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「大学生は時間がある」が、


「好きなことをして良いよ」と言われ、何もできない。
「休みの日何してたの?」と聞かれ、ゴロゴロしてたと答える。
「大学で力を入れたことは?」の問いに窮する。

そんな大学生が少なくない。

世間は「大学生は時間があるからいいよな~」と言う。
もちろんそれは間違っていない。

けれど、"時間がある"と"好きなことができる"はまた違う。
なぜなら、時間があっても目的が無ければ楽な方に流されてしまう。

スマホ一台あれば、ゲーム、YouTubeで一日なんてすぐ消える。
家にいればお金も使わないし、人に気を遣わなくてもいい。楽だ。

けれど、"楽"と"楽しい"もまた違う。
私は、ゴロゴロしたあとに後悔が襲ってくる。

何もしていない自分と
SNSに流れてくる写真と
全力で頑張る友達の話とを比べてしまう。


なぜこうも目的もなく幼児のように
惰眠を貪り、娯楽に走るのだろうか。

それは、何をしたらいいか分かっていないからだ。
だから、時間を無駄に空費させてしまう。
そしてそれをストレスだと感じてしまう。

エーリッヒ・フロムはいう。

自身のものではない目的のために、自身のやり方ではなく、
自分のエネルギーを使うことを強いられることへ反動である
(引用:『愛するということ』)

つまり、自分が本当にやりたいことを見つめろ。
自分らしくあれ。自分を愛せ。と言いたいのだ。


「何をしたいか」を定期的に考え
「今日はどういう一日だったか」を毎日振り返る。
それだけで自分のことを知り、愛することができるのではないか。


では、大学生は何をすればいいのか。
立教新座中学・高校の渡辺憲司校長はいう。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。(引用:『時に海を見よ』)


そして具体例として海を見よと言う。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。(引用:『時に海を見よ』)


時間があるからといって
だらだら過ごすのでは無く

一人だからといって
スマホばかりいじるのでは無く

自分と向き合い
孤独と向き合い
夢と向き合い

自己と対話し
時間を管理し
自由になる。


それはきっと大学生の今しかできない。

そしてそれは一生の宝物になる。


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