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幸せになるためにやれば良いことはたった1つ

あー。だめだ、死ぬ手前だ。ぐへぇ。

と、バチバチに疲れた時は、
ヤル気があっても急激な眠気に襲われ、全ての身体の機能が、パソコンのように

アプデするので再起動してください

状態になる。

てなわけで、配信休んで寝て、今再起動した。

こういう時って、寝る前に何をしてどう寝たか、あんまり覚えてない。ファミリーに休みます、と書いたこともあんまり覚えてない。

ふあ!?

といつも、50%ほど充電出来たのか、起きて、時計をみると1時過ぎ。4時間近く寝れたのか。

最近、多分寝不足と、目を使う時間が増えてるからかも知れないけど、バスン!って電池が切れて寝る、というのは比較的多い。
なので、寝溜めは出来ないとは世間ではよく言うが、寝溜め派です。
寝溜めが出来るできないもゆーて賛否両論でもあるし、人によると思ってる。

多分二十歳くらいの頃に、2日ほどぶっ通しでバリバリ動いて、死ぬ前には死なないために必ず寝るから、その時寝れば良い、と思って行動してた名残が未だに残ってるんだろう。

そう考えると結構、一生懸命その時を生きてる気がする。

昨日から寝る前までに考えてたことが1つあって、幸せの定義的なものを考えていた。
死ぬ前に幸せだったー!って思えたらいいだろうとは思っているが、
ふと幸せってなんだろう?と考えることは誰しもがあることだろうと思う。そういう時ありません?

タイトルの結論としても、たった1つ。

幸せと思いこむこと、それを信じて疑わないこと

だ。

人の思い込みの力は凄い。
だからこそ、疑いに向きを決めた時の疑いを信じる思い込みの力も凄い。

幸せなのか?を信じて思い込んでしまうと、幸せよりも不幸せを探しにいって、幸せより不幸せの検索を自分の中でかける。結果、不幸せの数が莫大に多くなり、私は幸せではないという答えを決めつけて、思い込んでしまう。

今はSNSで、ブラッシュアップされ、ハイライトされた幸せがたくさん量産されて模倣もされているから嫌でも目に止まり、自分と比較してしまう。

他人のハイライトに、幸せを疑ってる自分が勝てるわけもなく、隣の芝生がデカくて青すぎて、小さい庭の私は打ちのめされる。
隣の芝生にはバラが綺麗に手入れされている。

あんな風にしたいな。とか思ってしまう。

よく見ると、私の庭にはたんぽぽが咲いていても、だ。

バラがないことを嘆いてしまう。

そこで私は幸せだ、と思いこめれば、たんぽぽ咲いてるじゃん!可愛い、幸せだなー。にシフトできる。

ということがなかなか簡単ではなかったりする。
他人と比べると、自分にはそれが足りないと思い込むからだ。

でもその理論で考えると極論、お金持ちと自分を比べるとしたなら、足りないんだから、極論の極論銀行強盗でもしなきゃ足りない。
だけど銀行強盗したって、世界屈指のお金持ちと比べると足りない。
そうなってくると極論の極論の極論、世界征服しなきゃ足りない。

つまり何が言いたいかというと、不幸せ=人の持っている何かが自分に足りない、にピックアップしていると、その時の足りてないものを手に入れても結局足りない、に陥る。

足るを知る

という言葉があるが、まさにその通りに思えば良いのだと常に心に置くようにしている。

足るを知る→
足るを知るは第一の富なり(たるをしるはだいいちのとみなり)」とは、「満足することを知っているのは一番の豊かさである」という意味です。 たくさんの物を持っていたり金銭的に恵まれていたりしても、その状態に満足をしていなければ心豊かであるとは言えないということ。 決してお金持ちが幸せであるとは限らないという意味の言葉です。

お金以外にも言えることだと思う。
これには続きがあるようですが、

足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。

とのこと。老師の言葉なのですが、これの意味としては諸説あるし、ホントの意味なんて亡くなった老師しか分からんので(老師が亡くなってから、グリグリに変えられてるかも知れないし)、ググって自分翻訳しても良いかと思うし、今は深く触れません。

とにかく、足るを知り、幸せだと思いこむこと。
そのために、自分の小さい幸せに検索をかけること、が大事なのだな、と思います。

なので、
他人の幸せと比較させて「あなたの劣等感、お埋めします!ビジネス」が溢れかえっているSNSは必要以上にあまり見ないし、
そういった言葉に作用されて、私はそうしなくちゃいけない、的なものもかなり捨てれた気がします。

かと言って、他人のことは度外視で、嫌われる勇気みたいなもんマックスで人を傷つけててもいい、も少し違う。
嫌われる勇気、は流行って、理解がネジ曲がってる可能性があるって説もありますね。
嫌われにいっちゃってもダメよ、社会で生きるならw

話が脱線してきた気がします。
まぁ、それがエッセイってもんよ。

エッセイ→
1.自由な形式で、気軽に自分の意見などを述べた散文。随筆。随想。

2.特殊の主題に関する試論。小論。

幸せになるために、というか、
僕が僕であるために、幸せだと思うことにしてるってことです。

そう考えたら、僕が僕であるために、の尾崎豊は戦ってるよなぁ。
勝ち続けなきゃならない。
ならない、って言葉になってしまったのは何か背負わなきゃいけないと思ってしまったのかな。

正しいものは何なのか

人それぞれ正しいことは、違う。
それこそ山崎まさよしのセロリがアンサーソングになるんじゃないか、って思う。

正しさの中にも好き嫌いがあって、
僕はセロリが食べれる。あの人は食べれない。
それだけで論争、宗教なら戦争になるわけで、
正しさなんて誰かが線を引くために作った定義なのかも知れない。

脳科学上では人に何かをしてあげると人間は幸福になる、という結果が出てるという。
自分のためより人のために頑張ったほうがやりがいがある。
でも人はついつい報いを求めてしまう。
そういうときに、足るを知る。

言葉は、知ってる方が比較的幸せになれる、幸せになるための人間の叡智なのかなー、って思うから足るを知るをさらに知るために、
言葉を知っていきたい、探していきたいなぁって思う。

そんでもって、その知った言葉や、その意味や、足るを知れたことを歌に乗せれたら、幸せなんだろうなぁ。だから歌が好きで歌ってるのかも知れない。他人の歌だったとしても、自分の解釈と音波で歌うから。
伝わった時の幸せがあるから。

だから僕は比較的幸せなんだろう、
って解に結びつけれる。

だから僕は幸せだと思う。

今まで出会えた人、知ってくれた人、今も応援してくれている人、助けてくれる人、歌を聞いてくれる人、歌を伝えられる人、がいて幸せ。

まとめていくと思い込みではなくそう思える事実が出てくる。

まずは思い込んで、事実を探しに行くと、思い込まずとも見つかるんだろう。さらにやってみよう。

多分みんなにもあるはずだから、探してみてほしいな。間違い探しより、今ある隠れて見えてない幸せ探しを。

過去や未来にフォーカス絞っても不安や悲しみしか出てこないなら、今を見て、今を一生懸命生きて、見ると案外幸せなのかも知れない。

僕は歌を絡めたけど、何かしらの何かで、何も絡めなくても、見えるものがたくさんあるのかも。

ああ、そうか、幸せなんじゃん。

とか書いてましたが眠いのでもう一眠りします。

それもまた幸せ。

すてきやん。

ふまを

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