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誰の興味も惹かない日本史①

愛知県の北東、もはや長野県か静岡県か、という愛知県北設楽郡東栄町。戦国時代に「伊藤氏」という領主が居たのですが、どういう人達かよくわからない。だから調べてみようというのが発端だったのですが…。

 織田信長、徳川家康、武田信玄、今川義元。このあたりならば、テレビや雑誌でも特集が組まれる程。同じ話を使い回しているようなことすら起きています。
 鳥居強右衛門勝商、奥平信昌、山家三方衆田峯菅沼氏。このあたりならば、長篠の戦いなどを詳しく調べている人達ならばご存知。ただ、近くに歴史好きがいて話をしてくれない限り、一般の人が耳にすることはないかも。
 私の暮らす奥三河地域の歴史好きでも、東栄町にいた「伊藤氏」となると、大方の人の反応は「・・・、誰?」というレベルが正直なところではないかと。

 東栄町の設楽城という城で真冬に水鉄砲合戦をやっている縁で、東栄町の城について話をする機会を得ました。

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 そのため、少し東栄町の戦国時代について腰を据えて調べてみるか、と、いうことで調べ始めたのですが、

 よくわからない。
 
 そら、あんたの調べ方が悪いんじゃないか?と、思われたかもしれません。しかし、そうではないのです。うちの本棚に鎮座まします『東栄町誌自然・民俗・通史編』(2007年3月 東栄町)には、このように書かれていました。

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「・・・何人かの地方豪族が存在し、その豪族が属する戦国大名の支配を受けたことは確かなようだが、中世における支配の状況は判然としない。」(東栄町誌 1004頁)
と、記載されています。

 なんか誰かいて、誰かに支配されてたようですけど、その状況がよくわからない。

 そう言ってるわけです。

 いやいや、その状況が知りたいのですが・・・、と、思いますが、
「・・・町内に残るいくつかの城跡や居館跡は、この地に豪族が存在したことを如実に物語る。・・・これらのことを明確に語る史料はない。最も顕著な居城跡である設楽城にしても、その主とされる設楽氏の系譜の中の誰が当地に居住したという証しは存在しないのが実情である。」(東栄町誌 999頁)
 資料にない、確実でないことは言えない、と、いう責任感ある方針を潔いまでに貫いている東栄町誌。好感が持てます。

 とはいえ、城のことを調べようと思えば、その城を使った人たちの動向を知る必要があります。そのため、東栄町誌で登場した伊藤兵庫助や伊藤右京、奥山能登守とは、いったいどのような人達だったのか?そこがあまり資料がないのでわかりません、と、なってしまったのです。

 正直、奥平氏などの歴史を調べていた時にも、伊藤氏はあまり登場しないのです。だから、近くの鳳来町誌や新城市史、設楽町誌、豊根村史を読んでも出てこなかった人たちなのです。だから、東栄町誌のいうことは正しいのです。資料が残っていなければわからない。当然です。 これは困った・・・。

 私は講演で何を話せばいいのか?
無言の時間で集まって頂いた方達と向き合う。
コロナウイルス感染防止対策としては、良いのかもしれません。
それにちょっと、禅っぽい。でも、うちは念仏の家系。
 講演で話す内容がないのは一番困る。私は焦りました。

 しかし、東栄町誌は手がかりを残してくれていたのです! 

 「・・・『北設楽郡史』は往古から伝わる伝承や、わずかにあらわれた史料の記述をもとにこれら城主層の系譜や動向を記述している。その内容については本誌では改めて記述しないこととする。」(東栄町誌 999頁)
町史に先行する『北設楽郡史』には伝承や資料を基に動向を記述しており、重複する部分は書かない、との書いてあるのです。

 これなら何とかなるのではないか?
 そう思ったのですが、ここからが長い旅の始まりだったのです。(続く

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