誰の興味も惹かない日本史③

 東栄町に戦国時代居たとされる豪族伊藤氏
 縁もゆかりもない私ですが、気になったこの一族について調べるため、『東栄町誌』を紐解くも ようわからんと言われ、町誌の示唆を受けて『北設楽郡史』を調べたら伊藤氏について記載があるのですが、ディスって記載されてることを発見してしまう。(下線部分は記事のリンク先へ飛んでいきます。)

 『北設楽郡史』では、ほのかな悪意を感じた伊藤氏の記載ですが、伊藤氏については、大永年中(1521年~1528年)に長篠菅沼氏の元貞という人に征服された、との記載されています。
 大永何年なんだろう?と、思い、探ってみたのが『山家三方衆』(1979.5鳳来町教育委員会長篠城跡保存館)。この本、長篠の戦いの現場、長篠城が所在する鳳来町(現新城市)が作っているだけあって、奥平氏や菅沼氏について様々な史料を基に記載しています。そして、探したところ、
 元貞がいない…。

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 そんな馬鹿なと探していたらみつけました。「元直」として記載されており、「宗堅寺蔵本菅沼家系は左馬亮元貞としている。」ということでした。しかし、何も記載がないのです。
 このあたり、長篠菅沼氏のお膝元『鳳来町誌 長篠の戦い編』(1997.3 鳳来町)に「現東栄町方面で勢いのあった伊藤氏が、後に長篠菅沼氏の配下にあったことなどを考えると、土岐系菅沼氏はかなりの範囲に力を伸ばしていたのである。」(19頁)とあっさりと記載されるのみ。長篠菅沼氏の本家田峯菅沼氏の居た『設楽町誌』(2005.9 設楽町)の長篠菅沼氏に触れている項(171~173頁)では、特に触れられていません。なお、菅沼一族の動向を述べている項で「永正13年、定忠は今川氏親に従って水巻城の奥山氏を攻略するなど戦功を表し、その後も今川に属していたが、」との記載(162~163頁)が見られます。

 基本的に、菅沼氏は、今川氏との関係性を持った一族であると言える訳です。その配下的存在と伊藤氏がされるのであれば、伊藤氏も今川氏の支配を受けた一族だったのね、と、いうことで終了~~。と、言えます。
 ただ、気になるのが「水巻城の奥山氏」の件です。水巻城は、東栄町の東にあり、奥山氏は、一族が東栄町の御園地区に居たとされています。東栄町の北部山間地域の御園地区は奥山氏、平野部の本郷から奈根にかけてを伊藤氏、という感じで分かれて治めていたようなのです。奥山氏も宗家と庶家で争いがあったようですので、今川から攻められる一族があってもいいのですが、一体、東栄町より北の豊根村や東の旧佐久間町、旧水窪町(現浜松市)などはどういう状況だったのだろう?と、思った訳です。

 近隣の勢力の状況が判れば、ある程度伊藤氏についての推測ができるのではないか、ということで、稲武町誌やら足助町誌、津具村誌、天龍村誌、など奥三河、遠州北部、南信州の接するあたりにある市町村誌を、片っ端からコピーして読み始めてみました。
 すると、天龍村誌が意外や意外、かなり沢山の伊藤氏の情報を載せてくれていました!

 『天龍村史』(200.11 天龍村)は、長野県下伊那郡天龍村の歴史を書いています。この村誌は「柳田國男が注目して広く世間に紹介した『熊谷家伝記』を中心に」(779頁)書かれており、三河の大名家に伝わる書状や寛政重修諸家譜や菅沼家譜といった家伝に基づく町村誌と一線を画して書かれていました。なので、全然違う視点で書いています。また、織田信長・今川義元という対立項の後、武田信玄が現れる、という歴史軸を中心に述べられている三河系町村誌とは違い、南信州の歴史から見た歴史となっており、三河系町村誌に馴れた自分からすると新鮮そのもの。
 伊那郡南端に位置した熊谷氏が、戦国時代を生き延びた話が載っており、一次資料とは違うため、信憑性には今一つ欠けるきらいがあるかもしれませんが、この内容を一次資料などを基に丁寧に追いかけているのが『天龍村誌』の特徴です。

