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サンバガエルの婚姻瘤(nupital pad)はエピジェネティクスを超えて

ラマルクの獲得形質の遺伝を実験的に証明しようとしたが、学界から猛烈な攻撃を受け、最後には原因不明の拳銃自殺を遂げたオーストリアのパウル・カンメラー博士が成し遂げた業績のひとつに、サンバガエル(Alytes obstetricians)の婚姻瘤(nupital pad)の獲得形質遺伝がある。サンバガエルは陸生のカエルで、雌は一回にわずか18-38個の卵しか産まないのだが、卵はゼラチン状の帯で連なっており、雌は雄の後足にこれを巻きつけ、雄は結果的に卵を背負う、正に赤子を背負う産婆のような格好になるのである。しかし、非常に乾燥した環境に冷たい水のある状況で飼育を試みると、サンバガエル水中で交尾し、産卵するのだが、この"water egg"は全個数のわずか3-5%しか孵化しなかった。これらのカエルを交配させて、雑種第四代(F4)から、雄の前足に瘤が見られるようになった。交尾の時に水中で雌から滑り落ちないようにする婚姻瘤である。他の水生のカエルでも報告があるが、カンメラー博士自身曰く、質的に異なるもののようだ。(彼は組織切片にして他のカエルと比較している)

では、この陸生と水生の形質がどのように遺伝されるのか?になるが、カンメラー博士は、まず陸生の雄と水生の雌を交配させた。生まれた雑種第一代(F1)は全て水生の個体であり、F1同士を交配させた雑種第二代(F2)は水生:陸生=3:1であった。逆に陸生の雌と水生の雄を交配させると、F1は全て陸生になり、F2は水生:陸生=1:3であった。カンメラー博士は何故このような非メンデル遺伝の結果が出たのか、説明することができなかった。当時はメンデル遺伝は知られていたが、現代と比べて知見は豊富とは言えなかったということもあろう。天才にも限界があったのかもしれなかった。

チリ大学生物学科のアレクサンダー・O・バルガス博士は、エピジェネティクスの知見で、カンメラー博士のサンバガエル実験は墨汁注入が真実だったなどという詐欺ではなく、確かな事実であることを説明できると主張している。彼は、自らの考えをJournal of Experimental Zoologyの2009年312号Bで発表した。まず、前記の結果に関して、parent-of-origin effectが働いているとしている。つまり、父親側の遺伝子が優先して受け継がれていると主張する。確かに、いずれの交配実験も最初の世代の父親の形質がF2で優性となっている。

このメカニズムについては、DNAのメチル化の遺伝が関与しているのかもしれない。雄と雌の生殖系列でCpGのメチル化が起こるのだが、大部分の遺伝子のメチル化は受精後に消されるのが普通で、だからこそ細胞の全能性は保証されるのだが、しかし、刷り込まれた遺伝子(imprinted gene)の中には、メチル化が生殖系列の中で保持されるものがある。例えば、雌の生殖系列にのみメチル化で不活性化(silencing)された場合、子供の対立遺伝子は父親由来のもののみになる。また、例外なく受精直後のメチル化のリセットが起こったとしても、発生過程の性決定時に雄と雌ではメチル化のパターンが異なり、これがサンバガエルの婚姻瘤=水生形態の遺伝の鍵を握る、と彼は考えている。

この考えは、思いつきから生まれたものではない。例えば、内分泌撹乱物質であるVinclozolineを妊娠女性が取り込むと、生まれてくる子供には精子形成の異常や乳癌が生じるが、その次の世代は、男だけがVinclozolineが原因の疾患を形質として受け継ぐという知見がある。女には受け継がれない。また、マウスでは、Agouti viable yellow(Avy)の遺伝はメチル化に影響されるようで、この遺伝子は黒毛のマウスの原因になるのだが、通常は父親からのみ遺伝されるのだが、妊娠中の雌にメチル化を促すような餌(methyl-rich food)を与えると、生まれてくるF1世代の子供では、黒毛の比率が高くなる知見がある。

いずれの知見も、DNAのメチル化をもたらす物質を外から取り込んでいる点が共通しているが、サンバガエルの交配実験でDNAのメチル化があるとしたら、何が原因になるのか?については、卵が水と接触することではないか、と彼は推測している。サンバガエルは元来陸生だから、水との接触は相当刺激になるのかもしれない。マウスの受精卵の透明帯を除去すると、2-4細胞期におけるDNAメチル化の減少がすぐに起こることが知られており、生存率にも影響するらしいのである。サンバガエルの卵が水の接触によって膨らみ、ゼラチン状になることはカンメラー博士も観察済みで、前記の通り孵化したのは僅かであるから、異常なメチル化なるものが生じていたのかもしれない。孵化したサンバガエルも、水生のカエルに似合わず成体の体のサイズが大きかったという。やはりメチル化が影響しているのだろうか。体のサイズの変化は哺乳類の雑種には多く知られていることらしい。

では、実際に獲得形質はどのように遺伝されたのか?メンデルの遺伝の学習風に、彼は説明する。水生の雄をaaとし、陸生の雌をAAと考える。一般的に遺伝子型は大文字が優性、小文字が劣性である。乾燥した環境に冷たい水があるので、交尾は水中、生まれた卵も水中である。F1は全てAaの遺伝子型になる。ただし、説明はここで終わらない。前記の「卵の水との接触」を考慮に入れるのだ。これにより母親由来のAが不活性化されると仮定するのである。不活性化したAをAxとする。本来、受精直後でメチル化は消えるので、F1の後のF2はAA, Aa, aaの遺伝子型が期待できるが、母親由来のAの不活性化を踏まえれば、実際考えられる遺伝子型はAxA, Aa, Axa, aaと考えるべきである。

