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誰の興味も惹かない日本史⑦

 愛知県北設楽郡東栄町に戦国時代居たとされる謎の豪族伊藤氏。
 伊藤氏を取り巻く環境を調べるには、南ではなく北の動向を知る必要があり、信濃守護小笠原氏の状況を整理したのが第6話です。そして、小笠原氏の配下として伊藤氏の親戚である熊谷氏に大きな影響を与えた関氏や下条氏について、今回は整理します。(第1話第2話第3話第4話第5話第6話はそれぞれをクリックするとご覧いただけます。)
 伊藤氏が直接出てこない話が続きますが、伊藤氏を直接的に説明している資料がない以上、周辺の状況から状況証拠を積み上げて、立証するしかない。そう考えての記載内容です。

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 さて、この時期の伊藤氏を取りまく状況をざっくりと解説するとこんな感じかと。

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 まず天皇家が南北に分かれて争い、将軍家は京都の足利将軍家と関東の鎌倉公方家と仲が悪い。将軍家の執事である管領織を務める細川氏、斯波氏、畠山氏がいますが、斯波・畠山はそれぞれ2派に別れて対立。
 京都の政情に大きな影響力を与える複数の国の守護大名を務める有力大名として、山陰の山名氏や山口の大内氏。
 伊藤氏に大きな影響を与える近隣の守護大名として、信濃の小笠原氏、駿河の今川氏、甲斐の武田氏。この他に美濃の土岐氏もいます。三河は細川氏、遠江は斯波氏、という感じです。ちょっと小さ目として、信濃の諏訪氏や三河の吉良氏もいます。
 そして、小笠原氏の配下として勢力を伸ばしているのは、国人領主層の関氏、下条氏。三河では岡崎方面の松平氏、西三河北部の鈴木氏、東三河北部に奥平氏、菅沼氏、尾張には織田氏、東美濃には遠山氏などもいます。遠州北部には天野氏も。そして、これらの国人領主層の有力な方でして、それよりも小さな勢力として、伊藤氏や熊谷氏、津具の後藤氏、北遠の奥山氏、天龍村の和田遠山氏などがいる、と、いった感じでしょうか?

 『熊谷家伝記のふるさと』を読むと、熊谷家と関係する家が独自性領として描かれており、熊谷家を圧迫する立場として、ほぼ同格だった関氏が勢力を拡大して熊谷家を圧迫するように描いています。しかし、『天龍村史』では、上位権力の対立が三遠南信に影響を及ぼす様を描いています。

 そもそも熊谷氏は新田氏と結びつきが強く、足利氏とは相容れない仲。そのため、「北朝=足利氏」、「南朝=新田氏」とまず整理していただくと、熊谷氏は南朝方。そのため、南朝方の諏訪氏と熊谷氏は結びついています。信濃国(長野県)には、北朝方小笠原氏と南朝方諏訪氏の二大勢力の対立が大きな流れとしてあるようです。南朝方が徐々に不利になる中で、小笠原氏配下の関氏や下条氏によって、徐々に所領を削られていく熊谷氏。結果的に南信州における利権を全て失い、三河の旧富山村などの所領に追い込まれていきます(『天龍村史』803~810頁)。
 ところが、足利幕府による扱い方に不満を持った南朝方の後亀山法皇が吉野へ出奔し「後南朝」を開くと南朝方勢力が盛り返し、熊谷氏も少し復活します。(812~813頁)この頃、後南朝が力を得ていたのは、鎌倉公方が将軍家に対して対立の姿勢を見せていたことも影響しているようです。(814頁)
 しかし、北朝方小笠原政康は嫡男宗康を松尾城に配置し、南朝勢力の強い南信州地域を抑えることに成功し、一旦、現状で南信州は落ち着きを見せるのですが、小笠原氏中興の祖、政康が急死したことで、状況が一変。小笠原氏については第6回で整理していますので、詳細は割愛しますが、熊谷氏近隣にいる松尾小笠原氏と対立する府中小笠原氏が熊谷氏の連携先である諏訪氏と結んだことから、松尾小笠原氏の熊谷氏への圧迫が大きくなり、松尾小笠原氏の家臣関氏から従属を進める書状が熊谷氏に対して送られ、関氏と熊谷氏が戦闘状態に入ります。ところが、この頃、松尾小笠原氏は、ちょうど応仁の乱を迎える前夜となっていた中央の政争に巻き込まれており、関氏は自領拡大を狙って熊谷氏を攻撃しようとしますが、熊谷氏は、宝徳元年(1449年)2月に松尾小笠原氏に直接臣従します。そのため、関氏は同じ主君に仕えることとなった熊谷氏をこれ以上攻撃できなくなる、という状況となります。そして、この松尾小笠原氏配下として関氏と熊谷氏が緊張状態にある中で、熊谷氏は奈根の伊藤氏から妻を迎えるのです。(816~817頁)

