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純然たる表現という原理──2020年現代美術回顧

2019年の日本現代美術は検閲によって大きく揺さぶられたが、2020年は新型コロナウィルスに襲われた。緊急事態宣言の発令下において美術館は軒並み休館。開催が予定されていた芸術祭の多くも延期を余儀なくされた。検閲はつねに自主規制を強いることで実質的な効果を発揮するが、コロナはより直接的に美術の現場に大きな制限を加えた。

むろん、美術の現場を構成する美術家や鑑賞者が少なからず損害を被ったことは言うまでもない。だが、より深刻なのは、その美術の現場を包括する社会そのものが大きな打撃を受けているという厳然たる事実である。減少傾向にあった全国の自殺者数は、緊急事態宣言が解除された7月以後、増加傾向に転じた。生活保護申請件数も前年と比べて明らかに増加しているという。つまり、コロナ禍にある現代社会は、わたしたちをますます生きにくくさせている。

こうしたなか、当然ながら現代美術にたいする風当たりは強い。生存が困難な時代にあって、それは不要不急の最たるものであるとみなされがちだし、安全圏を確保した富裕層や知的エリートによる道楽の極みであると批判されても致し方あるまい。だが現代美術が同時代の美術表現であるならば、どれほど過酷な社会であったとしても、いや、社会が貧しければ貧しいほど、それは同時代的なリアリティーを色濃く表現するにちがいない。

たとえば渡辺篤は、ひきこもりの当事者や経験者たちと共同制作した作品を発表した(「修復のモニュメント」、BankART SILK)。自らもひきこもりの経験者である渡辺は、ひきこもりの原因や経緯について彼らと対話を重ねながら、ともにコンクリートで記念碑を制作した。それぞれの形状は異なるが、ハンマーで破壊した後、金継ぎで修復した点は共通している。大脳を串刺しにした立体作品などを見ると、当事者の苦しみに満ちた声がこだまするかのようで、いたたまれない。金継ぎによるモニュメントには精神的・肉体的な傷を癒やすという意味が重ねられているのだろう。その一方で、床に敷き詰めたコンクリートの板を踏ませながら鑑賞させる作品もあったから、鑑賞者に自らの無自覚な加害性を自覚させる意味合いも強調されていた。

渡辺がこの共同制作の主体を「I’m here project」と名付けたのは、おそらく見えにくい彼らの実在を社会に広く訴えるためだろう。むろん、彼らの個人的な動機を完全に理解することは難しい。だが、その状態を想像することは十分に可能である。コロナは少なくとも外形的にはわたしたちをひきこもりの状態に追い込んだからだ。姿を見ることはできないし、肉声が聴こえるわけでもない。だが、モニュメントをとおして彼らの実在はたしかに感じ取れる。文字どおり、脳裏に深く刻まれるのだ。


共同制作といえば、タノタイガは沖縄の性風俗産業に従事する女性たちとのコラボレーションの成果を発表した(「15min.ポートレート 2008-2020」、ギャラリーターンアラウンド)。規定の料金を支払い、わずか15分の時間を買ったタノは、それぞれの仕事部屋で彼女たちの衣装を着用し、ベッドの上でポーズを取る。その姿を彼女たちがタノのカメラで撮影するのである。したがって展示されているのは、いずれも女装したタノのポートレート。なかには入念にメイクが施されたものもある。来場者は暗い展示室に展示されたそれらとタノによる短いテキストを、ペンライトを照らしながら鑑賞する。まるで買春する男たちの身ぶりをシミュレートさせられているかのようだ。

タノタイガが行ったのは、現代美術の主要な方法論である転倒である。持続化給付金の対象から除外されたように、セックスワーカーは日本社会においてたしかに実在しているにもかかわらず露骨に差別されているが、ジェンダーアートの基本的な認識の枠組みによれば、彼女たちは究極の「見られる客体」である。タノは彼女たちにカメラを手渡し、自らが被写体となることで、彼女たちを「見る主体」にひっくり返した。むろん、だからといって彼女たちを過酷な労働から解放することにはまったくならない。しかし、不可視の差別を温存する社会にあって、転覆という象徴的な作用を生産し、社会の中に流通させたことの意味は決して小さくないはずだ。事実、わたしたちは女装した中年男性の写真を眼で追いながら、頭の中では現前していない彼女たちの実在を想像していたのである。