加えて、F1の水生のサンバガエルの中で、生殖系列でサイレンシングが起こり、更に受精後のメチル化リセットも免れれば、F2は陸生と水生の割合を1:1よりもn>1:1のような具合で、陸生または水生へのシフトが起こり得ると考えられる。例えば、前記の交配でF1の精子がAxaになれば、Axa, aa, AxA, Axaが水生になり、Aa, AAxが陸生になり、カンメラー博士が実際に観察したF2の3:1に近くなる。

陸生の雄と水生の雌の交配実験についても、同じ考え方で説明できる。陸生の雄AAと水生の雌aaは陸上で卵を産むので、水の接触による母親由来Aの不活性化がない。従って、F1は全てAaであり、F1は陸上で交配し、F2は陸生(AA, Aa):水生(aa)=3:1となる。

カンメラー博士は生前、サンバガエルの交配実験で対照実験を行っている。この実験結果は一見難解である。陸生の雄と陸生の雌を水中で交配させると、F1は全て陸生になったのである。水生ではなかったのである。これについても、エピジェネティクスを用いて説明できる。遺伝子型で例えれば、陸生の雄AAと水生の雌AAを交配させたわけだが、父親由来のAは不活性化されておらず、母親由来のAのみが不活性化されるのであり、F1の遺伝子型は全てAAxとなるのである。カンメラー博士はその後のF2を見ていないらしいが、F2でこの正しさも確認できるのだろう。

最後に、F1で全てAxaの水生サンバガエルが生まれるメカニズムについて、彼は推測している。この場合は、卵のみならず精子にも気を配る必要がある。陸生の雄Aaと陸生の雌AAを水中で交配させると、aを保有する精子は受精できるが、Aを保有する精子は何らかの理由で卵に到達できないのか、受精が成立しない。従って、精子aと卵A(ただし不活性化)の受精で生まれるF1は全てAxaの水生サンバガエルになる、というものだ。親の遺伝子型がホモ接合型かヘテロ接合型かによって、子孫の遺伝子型の比率が異なってくることにカンメラー博士も散々苦悩したであろうが、非メンデル遺伝と環境からの卵への刺激=DNAメチル化を想定することで、もっともらしい仮説が生まれるのは実に面白いことである。

ただし、表題にもある通り、婚姻瘤はエピジェネティクスを弄んでいるように思える。というのも、カンメラー博士は交配実験だけをしているのではない。、カンメラー博士はトラフサンショウウオで、卵巣移植実験を展開している。斑模様の表皮を持つ個体の卵巣を縞模様の表皮を持つ個体の卵巣跡に移植する。すると、次世代は斑模様になる。ここまでは生殖系列に情報に依存した形質ということで目新しさはない。しかし、その逆の実験を行ったところ、次世代として、斑みたいな途切れた縞模様の個体と縞模様の個体の両方が生まれた、というのだ。つまり、卵巣を取り換えているにもかかわらず、体細胞系列である縞模様の情報が他形質由来の生殖系列に影響を及ぼしていることが示唆されるのだ。実のところ、今回のサンバガエルのメカニズムを巡る仮説でも、巧みな展開がなされたことは確かだが、最終的には生殖系列に帰るのである。獲得形質の体細胞系列と生殖細胞系列の狭間については明確な理論の展開はない。それに、婚姻瘤にしても、獲得形質の遺伝ではなく先祖返りという見方も、実験結果からは言えなくもない。千島学説では血球から生殖細胞への分化転換があるものと考えている。山中カクテルによるiPS細胞の作製はノーベル医学生理学賞を見事撃破したのだから、そろそろ、獲得形質の遺伝に生殖細胞中心の思想の枠組みを撤去しなければならないだろう。

サンバガエルが難しいのなら、水中での交尾を考えなくてもいい爬虫類で試みるのはどうだろうか。カンメラー博士が生前実験対象にした、トカゲの一種Lacerta serpaはいかがであろうか。通常は華氏68-86度で生息し、背中は緑色で三本の縦縞または斑点があり、卵はカルシウム不足のため軟らかく、玉ねぎのような外見である。ところが、これを華氏98-104度で18~24ヶ月育てると、生まれた子供は黒色の個体に育つ。しかも、卵は殻が厚く、生まれた世代も殻の暑い卵を産む。加えて、卵を低温に置けば子供は緑色だが、成長すると黒色になるのである。ただし、華氏68-86度では緑色のままである。同属異種のLacerta viviparaは野生では卵ではなく幼生を産む。最初の卵は殻がなく、真黒な胚が見えるだけだが、温度を上げて育てると、不透明で玉ねぎのような卵(Lacerta serpaのものに似ている)を産む。このあたりを交配実験や免疫組織染色や遺伝子発現のパターン解析を組み合わせて、獲得形質の遺伝メカニズムの集大成ができなくはないだろうか。体色・卵の種類・卵生と胎生の受け継ぎを巡り、何が鍵なのかは、現代の技術をもってすれば、不可能であるはずがない。

補足:前記文献以外の参考資料は、カンメラー博士の著書"The inheritance of Acquired Characteristics"を使用した。


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