誰の興味も惹かない日本史②
戦国時代、東栄町にいたとされる伊藤氏。この一族を調べようと地元の『東栄町誌』を紐解くも、資料がないからよくわからない、と、一蹴される。しかし、『北設楽郡史』には記載があるらしい、というヒントはもらう。
『北設楽郡史』(北設楽郡史編纂委員会)は、1967年10月刊行。入手は困難。ただ、この本は既に過去奥三河の歴史を漁っていた際、コピーしておりました。幸い、自分の知りたかった部分もコピーされていました。(図書館の本は著作権の範囲でコピー可能です。)
伊藤氏について項を起こして記載されていました!さて、何が書いてあるかを以下に要約しました。(『北設楽郡史』434、435頁)
・伊藤氏は、現東栄町一帯に勢力を伸長していた
・工藤祐経の子祐時の末裔
・永正年間(1504~1521)に伊藤貞久が、伊豆国下田から振草七郷の地頭として赴任
・別所城を築き居城とした。
・永正2年(1505)に、伊藤貞久は、下田の真言宗安養院を曹洞宗長養院に変更した。天文11年(1542)に、本郷大森に諏訪宝殿を建立した。
・伊藤貞久の配下に、岡本(筆者注:地名)の伊藤兵庫介、下田上屋敷の伊藤八左衛門、足込(筆者注:地名)の川合源三郎などの名主層があった。
・伊藤貞久は、永禄2年(1559)3月11日没。
・伊藤貞久の子は貞次。
・伊藤貞次は、天文11年(1542)に、本郷諏訪社に大鳥居を寄進。弘治3年(1557)に本郷諏訪宝殿と本郷岡本の阿弥陀堂を改築。
・伊藤貞次は、今川義元に従っていたが、永禄4年(1561)に長篠菅沼氏の貞景とともに徳川氏に属する。今川方の遠州川上鶴ヶ城を攻め、掛川合戦に参加した。
・元亀2年(1571)菅沼貞景の子、新九郎正貞を援けて、遠州愛宕山へ出陣するも、武田方秋山晴近に敗れ、正貞は降伏、伊藤貞次は別所城を離れ、豊根村間黒の庄内に隠棲した。
これらの内容は、東栄町に合併される前の本郷町の町史『振草本郷』に記載があったようです。町史には、かなり詳しい記載がなされていたようですが、根拠が明確でないため信憑性には疑問が付く、と、説明が加えられています。
さらに、この郡史、結構、伊藤氏をけなすんです。
「この『本郷振草』には、この他、かなり詳細な記述がなされ、相当の大勢力を有していたように書かれているが・・・想像の域をでることがないといえる。・・・経済的基盤となると、畑作を主体とするこの地域にあっては、強大とみることはまず不可能で、菅沼・奥平氏など、いわゆる山家三方衆とは到底比すべくもないことは明白であろう。それは戦国期において、本郡西部地方では再三ならず所領収奪のための戦闘が行われているのに、信州と東三河地方を最短距離で結ぶ要所に位置する振草谷にあってさえ、城砦も多くなく、またさしたる戦乱のなかったことからみても、この地域の経済的基盤、ひいては伊藤氏の勢力の程度が判断できるというものである。」(434,435頁)
と、本郷町史ではすごい勢力だって言ってるけど、ここの農業生産力からそんなことありえんじゃんね、と来て、「勢力の程度が判断できるというものである。」と、ちょっと小馬鹿にした書き方してるんですよね。
そして続けて止めを刺します。
「さほど問題とするにあたらなかったものと解釈できる。」(435頁)
さらに
「・・・長篠菅沼氏(山家三方衆など)に従属した一代官の如き存在でしかなかったのではあるまいか。」(435頁)
一代官の”如き”存在。
一応、この代官説には根拠があるようです。417頁の長篠菅沼家の歴代人物紹介「元貞」の項で、「大永年中、別所(東栄町)城主伊藤左京亮貞久を従え本郷周辺に勢力を伸した。」との記載があります。
ただしかし、この「ごとき」という表現に、ものすごい悪意を感じるのは私だけでしょうか?
ここの著者は旧本郷町に恨みでもあるように感じてしまいます。旧本郷町出身者にすっごい苛められた経験でもあるかのようです。旧本郷町は北設楽郡に属してるわけですから、旧本郷町民もこの本読む可能性が高いのですが…。旧本郷町のプライドをへし折って屈服させてくれるわ!と、いう感じがプンプン漂ってまいります。
伊藤氏を調べるはずが、北設楽郡史の著者のあまりの書きぶりが面白くて、伊藤氏が全然入ってこない!!
最終的に、郡史はこう結論付けます。
「いずれにしても伊藤氏の事跡は、それを徴する資料が乏しいため不明瞭といわねばならない。したがってここでは、二・三確実と思われる資料を掲げて向後の参考にとどめたい。」
別に本郷贔屓をする訳じゃないですが、資料が乏しく不明瞭ならば『振草本郷』記載内容が間違いとも言えないのでは?『振草本郷』の記載内容を読んでないので何とも言えませんが、伊藤氏が黄金の御殿を建てていたとか、日本の歴史は実は全て秘密結社伊藤氏が動かしていたとか、全米が泣いたとか荒唐無稽なことが書いてあれば、そりゃ北設楽郡史の著者のように「ふざけんな!」って言いたくもなります。
けど、ちょっと膨らまして書いてあるくらいならば、その元ネタとなる何かがあるかもしれない。それを抹殺して全否定する論拠も、ある意味推論。こちらも確たる根拠がある訳じゃない。振草本郷が吹いてる、と思われる部分も証拠がないとして二・三挙げておいても良かったんじゃないでしょうか・・・?
『北設楽郡史』が、ここまでコテンパンに書いてしまったが故に、『東栄町誌』の記載が極めて遠慮がちになってしまったのではないか?そんなことも思ってしまいます。
『本郷町史』「振草本郷」の章は是非とも入手して読んでみたいものですが、それはそうとして、ある程度伊藤氏については整理できた!
と、喜んだのですが、実は、そんな簡単な話じゃなかったのです。(続く)
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