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エッセイ

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古川のエッセイをまとめました。
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2022年3月の記事一覧

祖母の黒い服 #1

祖母の黒い服 #1

 祖母は年中、黒い服を着ていた。

 黒と決めておけば楽だからと、ブラウスもセーターも、スカートもパンツもショールも手袋も靴もカバンも、何もかも黒一色だった。
 例外的に、夏の薄手のブラウスに柄物があったが、それだってモノトーンの小さな水玉模様で、限りなく黒に近かった。
 冬になって駅前の繁華街へ外出するときは、真っ黒な毛皮のコートにふわふわの起毛の帽子を深く被った。それでいて、髪は白が潔し、と一

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祖母の黒い服 #2

祖母の黒い服 #2

小学校に入学する直前の、ある春の日曜日のこと。 私は祖母の買い物のお供でバスに乗って出かけた。祖母は対面式に向き合った長い座席の真ん中に空いていた席に座り、私もその隣にちょこんと座った。バスは、すっかり春らしくなった街の中をしばらく走り、大きな四つ角の信号で停車した。すると祖母は、黒いロングスカートの膝の前に私を立たせてから、私の名をフルネームで言ったかと思うと、「4月から小学1年生に

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祖母の黒い服 #3

祖母の黒い服 #3

 小学生の時のある冬休みの夜のことだ。祖母が古い白黒写真や硝子製のネガを出して見せてくれたことがあった。どこに閉まってあったのかと思うほど、たくさんあった。その内の一枚をそっと手に取ってみた。光沢のない銀塩のモノクロ写真は、斜めに傾けると、表面が金属のように鈍く光った。それから、透明な硝子乾板を窓の明かりに透かして見ると、白黒の反転した、着物を着た人々の物調面が一斉に私に迫ってくるような、奇妙な感

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祖母の黒い服 #4

祖母の黒い服 #4

 祖母には神戸に親戚があり、娘時代はよく船に乗って遊びに行ったという。そんなころ、神戸の駅で偶然見かけた、「白い軍服を着た海軍の将校さん」の姿があまりにも美しくて、思わず同じ電車に乗ってついて行ってしまったことがある、という祖母の昔話に、子供のころの私は心底驚いた。話を聞いたときは恋も知らないほんの子供で、まずはその動機の意味が分からないし、街に電車なんて通らない田舎育ちだから、行先も分からないま

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祖母の黒い服 #5

祖母の黒い服 #5

 祖父は親戚のつてで、遠く離れた熊本の人吉で開業医を始めることになった。お国言葉もずいぶん違う見知らぬ土地で、若い夫婦にとって冒険のような新しい生活が始まったのだ。

 お嬢様育ちの祖母には、最初は慣れないことばかりだったに違いない。それでも、毎朝、熱湯でガーゼを煮沸するなど、夫の診察の準備も怠らず、いずれはきちんと看護師の資格を取る勉強をするつもりでいたのだと、戦後、九州の病院で看護婦になった伯

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祖母の黒い服 #6

祖母の黒い服 #6

 祖母の結婚生活は、たった15年しか続かなかった。

 戦中、病に倒れた祖父は、人吉の自宅で療養中に大量の下血をして、そのまま亡くなった。当時の便所では下血の量が分からず、止血剤の注射を渋って亡くなってしまったらしい。この話になると決まって祖母は、医者のくせに注射ぎらいでどうする、とこぼしていた。
 祖父が亡くなった直後に私の母が生まれた。生まれたばかりの赤子を含む8人の子供たちと戦後直後の混乱期

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