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匕首の刃を研ぎ澄ませ──2019年現代美術回顧

批評の独占──。「あいちトリエンナーレ2019」をめぐる一連の事件は、現代美術の現場に大きな混乱と危機をもたらしたが、もっとも深刻なのは公権力による批評の専有化である。公権力は「表現の不自由展・その後」を鑑賞する機会をわたしたちから奪ったばかりか、これに展示されていた一部の作品の意味を一方的に決めつけ、本展を封鎖に追い込むことで、その否定的な解釈への反論可能性をも封印した。文化庁による補助金不交付の措置があからさまな「狙い撃ち」だった事実を踏まえれば、今回の問題は「表現の自由」を犯した事実上の「検閲」にとどまらず、わたしたちの制作や鑑賞にたいする「弾圧」というべきである。

本来、現代美術は民主的な公共性を前提としていた。作品は多義的な意味を内包しており、だからこそ誰しもが平等に批評しうる解釈の多様性が担保されているはずだった。このことは改めて言語化するまでもない自明の理である。しかし今回の事件によって、こうした民主的な公共性は荒々しく蹂躙されてしまった。現政府にとって好ましからぬ作品は公的支援の対象になりえないことが白日の下に晒された結果、今後は現代美術の現場で今以上に自主規制が作動することは想像に難くない。さらに、公権力による批評の寡占は原理的にはどんな作品にも適用できるため、「天皇」や「従軍慰安婦」以外のキーワードにもその対象が拡大的に敷衍される恐れが高い。日本国憲法で保障された「表現の自由」がこれほど露骨に蔑ろにされる事態はかつてなかったのではないか。

とはいえ公権力による批評の独占は、必ずしも表現規制として現象するだけではない。それは逆に表現の価値を独断的に認定することもある。東京都は都内の防潮扉に残された落書きを現場から強引に回収したが、それを「バンクシー作品らしきネズミの絵」として都庁で大々的に展示した(この問題についてはこちらを参照)。そもそも落書きとグラフィティーの境界は酷薄ではあるが、その芸術性を公権力が事実上公認した事態は、「あいちトリエンナーレ2019」における弾圧事件と明らかに同根である。批評を独占しているからこそ、表現を一方的に封殺することもできれば、逆に賞揚することもできるからだ。つまり公権力は今、明らかに作品の内容に踏み込んでいる。したがって「あいちトリエンナーレ2019」における弾圧事件は、偶発的に発生した特異な検閲事件としてではなく、昨今の公権力による戦略的な統治の問題、すなわち権力論としてとらえなければならない。

だとすれば問題の解決は、公権力の入れ替え以外にありえない。批評の独占という権力の様態の背景に歴史修正主義という政治的イデオロギーや改憲という政治的欲望があることは疑いないとしても、それらを公権力から分離しない限り、今回のように現代美術が標的にされる問題が続発しかねないことは火を見るより明らかだからだ。バンクシー騒動の際には公権力との対話を求める声が、文化庁による補助金不交付の際には宮田亮平文化庁長官に翻意や抵抗を期待する声が、それぞれ現代美術の現場から上がったが、いずれも見当違いも甚だしい。批評の独占とは民主的な公共性の全否定であるから、民主的な対話など端から望めるわけがない。民主主義という守るべき理念が目前で切り崩されているのに、その理念を共有しない敵にその価値を唱えたところで馬耳東風であろう。

現代美術が前提としていた民主的な公共性を再建するには、端的にいえば、現在の安倍政権を公権力の座から放逐するしかない。そのためには、選挙であれデモであれ何であれ、あらゆる政治的手段を講じなければならない。当の安倍政権が民主主義をなりふり構わず放擲しつつある現状では、心情的にはテロリズムの可能性を検討したくもなる。むろん現代美術にその実行力はない。だが、いわば「芸術的テロリズム」は可能であるはずだ。美学校の元校長、今泉省彦によれば、表現とは本来、「相手の胸に突き刺さる物理的な力」、すなわち「匕首の刃」にほかならないからだ(『美術工作者の軌跡』海鳥社)。

