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あなたの一歳の誕生日は、私のためだった

昔から、特別な日には予定を思いっきり詰め込んでしまう癖がある。

例えば、両親が遠く離れた地元からやって来るとする。そうすると親の都合はともかく、やれこの美術館に行こう、やれこの店が美味しいから行こう、また、景色が良いから遠回りして歩こうだの、散々連れ回して一日の終わりにはヘトヘトになっている。

ただ単に、予定を立てることと予定をこなすことに慣れていないのかもしれない。比較的、物事をこなすのに時間がかかる。自己完結するものであれば大した問題もないが、一歩外に出ると世の中のペースについていくのに必死になる。電車に乗ることさえ、発車時刻までにホームに着くことに道を間違えたり時間を間違えたりしながら右往左往している。多くの予定を詰め込んだ一日の終わりには、履き古した靴下のようにくたびれている。

それでも特別な日には、そんな自分のペースも限界もすっかり忘れて、飽きもせずに予定を入れる。予定を詰め込み過ぎて疲れたからと言って、後悔したことはない。むしろ、疲れたいのかもしれない。疲れ果てるほどに何かをして、要するにその日を記憶に残したいのだ。


その日は、娘の1歳の誕生日だった。娘の誕生日に備えて、最高の計画を準備していた。

朝、目覚めるや台所に立ち、昨晩から水に漬けておいた昆布出汁に、鰹節を加えて、出汁をとる。これは出汁巻き卵に使う。ごぼうとにんじんを細切りにして、炒めてきんぴらごぼうを作る。ごま油と根菜が絡んで、香ばしい土の匂いがする。炊飯器から高い電子音が響いて、ご飯が炊けたと教えている。夫が起きてきて、「僕は何をしたらいい?」と聞く。娘も寝室から出てきて、早速おもちゃをつかんで遊び始める。夫には、おにぎりを握ってもらうことにして、私は夫の横でたくわんを切った。

今日は、ピクニックに行く。それも行ったことのない場所へ。私が時々このような表現をすると、夫は呆れたような表情をしている。夫にとっては初めての場所に行くという経験は日常茶飯事なのだ。車を使うと10分で着ける。しかし、歩くと40分かかる。公共交通機関を使っても40分かかる。今日行こうとしているのは、アクセスは悪いが、広いと評判の公園だ。行きはタクシーを使うことにして(公共交通機関を使っても同じ料金だった)、帰りは歩くことにした。お弁当に娘の荷物(水やおむつ、ティッシュなど)を鞄に詰め込み、いよいよ出発という頃には計画していた時間を1時間近く越えていた。


陽射しの暖かい日だった。公園の入り口を入ると、広い丘陵地が広がっていた。傾斜にそって降りて行くと、野球が出来るほどのだだっ広い空き地があった。空き地を取り囲むように桜の木が植えられており、木々の間にレジャーシートを広げ、3人で腰をおろした。

両親と3歳くらいの男の子が、三角形になってボールを蹴っている姿が見える。男の子がボールを蹴るたびに、両親は歓声をあげた。空き地の一角で、小さなテントを貼っている子連れの男性も見えた。風の強い日だった。テントの中はきっと暖かいだろう。強い風を求めて、必死に凧を引きずっている男の子もいた。父親らしき男性が、途中から交代して凧は頭上高く飛んだ。風に乗って、子どもたちのはしゃぐ声が時々聞こえてきた。

「僕たち二人だったら、ピクニックに来ることはなかったかもね」レジャーシートに寝転んでいる夫から声が聞こえた。そうかもしれない。結婚したら、一緒にお弁当を持ってピクニックに行きたいねと、話していたことはあった。でも、実現したことはなかった。今、ようやく実現したのは、娘のおかげだ。土いじりに夢中になっている娘の背中を、午後の穏やかな陽射しが照らしていた。

「親の愛は無条件というけれど、本当に無条件に愛しているのは子どもの方なのかもしれないね」夫が言った。「親は無条件に子どもを愛すると言うけれど、なんだかんだと条件を付けている気がする。でも、子どもを見ていると、この子は僕たちのことを本当に条件なしに愛してくれているね」開放的な環境がそうさせたのか、記念日ということに浮かれていたのか、いつになく夫は饒舌だった。「今日はいいことを言うね」と言ったら、「それは聞く耳が開かれたからだよ」と返ってきた。

どれくらいその場所にいただろう。気がつくと凧上げをしていた男性が、一本の木を見上げながら必死で糸を手繰り寄せていた。「手を離しちゃだめだって言っただろう」そんな声が聞こえてくる。見上げると木の枝の中に凧が引っかかっていた。

「そろそろ帰ろうか」夫が言った。娘の上着についた土や泥をはたいて落とそうとしたが、あまり効果はなかった。顔も手も泥だらけだ。まるでチョコレートのよう。片付けをしながらも、凧の行く末が気になって仕方がなかった。「お父さん頑張って」と無邪気に励ます子どもの傍で、父親は凧を目掛けてボールをぶつけようとしたが、ボールは外れてしまった。