タノタイガの転覆的実践には明らかにユーモアを見出すことができるが、それを前面に打ち出しながら過酷な社会的現実と対峙しているのが松田修である(「こんなはずじゃない」、無人島プロダクション)。首吊り自殺やホームレス、貧困、暴力など取り扱う主題はひどく現実的で生々しい。だが、いずれの作品にも通底しているのは、そうした生きにくい社会はもちろん、その根本的な解決を目指す言説にいたるまで、すべてを虚無的に笑い飛ばすふざけたユーモアである。天井付近から突き出た竿の先に首輪がある。だがモーターが竿を不規則に駆動させるため、首輪は前後左右に激しく揺れ動く。脚立の上に立ち上がって首を吊ろうとしても、吊れないというわけだ。

しかし松田は虚無にただ居直っているわけではない。刀掛台の上に仰々しく置かれているのは、ホームレスが拾い集めた空き缶を解体して再構成した刀剣。でっぷりしたフォルムはゲームのアイテムのようでかわいらしい。だが松田は「ギリで殺せる武器を作った」とささやく。つまり、眼には見えないが、おそらく空き缶にはおびただしい数の新型コロナウィルスが付着しているから、玩具のような刀剣であっても、十分な殺傷能力があるにちがいない。空き缶がじっさいにコロナに汚染されているかどうかは問題ではない。社会の底辺から突き上げられる反撃の可能性──すなわち、「芸術的テロリズム」──がわたしたちの心を鮮やかに奪うのである。

渡辺篤とタノタイガ、松田修が共有しているのは、彼らの作品がわたしたちの想像力を見えない他者に向けさせるという点である。作品の中に直接的に表象されているわけではない。だが、その不在が逆説的に実在のありかを浮き彫りにする。コロナが人間社会の基本的な条件である他者との対面のコミュニケーションや身体の直接的な接触の機会を奪っているとすれば、彼らが作品の中で表現している不在の他者への想像力という問題は、今や誰にとっても該当するという点で、今後ますますリアリティーを高めるにちがいない。

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さて、ここで2つの具体例を特筆したい。というのも、不在の他者への想像力という論点は、必ずしも2020年に固有の現象ではないが、その2つの具体例に沿って再検討することで、現代美術の未来をある程度予見することができると考えられるからだ。その2つとは、「ダークアンデパンダン」と遠藤一郎による《ほふく前進お百度参り》である。

「ダークアンデパンダン」とは、アーティストの卯城竜太、松田修、キュンチョメ、涌井智仁を中心に組織されたアンデパンダン展。不謹慎で常識はずれ、違法行為とされる表現活動をネット上で公募して一挙に発表するとともに、都内某所を会場に来場者をあらかじめ限定した展覧会を催した。展覧会を鑑賞する前にその内容を一切他言しないという誓約を結ばされたため、ここでその詳細を明らかにすることはできない。だが少なくとも言えるのは、まさしくダークウェブがそうであるように、眼に見えない深層の公共圏を構築しようとしたところに大きな特徴があるという点である。

むろん、こうした取り組みの背景に、昨年の「表現の不自由」展をめぐる検閲事件があることは想像に難くない。公共性を私物化してやまない政権が特定の表現を狙い撃ちにすることで公共性の内実を空洞化するのであれば、アーティストが公共性から離反してアンダーグラウンドに潜航するのは当然である。したがって「ダークアンデパンダン」とは、一部の特権層に向けたアングラの催しに見えるかもしれないが、じつのところ既存の公共性からの離脱宣言なのだ。言い換えれば、見えない領域に自らを囲い込むことで不在の他者となり、わたしたちの想像力を再起動させようとしているのである。わたしたち自身が腐敗した公共性をまことの意味で再建しない限り、アーティストが地下に潜る傾向は今後も止まらないだろう。

