いてしまうけど。

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