 ところが、応仁2年(1468年)7月、応仁の乱で対立する勢力同士に振り回されるというか、気まぐれ的な対応をする将軍足利義政が管領職を斯波義廉から細川勝元に変更したことで、将軍側近だった鈴岡小笠原政秀が信濃の政界に登場します。そして、鈴岡小笠原氏は下条氏に自分の子どもを養子として入れ、松尾小笠原氏を抑えにかかり、「鈴岡小笠原氏」は、「松尾小笠原氏」と「府中小笠原氏」の両氏を抑えて信濃に君臨することに成功します。ここで、「松尾小笠原氏=関氏」VS.「鈴岡小笠原氏=関氏」の対立の構図が産まれます。(818~819頁)

 松尾小笠原氏は、明応2年(1493年)正月に鈴岡小笠原氏を暗殺したことで、信濃国で内乱状態になります。そして、松尾小笠原氏が信濃守護となると、松尾小笠原氏と府中小笠原氏が対立します。
 そして明応9年(1500年)、熊谷氏は甲斐守護の武田氏と結びます。これは、松尾小笠原氏や関氏と対抗する府中小笠原氏や下条氏との関係によるものと『天龍村史』では記載しています。(820頁)しかし、関氏は和田遠山氏や奥山氏と結び、熊谷氏を圧迫。永正元年(1504年)熊谷氏は天竜川東岸の所領を失い、天竜川交通の支配権を失って急速に没落していきます。(821頁)

 関氏と下条氏は互いに力を競い合いますが、大永5年(1525年)2月に関領に攻め込んだ下条氏が敗北。力をつけた関氏は、享禄3年(1530年)熊谷氏を臣従させることに成功。天文7年(1538年)には、「熊谷」の姓を「沼口」に変えさせられるという屈辱を味わいます。しかし、関氏は盛国が当主となった際、強気に出過ぎて地域領主の反発を招き、離反。天文13年(1544年)8月に下条氏に内応した領主たちは、下条氏と共に関氏を滅ぼしてしまいます。結果的に熊谷氏は下条氏の家臣となっても所領は回復できず領主層への復帰はできなかったとされています。(821~822頁)

 と、まぁ、『天龍村史』をなぞっただけですが、応仁の乱の頃の中央政権の有力者が変わることで、地域領主の支配層となる守護も変更され、それに伴い、地域領主の力関係も変わる、ということが理解できました。信濃守護小笠原氏は、まともに中央政権の意向が影響しており、その隙をつく形で在地領主の関氏が力を伸ばす様が見て取れます。関氏も場合によっては守護代クラスにまで成長できたのかもしれません。こうした関氏のような在地領主層として、織田氏や朝倉氏、斎藤氏などが登場してくるのでしょう。

 そして、伊藤氏は熊谷氏と婚姻関係になるほど仲が良い、ということは、南朝勢力の可能性があるようにも感じます。また、熊谷氏が天竜川交通の支配権を握っていたようなので、天竜川水系に属する伊藤氏も熊谷氏と関係が深かったのかもしれません。さらには、熊谷氏が武田氏と結んだことが、伊藤氏が武田氏と結びつくきっかけだったのかもしれません。ただし、あくまで、これら伊藤氏に関する内容は”推定”にすぎませんが。

 さて、信濃国をじっくりと見てきましたが、次は最終的に伊藤氏が臣従することとなる今川氏の動きも考えていかないといけません。また、場合によっては応仁の乱の頃の中央の動きを整理した方が良いのかも。来週の気分次第で、どちらを整理して記載するかを決めようと思います。
 適当な進み方してますが、自分の興の赴くままに書いておりますので…。(つづく)

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