もうひとつ、「ダークアンデパンダン」が提示したのは表現の原理論である。本展で一堂に会した表現の大半は、「作品」という名称によって芸術性を認定するのを躊躇するほど、あまりにも反社会的であり個人的だった。そもそも他者に見せることを想定していない表現だったと言ってもいい。アーティストによっては、そのような表現を「作品」として公開することを最後までためらう者もいた。だが翻って本質的に考え直してみれば、アーティストの表現にはそうした超自我の次元があらかじめ内蔵されているのではなかったか。かつて吉本隆明が「指示表出」としての言語より「自己表出」としてのそれを重視したように、そもそも現代美術は純然たる自己表現にもとづいているはずだった。コミュニケーションにもとづく共同体の再建や観光資源に資する現代美術が称揚される昨今、そうした自我を裏切りかねないほど純粋な自己表現は見えにくい領域に周縁化されがちである。けれども、検閲という名の弾圧や新型コロナウィルスの蔓延が現代美術の活動を停滞させたとき、抑圧されていた表現の原理的な様態があらわになったと考えることができるのではないか。

「ダークアンデパンダン」とは、それを見ることができない者たちにとっての不在の他者となることで、表現の原理論を導き出す、きわめて戦略的なプロジェクトだった。アーティストはなぜ表現するのか。その表現は他者や社会に向けられるものなのか。それが反社会的な表現であったとしても、そこに何かしらの芸術性を見出すことができるとすれば、それはいったいどんな論理に由来しているのか。こうした根源的な問いは、たとえコロナが沈静化したとしても、わたしたちの耳にいつまでも響き渡るだろう。


「ダークアンデパンダン」が地下に潜ったとすれば、地上を這いつくばっていたのが遠藤一郎である。《ほふく前進お百度参り》は、遠藤が埼玉県大宮市の氷川神社の参道をほふく前進で百回お参りした行為芸術。本殿から遠く離れた一の鳥居から本殿近くの三の鳥居までは約2キロ。つまり遠藤は200キロ近くをほふく前進で歩んだことになる。しかもウィルスが着地している路上を、である。文字どおり前人未到の偉業だが、このアクションが優れていたのは、それが前述した表現の原理論をまさしく体現していたからにほかならない。

もともとこの《ほふく前進お百度参り》は2020年春に開催が予定されていた「さいたま国際芸術祭2020」で実行されるはずだった。ところが新型コロナウィルスの感染拡大によって芸術祭の開催が同年の秋に延期。しかし遠藤は緊急事態宣言が発令されたなか、たったひとりでこのアクションを開始した。後に記録動画の撮影のためアシスタントがつくようになったが、ほふく前進でお参りするという行為のはじまりは、まごうことなき自己表出だったのである。他者や共同体、社会との交通という指示表出の一面は一切なかった。むろん、結果として地元住民との交流が生まれなかったわけではない。応援する声も受けたし、罵倒する声も浴びた。けれども、そうした交流ですら、芸術祭というフレームに依存することなく、自分の身体だけで実行した孤独なアクションの産物だったにちがいない。

2020年は人類史に残るべき壮大な敗北の年だった。ただ、昨年の検閲という名の弾圧から現在の世界的なパンデミックの流れの中で考えてみたとき、現代美術にとってもっとも深刻な問題は、「欲望の縮減」だと思う。作品を制作する側であれ、それを鑑賞する側であれ、表現にかける欲望をいつのまにか縮小させ、何もかも諦めてしまっている場合が少なくない。「withコロナ」やら「新しい生活様式」やらのフレーズは、そのような欲望の縮減を自然に受容させる、きわめて悪質なイデオロギー装置だろう。こうしたなか、遠藤一郎が自らの純然たる表現欲動を忠実に実行したことには、とてつもなく大きな希望がある。未来への手がかりはここにあるのではないだろうか。

初出:「図書新聞」3478号(2021年1月9日)

匕首の刃を研ぎ澄ませ──2019年現代美術回顧

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