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掌編小説(7)『アイ・サイ・プラネット』

 妻は星になった。
 私がそう言うと、相手はたいてい気遣わしげにねぎらいの言葉をかけてくれる。
「お子さんもまだ小さいのに……。困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」
 あまりに不憫だとばかりにそう言われると、更に心配な思いをさせてしまいそうで、私はこれまでの経緯や複雑な事情まで伝えることを躊躇ってしまう。
 私の妻は死んでしまったわけではない。
 正真正銘、宇宙に浮かぶ星になったのだ。この青き星、地球に。

 妻とは幼馴染だった。年も同じで、生まれたときから家は隣同士。親兄弟を除けば一番長い付き合いになる。
 天真爛漫な性格を除けば、彼女は特別なものなど何も持ち合わせてはいなかった。少なくとも、私にはそう見えた。
 私たちはなんの変哲もない人生を歩んできた。並の家庭に生まれ、公立の小中学校で義務教育を修了し、中くらいの偏差値の高校に入り、周囲にやっとくっついたかと揶揄されつつ恋に落ち、同じ大学に進学し、地元企業に就職した頃に永遠の愛を誓い合った。二年後には息子が生まれた。
 この先もいたって平凡な日々が私たち家族のことを待っていると、そう思っていた。息子の成長を見守りながら毎日を仕事に打ち込み、彼が成人する頃には定年を迎え、ローンを払い終えた家で夫婦水入らずの余生を送り、できれば私が先に死ぬような。そんな人生を願っていた。

 ある朝、同時に目が覚めた私たちは、起き上がるやいなやお互いに顔を見合わせた。妻が言うには、夢に現れた不思議な光体から、星に、それも地球になるように仰せつかったという。信じられない話だとは思うが、かくいう私も同じ夢の中でその話を聞いていた。
 光体が私たちの脳裏に投影して見せたイメージを読み解くに、地球上のあらゆる種から一体ずつ個体を選出し、融合させたものを依り代と成すことで、向こう千年、地球の寿命を延ばすことができるという。つまり、その身を母なる星である地球に捧げよとのことだった。
 馬鹿げた話だとは思ったが、光体が残したイメージは夢から覚めたあとも脳裏にこびりついて、ほとんど確定した未来として私たちの精神に浸透していった。
 ひと月後には、妻がいなくなったあとの備えはほとんど完了した。妻が地球となる日まで、あと一年もなかった。
 お互いの両親には、妻は末期の癌であり、余命いくばくもないと嘘をつくことした。しかしその必要はなかった。四人とも、やはりあの夢を見ていた。それでも信じるに信じられず、私たちから話を聞くまでは何も知らないふりをしていようと、そう話を合わせていたとのことだった。私たちはこれを運命として受け入れるつもりだと伝えた。
 その夜。妻は彼女の実家に残して、私はぐずる息子を寝かしつけるために夏の夜道を公園に向かって歩いた。
 帰り道。さっきまで静まりかえっていた妻の実家から、妻とその両親の笑い声が聞こえた。ベソをかいてなかなか寝付かなかった息子は、母の声を聞いて安心したのか、ようやく眠った。
 三歳になったばかりの息子は、母が星になることを理解できていなかったが、夢が伝えようとした主旨はなんとなく理解していたようで、その日が近づくにつれ、妻から決して離れなくなった。

 約束の日。
 最後の思い出を作ろうと、親子三人で遊園地にやってきた。
 初めて乗った観覧車に大はしゃぎする息子を抱いて、妻は夕陽を見つめていた。その横顔が段々と透き通ってゆく。
「家の庭に桜があるじゃない? あなたと植えたあの桜のことは絶対に忘れないし、見失わないと思うの。だから毎年の結婚記念日には、桜を通じてあなたたちに会いに行くわ」

 妻の最後の言葉どおり、毎年一月三一日になると、庭の桜は満開の花を咲かせた。
 風に舞う花びらが息子の髪を撫で、さわさわと揺れる枝葉の音が、妻の声となって私の鼓膜を震わせる。
 きっと私は来年も、年々重たくなる息子を抱いて桜吹雪を待つのだろう。涙で頬を凍らせて。
 私の声は、君に届いているだろうか。

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