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誰の興味も惹かない日本史⑤

 愛知県北設楽郡東栄町に戦国時代居たとされる謎の豪族伊藤氏。
 史料が残らずよくわからない、とされていたのですが、めちゃくちゃ情報を載せてくれていた『天龍村史』と出会うことで、展開が変わってきました。(第1話第2話第3話第4話はそれぞれをクリックするとご覧いただけます。)

 伊藤氏を南側の地域とのつながりで捉える市町村誌の場合、つまり東栄町を新城市や豊橋市方面から考えると、永正年間(1504~1521年)に長篠菅沼氏の配下となり今川氏とつながることで、伊藤氏の動向がやっと判明するわけです。ところが、伊藤氏を北側の地域との関係から見た市町村誌の場合、つまり東栄町を南信州方面から考えると、熊谷氏と婚姻関係を結ぶなど、永正年間よりも前の情報がわかる。そんな感じが窺えます。
 伊藤氏の居た東栄町と婚姻関係にあった熊谷氏が居た豊根村は、浜松市へ至る天竜川水系です。豊橋へ至る豊川水系ではありません。現代の移動距離を考えた場合、東栄町は豊橋市と飯田市が同じ時間。豊根村は飯田市の方が30分程度早く着く。伊藤氏が豊橋方面との結びつきよりも北方の南信州との結びつきが強い、という状況は十分考えられる状況にあるといるでしょう。

白地図(名前入り)

※白地図は「CraftMAP」を基に筆者加工(http://www.craftmap.box-i.net/)

 それでは、伊藤氏の北方ではどのような動きがあったのか?
 伊藤氏と婚姻関係を持つことで、南信州における権益確保を目指していた熊谷氏の動向により確認します。熊谷氏は最終的に武士身分を捨て、土着します。子孫が『熊谷家伝記』という先祖に関する話をまとめたことで、この地域の動向が窺える資料として有名です。『天龍村史』は『熊谷家伝記』を参照して記載しているようです。

 『熊谷家伝記』では、新野(阿南町)に伊勢から関氏がふらりと現れ、徐々に巨大化し、下條の下条氏と二大勢力となっていく過程で、関氏は熊谷氏を従属させようと圧迫する様が描かれています。関氏は下条氏との戦いに勝ち、その結果、巨大化した関氏に熊谷氏は従属することとなります。しかし、巨大化した関氏の当主が慢心したことで乱暴な振る舞いが多くなり、結果的に天文13年(1543年)に配下の郷主たちに見放され、離反した配下郷主は下条の配下となり関氏を滅ぼした、としています(『熊谷家伝記のふるさと』山崎一司、1992.3、富山村教委、162~167頁)。

 『熊谷家伝記のふるさと』はずいぶん前から読んでおり、山間の僻地だと中央勢力の影響も及びにくく、地域の領主たちの自主的な争いが繰り広げられ、その後、巨大化した中央勢力が及び統一されていった、と、思っていたのです。しかし、『天龍村史』では、そう簡単な話とは見ていません。
 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇ですが、足利尊氏と対立して吉野に逃れ亡命政府の南朝政権となります。新田義貞は南朝政権の大きな軍事的存在ですが、熊谷氏は、新田とつながりが深いため南朝方となります。天竜川水系は南朝勢力が強い地域だったようです。南朝勢力と対抗していたのが足利氏。足利氏が正統性を得るために担いだのが後醍醐天皇とは別系統の天皇。これが北朝となります。足利・北朝VS南朝、という図式で始まるのですが、足利尊氏と直義の兄弟が、壮絶な兄弟喧嘩(観応の擾乱)を始めてしまったため、話がややこしくなります。
 足利直義は、尊氏への対抗上南朝と手を結んでしまうのです。そのため、足利家とつながりの深い家であっても、直義側の家は南朝方となってしまい、訳がわからなくなるのです。ここが調べていて「あれ?この家って足利側なのに…?」と混乱させられる理由です。

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 信濃国(長野県)は、北朝方の守護小笠原氏と南朝方の諏訪一族が争っています。諏訪一族の力が強かった天龍村左閑邊(さかんべ)地域に諏訪氏の了解を得た熊谷貞直が入り込み、一定の勢力を築いたのが文和元年(1352年)。この熊谷貞直、あちこちで結婚を繰り返しては、自らの味方を増やす作戦に出ています。
 遠江国「奥山庄」の桃井刑部の娘を娶り長男直重を儲けるのですが、その後三河国の多田氏の婿となって所領を貰います。その後、諏訪一族の養子になって信州天龍村の左閑邊を領有します。なんだか知りませんが、やたらとあちこちで結婚したり養子になったりで勢力を広げています。

 一方、当時の信濃守護小笠原氏は北朝方(尊氏方)。そのため南朝勢力の諏訪氏と争っており、諏訪氏の養子の熊谷氏も小笠原氏とは戦闘関係になります(『天龍村史』801~811頁)。小笠原氏の勢力が強くなり、あちこちの国人領主たちを味方にし始めます。しかも、南北朝の統一が行われ「南朝」が消滅(『天龍村史』809頁)したことで、熊谷氏は苦しい立場に追い込まれる訳です。そして、中央政府の勢力争いで、信濃守護が小笠原氏から斯波氏に交代することもありました。しかも、信濃守護を小笠原氏が奪還した後も、小笠原氏が内部分裂を繰り返すため、結局誰が味方で誰が敵かわからなくなってしまうのです。
 小笠原氏の配下に関氏と下条氏が存在しています。が、この小笠原氏が、京都の足利政権と関東の室町幕府出先機関の間の勢力争いに巻き込まれ、その影響力が弱くなる時があり、下条氏や関氏が勢力を伸長させていくことになります。

 と、まぁ、もっと小笠原氏について書こうと思いましが、その背景説明で今回は力尽きました。次回は、もう少し小笠原氏について書こうと思います。(続く

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