「さあ、行こう」ベビーカーに娘を乗せて、夫は荷物を持った。歩きながらも横目で親子を見ていると「糸が切れた」と言う声が聞こえた。「仕方ない」と言って子どもの肩を抱いている父親の姿が見えた。振り返って見上げると、高い木の上で、凧が風になびいていた。あの子は、失ってしまった凧のことをずっと覚えているだろうか。いや、きっとすぐに忘れてしまうだろう。でも、父親は覚えているかもしれない。


家に帰ってから、ナスタチュームの種を土に蒔いた。

子どもの誕生日には花の種を植えたいと、以前から夫婦で話していた。タイトルを忘れてしまったがあるエッセイの中で読んだことがある。著者が幼かった時、友人に聞いたそうだ。「あなたは誕生日に何をするのか」と。そうすると友人が答えた。誕生日にはいつも両親が花の種をくれて、一緒に土に蒔くのだ。当時著者は、「なんだそんなこと」と思ったそうだ。ケーキもなければご馳走もない。花の種なんて何てつまらないのだろう。しかし著者は、今ならわかると書いている。種から花になるまで、植物の成長を子どもと一緒に見守る。そんな時間をプレゼントしたかった両親の心が。つまりは二番煎じなのだけれど、このエッセイを読んだ時に、娘の誕生日には花の種を蒔きたいと思った。

いつも食料品を買うために利用しているスーパーの園芸コーナーの片隅に、回転式のラックがあった。そこで野菜の種に混じって、僅かに花の種を見つけた。赤やオレンジ、黄色の、色彩鮮やかな小花の写真がプリントされた袋には、ナスタチュームと書かれていた。

夫と私、娘とで、手作りの鉢(ペットボトルを半分に切って、土を入れたもの)に花の種を蒔く、ささやかな儀式を行った。発芽するまで、表面が乾かないように水をやるのは私の役目だ。目の前に並べられたペットボトルに、計量カップで水をやる光景を、娘は不可解なものを見るような目で見つめていた。


娘にとっての初めての誕生日は最高のものに近づいていた。それはつまり、予定していたことが着実に実行されているということだった。

しかし、最後の最後で手作りのバースデーケーキの計量に失敗してしまった。豆乳を多く入れすぎたせいで、生地がゆるくなり過ぎた。熱したフライパンにおたまで掬って入れてみると、シャバシャバの液体がフライパンの縁にまで広がった。思わず声をあげる。「どうしよう!」これじゃ生地が膨らまない。やり直しか。せっかく苺をすりつぶして生地の中に入れたのに。一気に表情が曇り、コンロにかけたままのフライパンの前で身動きが取れなくなっている私を見て、夫が娘を抱きながら「大丈夫だよ」と励ます。でも、これじゃあ計画が台無し。一日の最後に手作りのケーキを娘に食べさせる。それを写真に写す。その写真を見たら、「こんなに素敵な誕生日だった」と思い出せるような写真を。押し黙っている私を見て、夫が言う。「そんな顔をしちゃだめ。この子が心配する。今日は笑っていなくちゃだめ」夫の胸に抱かれた娘は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。娘の表情を見るや、不機嫌になってしまった自分を一瞬にして恥じた。

初めからわかっていたことなのかもしれない。こんなのは自己満足なんだって。種を蒔いたって、ケーキを作ったって、この子は何にもわかっていない。私がこうしたいと思ったことを押し付けているだけ。完璧とは程遠い、薄く広がってしまったパンケーキを見ながら、自分が最高だと思っていた一日の本当の姿を見てしまったような気がした。ケーキを皿に盛り付け、無理矢理に明るい表情をしてテーブルに置いた。娘はしばらく物珍しそうにケーキを見つめ、いつも通り手掴みで少しかじったり、床に落としたりしていた。

一日が終わろうとしていた。疲れ切った体をソファに沈ませ、お風呂から出てくる娘と夫を待った。浴室から、夫が私にも聞こえるくらいの大きな声で娘に話しかけていた。「今日は楽しかったねぇ。お母さんが色々なことを計画してくれたねぇ。ケーキも食べて、花の種も蒔いて。お父さんには思いつかないことばかりだったなぁ」

しばらくして娘が大声で泣く声が聞こえてきた。急いで浴室に向かう。「どうしたんだろう」急に機嫌が悪くなった娘を浴室から上げながら夫が言う。

「今日は色々あって、この子も疲れちゃったかもしれない」娘は顔中を真っ赤にして、大声で泣いている。私の姿を見ると、抱っこを求めて必死に手を伸ばしてくる。体に巻いたタオルごと、娘を抱き上げる。抱っこされた途端、ぴたりと泣き止む。

この一年間、何度この泣き声を聞いただろう。何十回、何百回、何千回と、娘が泣く度にこうやって抱き上げてきた。時には抱き上げても泣き止まないときもあって、何時間も子守唄を歌い続けたこともあった。今日という日がくるまで、何度この子の笑顔を見れただろう。初めて笑った瞬間は、どれほど嬉しかったか。産まれた時のことを、昨日のことのように思い出せるのに、もう一年が過ぎたのか。月日は光のように飛び去ってしまう。今日は祝いの日。過ぎ去った日々を愛おしむように、少しでも記憶に留まるようにと必死だった。


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