 今まで調べていた町村誌では、伊藤氏永正年間(1504~1521年)に伊豆からやってきた、と書かれていました。しかし、天龍村誌に驚くことが書いてありました。

康正二年(1456年)三月四日、左閑邊熊谷直勝は、三州名根村(愛知県北設楽郡東栄町奈根)伊藤右京の娘を娶り、同年八月に家督を相続した。」(823頁)

 左閑邊(さかんべ)熊谷氏は、北から侵攻してきた関氏の圧力に押されて、どんどん所領を蚕食されていき、南下せざるを得なくなるのですが、永正年間よりも前に三州奈根(名根)の伊藤氏と婚姻関係を結んで対抗しようとしていると書いてあるわけです。

 さらにさらに。
 「明応九年(1500)二月に左閑邊郷主熊谷直勝の弟小八郎直嶺が、光国和尚の仲介で、甲斐武田信虎の家臣となったのは、同年に小笠原氏の家督争いが松尾小笠原定基の勝利に終り、定基の重臣関盛貞の力が再び強まったためである。」(841頁)
 どうも、熊谷氏は信濃守護小笠原氏配下の関氏の圧力を受けて甲斐武田氏への臣従を行ったようなのです。

 はて、この光国和尚という名前、どこかで聞いたことあるぞ?

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 東栄町に「おさま甚句」というのがありまして、この盆踊りの歌が三遠南信界隈に広まっており、伊藤氏の本拠地とされる東栄町下田にある長養院にいた光国舜玉が作ったとされているとされている、という話は、東栄町で仕事をしていた時に、まちの史跡案内看板で知っていました。

 デジタル版日本人名大辞典+plusによれば、光国舜玉さんは、
 1477-1561 戦国時代の僧。
 文明9年生まれ。曹洞(そうとう)宗。三河(愛知県)泉竜寺の克補契嶷(こくほ-かいぎょく)の法をつぐ。永正(えいしょう)11年三河二連木城主戸田憲光にまねかれ,三河全久院をひらく。泉竜寺や遠江(とおとうみ)(静岡県)大洞院などの住持をつとめ,享禄(きょうろく)2年信濃(しなの)(長野県)瑞光院の開山(かいさん)となった。永禄(えいろく)4年8月11日死去。85歳。伊豆(いず)出身。
 だそうです。

 ところが、『天龍村誌』では、もっと物騒な話を載せています。

光国和尚は武田一族であり、岩村遠山氏と対立する明知遠山氏を武田信玄配下に加える工作を行っており、「信長にとって遠山一族を取り込もうとする武田方の光国和尚は危険な人物」(894頁)として、信長に焼き殺されてしまったそうです。(同頁)

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 ええ?そんな人が東栄町を根城にどっぷりと浸かっていた。しかも、東栄町で開発した歌や踊りを武器に、人民や領主を洗脳して武田方に変えていた?という疑いが出てきたわけです。

 なにより、永正年間より前に伊藤氏と接触してるっていうことは、伊藤氏は、むしろ早くから武田氏の影響を受けていた一族である可能性が高いと言えます。信玄西上作戦よりも相当前に武田の影響が東栄町にはあった可能性があるのです。

 いやいやいやいやいや、史料の残りが悪くて、よくわからないとされていた東栄町の伊藤氏。『天龍村誌』の依拠する『熊谷家伝記』によって、突然歴史の闇から浮かび上がってきました。

 次回は、『天龍村誌』に記載の『熊谷家伝記』から伊藤氏に関する記載部分を抜き出して、知られざる伊藤氏の動きを追ってみたいと思います。(続く

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