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誰の興味も惹かない日本史⑥

 愛知県北設楽郡東栄町に戦国時代居たとされる謎の豪族伊藤氏
 伊藤氏の情報を多数掲載していた長野県天龍村の『天龍村史』。伊藤氏の親戚の熊谷氏の歴史を確認しつつ、伊藤氏の周辺環境を確認しようという話に発展してしまったのが⑤です。(第1話第2話第3話第4話第5話はそれぞれをクリックするとご覧いただけます。)

 最近、このnoteを読んだ方から、結構面白い、という感想を直接いただき、うれしく思っているところです。どうやってオタクの思考回路が膨れ上がっていくのか、が、追える、ということのようで、一体どこまで広がりを見せるのかわからない、とのこと。実際、私もこの話がどこへ着地するのかさっぱりわからず、とりあえず書き連ねている、という状況です。なので、読んでいる方が混乱するのも当たり前なのです。書いてる私が混乱しているのですから。それをそのまま書いて、混乱すること自体を楽しんでいる様をお見せしている、そういう話を書いてるわけです。

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 さて、『熊谷家伝記』の記載から、伊藤氏を取りまく状況を大まかに図で整理すると、以下のような感じか?

画像2※白地図は「CraftMAP」を基に筆者加工(http://www.craftmap.box-i.net/)

 実際には、年次的に前後する場合があるので、この通りの状況で安定していた訳ではありません。ただ、『天龍村史』に登場する主な領主の位置的状況を把握しないことには、一体、どこの誰の話をしてるのかさっぱりわからないので、整理をしてみました。(これらの領主が所在する市町村名がどこを指しているのかは、こちらをご参照ください。)

 伊藤氏は、南の今川VS.織田・松平(徳川)の影響よりも、北の小笠原氏や武田氏の影響を大きく受けていたようです。で、この小笠原氏が、伊藤氏にも影響するようなのですが、小笠原氏は、織田、徳川、武田、今川等の近隣の戦国大名と比較するとは知名度が低い。特に、名古屋近郊で生まれ育った自分としては、小笠原氏は有って無きが如き存在。(小笠原氏関係の方が、万が一読まれていたらすいません。)
 小笠原氏といえば、信濃守護小笠原長時が、武田信玄に奇襲されて負けて逃げた、という、エピソードしか、伊藤氏を調べるまでは知りませんでした。なので、失礼ながら「弱っ。」という印象しかない。(重ね重ね、小笠原氏関係の方、大変申し訳ありません。浅薄な知識の私が個人的な印象を述べているにすぎません。)

 しかし、小笠原氏の動きが三遠南信国境地帯に大きな影響を与えているというのが『天龍村史』の考え方です。小笠原氏は上記の図で府中、松尾、鈴岡の三氏ありますが、実際には、以下のような経緯を辿ったとされてます。
 長いので、箇条書きの後に要約を付けますので、興味ない方は読み飛ばしてください。

・信濃は小笠原氏が守護だったが、南朝勢力が強く、京都将軍家と関東公方家の対立も影響し、守護職が小笠原氏以外になることもあった。しかし、応永6年(1399年)、信濃実効支配が認められ小笠原長秀が信濃守護になる(803~811頁)。
・応永7年(1400年)9月、小笠原長秀は国人層(大文字一揆)の反乱(大塔合戦)に敗れ、翌応永8年(1401年)正月に信濃守護職を解任される(811頁)。2月、斯波義将が信濃守護、その後、幕府直轄領。(811、812頁)
・応永17年(1410年)、後亀山法皇が吉野へ出奔し「後南朝」を開くと南朝の活動が活発化。南朝勢力の強い伊那郡が荒れる。応永32年(1425年)に小笠原政康が信濃守護となり南朝勢力を一掃。足利義教より甲斐の支援、結城合戦への参加を命じられ反幕勢力を討滅する(813、815、816頁)。
・嘉吉2年(1442年)8月、小笠原政康急死。跡織を巡り、政康嫡男宗康政康の兄の子持長との争い勃発。文安2年(1445年)11月、幕府は宗康を惣領と認定(816頁)。
宗康と持長の戦いは続き、文安3年(1446年)3月、宗康は弟光康に家督を譲り、持長と戦い討死。その後、持長は府中(松本市)を占領松尾を本拠とする光康との対立が続く(816頁)。
・応仁元年(1467年)正月、山名持豊、畠山義就(府中小笠原持長の異父弟)によって斯波義廉が管領になると、松尾光康から信濃守護職を取り上げ、府中清宗へ信濃守護職を与える。松尾光康は、応仁の乱で東軍細川勝元側に属し、西軍山名持豊側の府中清宗と戦う(817,818頁)。
・応仁2年(1468年)7月、将軍足利義政が管領を斯波義廉から細川勝元に変更。府中清宗は力を失う。将軍義政に仕えていた鈴岡城主小笠原政秀(宗康嫡男)の攻撃により、文明2年(1470年)3月、府中小笠原氏は鈴岡政秀に降参。鈴岡政秀が信濃守護となる(819頁)。
・文明11年(1479年)将軍義尚の命により美濃へ出兵した鈴岡政秀に対して、府中長朝、松尾家長らが反旗を翻す(819、820頁)。
・信濃守護府中政秀は、文明12年(1480年)松尾家長を攻略し、鈴岡城に入城。しかし、鈴岡政秀親子は、明応二年(1493年)正月、松尾貞基(家長の子)に松尾城で暗殺される(820頁、838頁)。
・文亀元年(1501年)、松尾定基(貞基)が信濃守護になる。府中長朝、貞朝親子は認めず争う(820頁)。
・天文3年(1534年)松尾小笠原氏が滅び、小笠原惣領職は府中長棟、長時親子が手に入れた(880頁)。
・天文21年(1552年)、武田信玄に敗れた小笠原長時は松尾城へ移る。弟信定は鈴岡城へ入る。武田信玄は松尾信貴を使って長時、信定追い落としを図る(883頁)。

 書いていて、自分でも長いは、と、思いました…。
 ただ、小笠原政康さんが頑張って中興の祖になるのですが、急死したことが小笠原氏混乱の原因といってよいでしょう。そこに足利幕府の政変が加わって、まず、政康の嫡男宗康(松尾家)と政康の兄の子ども持長(府中家)が争います宗康が弟光康に家督を譲って持長との戦いで戦死します。松尾家は光康の家系が惣領になりますが、宗康の家系が将軍家に仕えることで、鈴岡家として突然復活してくるのでややこしいのです。
 そして、鈴岡家が松尾家に潰されて、松尾家が府中家に潰される。ところが、松尾家は途絶えていなかったので、武田家によって復活して、近世に至る、と、言う訳です。

 この小笠原一族の対立は、府中家が応仁の乱の西軍(山名・畠山義就・斯波義廉)、松尾家が東軍(細川・畠山政長)の影響を受けているため、中央の情勢がひっくり返るとオセロゲームのように信州の情勢もひっくり返るようです。

 と、言う訳で、今回は信濃守護小笠原氏の動向を、『天龍村史』に基づき整理しました。小笠原氏配下で伊藤氏や熊谷氏に大きな影響を与える、関氏や下条氏の動向を次回整理することで、伊藤氏を取りまく環境を考えたいと思います。(続く

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