旅をするように、エッセイを書きたい。
気づけば4月がやってきて、今は新学期へ向けて、心の準備で忙しい。
春になって、「エッセイを書きたい」という意欲が高まってきた。小説を一本書き終えて、ちょうど冬が終わった。桜が咲き始めて、自然と気持ちが、少しずつ切り替わっていく。
すっかり暖かくなってきたと思えば、まだ残っていた寒さがやってきた。真冬よりも春の寒さの方が風邪をひきそうだ。冬に来ていた厚手の服を引っ張り出して、暖房を少しだけかけた。
3月はとにかく、「小説を一本完成させる」という目標へ向かって、闇雲に山を登っていた。
小説を1本書いたことによって、私にとって得たものがあった。書いてよかったと、心から思っている。それは「小説が完成したこと」そのものよりも、ずっと豊かで、目に見えないけれど、大きな贈り物のように思えた。
私が小説を書きたいと思ったのは、昔から小説や漫画や映画が好きで、物語を作る人に憧れていたからだった。
しかし、実際小説を書いてみるとなると、物語を作るということは、当然ながら簡単なことではなかった。
創作とは、登山に似ている。歩いても歩いても、頂上は遠くにある、そんな高い山を登り続けていると、一向に報われなくて、ずっと苦しい。そういう感覚は苦しくて、辛い。
私はプロットから逃げるように、深海の物語を書き始めた。それが「海の底の月」だった。完成できるならなんでもよかったので、思いつくままに書きつづけた。
全体的にぼんやりしていて、自分でもよくわからない物語になってしまった。
それでも、小説を一つ書き終えた時、どこか清々しい気持ちになっていた。一文ずつ、一文字ずつ、地道に書くことで、小説は完成するものなんだなという当たり前のことが、なぜだかすごく嬉しかった。
しかし、一体私は何のために小説を書きたかったのか。自分の目的を改めて考えて直すことにした。私は本当に小説を書きたかったのだろうか。
私は物語を通じて自分の考えを表現したくて、小説を書き始めた。自分の考えたことを文章に書くことが好きだった。しかし、それは物語を作りたいというよりも、自分の考えを表現したかったのだ。
それなら、物語を通じなくとも、そのまま考えたことを文章に書いて、エッセイにする方が、合っているのではないだろうか。毎日の出来事を物語にして、日常と考えたことを書いていこう。
そう気づいた時、私は自分の義務感や思い込みから、一気に解放されたような気がした。
創作が苦しく感じるのは、決して自分がいけないからではない。辛いと感じる自分を責める必要だってない。ただその道を歩くことが苦しいだけで、苦しいならば、別の楽しい道を歩くことだってできる。
「頂上に辿り着くこと」だけが全てじゃない。むしろ旅の醍醐味は、旅の途中の楽しい道や寄り道を、歩くことだ。
少し視点を変えれば、そこには美しい景色が見える。どこかへ向かう途中の道から見える眺めを、ただ楽しむ。それだけで、幸せな気持ちで満たされる。
私は、そんな「旅」をするような文章を書いていきたい。頂上に辿り着くゴールを目指す登山よりも、途中の景色を眺めたり、楽しんだりしながら一歩ずつ、無理なく進んでいく、そんな旅をしていこうと思えた。
久々に小説のための文章ではなく、ただ自分の思い浮かんだことを、つらつらと書いてみた。すると、小説を書く時のように苦しまずとも、するすると文章ができている。
小説を書くよりも、エッセイを書く方が、負担が少なく、達成感を味わいやすく、何より楽しいと思えるようになった。
だから、小説を1本書いたことによって、私にとって得たものがあったし、書いてよかったと心から思っている。それは、小説が完成したことよりも、ずっと大きな贈り物のような気がする。
エッセイでは、自分の考えをまっすぐに書ける。そのまま言葉にするだけでいい。自分の思考の海に潜りながら、キーボードをタイピングして、文章を書くことに没頭している時間が、好きだし、楽しいと思った。
今まで、「エッセイ」というものをよくわからないまま、「エッセイらしきもの」を見よう見まねで書いていただけだった。しかし、小説を書いたり、いろんなエッセイを読んだりすることで、私は改めて「エッセイ」と向き合うことができたエッセイがどういうものであるのかを、わかったような気がした。
今まで「エッセイ」というものをしっかり意識したことがなかった。日記のようなものをなんとなく書いているだけだった。しかし、そのとき初めて、エッセイを書くことができたような気がした。
「これがエッセイっていうのか___!」そんな感覚が、ふつふつと湧いてきた。
小説を書いていた時間は、きっと私にとって、必要な時間だったのだろう。
私は「エッセイ」という楽しい道を見つけることができた。回り道をしながら、私はいるべき場所へと辿り着いたような気がした。
一つの長旅を終えて、私は自分の家へ帰ってきた時のような気持ちになった。そして、私はまた、出かけようとしていた。4月は、思考という名の小さな旅を、ゆるやかに歩いていきたい。