インポッシブル・アーキテクチャー‥もうひとつの建築史」(埼玉県立近代美術館ほか)は、アンビルトという観点から、建築家や美術家による類稀な想像力を見せた。ウラジーミル・タトリンによる「第三インターナショナル記念塔」や滝沢真弓による「山の家」などは、建築の固定観念を裏切る斬新なフォルムではあるが、ひじょうに美しい。アーキグラムによる「ウォーキング・シティ」は、より空想的である。都市そのものに脚がつけられ、自由に移動できるので、気候変動に対応できるばかりか、土地の私有すら克服できる点で、社会批評性も高い。ひときわ鮮烈だったのが、加納久朗。千葉県知事を務めた銀行家で、千葉を核で爆破した後、その土砂で東京湾を埋め立て、新都心(新東京!) を建造する構想を1950年代に練り上げていたという。その破壊的な想像力は、わたしたちの常識や価値観を一気に粉砕する点で、芸術的テロリズムに値すると言えよう。

また、「櫛野展正のアウトサイド・ジャパン」(ギャラリーアーモ)は、日本で唯一のアウトサイダー・キュレイター、櫛野が発見した無名の表現者たち70名あまりによる作品2000点以上を一挙に紹介した。いずれも狭義の「美術」には該当しないが、だからといって障害者による美術を意味することの多い「アウトサイダー・アート」のようにただ純朴というわけでもない、並外れた執着心で何かを追究している人ばかり。広島の清掃員、ガタロは仕事で用いる雑巾のドローイングを毎日描いているが、一年分のそれらを一挙に展示した。固く絞った雑巾の物質性は、彼自身の静かな怒りや情念を押し込めた塊のようで、つまりは自画像なのだろう。ただその一方で、壁一面に出現した、雑巾まみれの光景は、肉体労働者の恩恵に与りながら、彼らの存在を不可視の領域に閉じ込めているわたしたち都市生活者への痛烈な一撃ではなかったか。

櫛野の活動は、つねに既存の「美術」にたいする批評性を持っている。「美術」が周縁に追いやり、見ようとしてこなかった表現を「美術」の現場で開陳すること。従来、こうした批評活動はあくまでも例外にすぎなかった。だが、アメリカにおける酷すぎて素晴らしい絵画を集めた「バッドアート美術館展」(ギャラリーアーモ)や、見世物以来のつくりものを系統化した「木下直之全集」(ギャラリーA4)に見られるように、それは今や明確な空間的・時間的座標軸として現代美術の現場に顕在化しつつある。今後、現代美術が表現規制と自主規制に堕するならば、わたしたち鑑賞者の眼と熱意はそこから離れ、やがて「美術」は誰からも見向きもされなくなるだろう。

事実、2019年、芸術的テロリズムのイメージをもっとも凝縮して表現していたのは、現代美術ではなく映画だった。豊田利晃が監督した「狼煙が呼ぶ」である。わずか16分の短編映画が描き出しているのは、一揆なのか謀反なのか、反乱の気配。暴力行為そのものを描いているわけではないが、それに向かって徐々に高まるテロルのボルテージが激しい音楽とともに明確に視覚化されている。武士や百姓の男たちの顔には、魂の高揚感や死の怖れ、揺るぎない決意などが表れており、それらの細かい機微がテロルの誘惑に惑わされる今日のわたしたちの心情と大きく共振するのである。

映画「ジョーカー」を持ち出すまでもなく、テロルのマグマが沸騰していることはまちがいない。だが、芸術的テロリズムのイメージは、むしろ息苦しく暗い日々を何とか持ちこたえる胆力をわたしたちに与える。その意味で、それは社会的意義、いや高い公益性を持っているのである。

初出:「図書新聞」No.3430、2020年01月11日

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