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なぜ「1万円割引クーポン」で、乳がん検診の受診率がアップしたのか?

人は、つねに合理的に動いているわけではありません。

健康に気をつかっているのに、目の前のケーキをつい食べてしまう。「今だけ半額!」と言われたら、つい買ってしまう。

そんな経験が、誰しもあるのではないでしょうか。

このような「人間の非合理性」を体系化した学問があります。「ナッジ理論」というものです。

今回はこの「ナッジ理論」を使って、社会をよりよく変えるにはどうすればいいか? というお話をしたいと思います。

私は、予防医療を広める会社を経営しています。主にやっているのは、全国の自治体と協力して、特定健診やがん検診の受診率を向上させる事業です。

検診は、基本的には「受けたほうがいい」ものです。病気を早期発見し、健康寿命を伸ばすことができますから。

しかし、実際のところ、自治体から案内が来ても、検診に行かない人は多いです。「検診は受けたほうがいいので、行きましょう!」と正面から伝えても、動かない人たちがいる。

彼らの行動を変えるには、どうすればいいのか?

そう悩んでいたとき、出会ったのが「ナッジ理論」でした。

ナッジは「行動経済学」という学問分野の理論のひとつ。「人はどんなときに、どのような行動をするか?」を分析し、それを使って、人の行動をよりよい方向に後押しする……というものです。

つまりナッジを使えば、無意識のうちに人の行動を変えることもできるわけです。

人の行動は「バイアス」に左右されている

では、実際にどのように「ナッジ理論」を活用すればいいのか? 事例を交えつつ説明していきます。

と、その前に、まずはナッジ理論の母体である「行動経済学」について、少しだけ解説させてください。

行動経済学は、経済学から派生した分野です。

経済学って、とても合理的な学問なんです。「すべての情報が世界中の人に平等に知れ渡っていて、人はみんな合理的に行動する」という大前提に基づいている。

たとえば、経済学で有名な「需要と供給の曲線」があります。需要と供給の曲線が交わるところが、ものが売れる価格だ……というものです。

Wikipediaより引用

実はこの理論は、次のような大前提の上に成り立っています。

①「その商品がいくらで、どの店で売られているか?」を、世の中のすべての人が知っている
②人は必ず「1円でも安いもの」を求めて、商品を買いに行く

この条件がひとつでもズレると、グラフはきれいに交わりません。

でも、現実の世界って、そんなに合理的にはできていませんよね。

ものすごく安値で売っているお店があっても、その情報を消費者が知らなければ、商品は売れません。逆に、売り方次第で、通常の何倍もの価格でモノが売れることもあります。

「そもそも、現実ではありえない状況を前提として語ることって、本当に正しいのだろうか?」「人って、実はもっと非合理的なんじゃないか?」

そんな疑問をもった研究者たちによって生みだされたのが、行動経済学という分野なんです。

彼らが研究したのは「バイアス」についてです。

人が非合理的な行動をするのは、バイアスに取りつかれているから。そこで彼らは「世の中の人が、なぜ、どういうバイアスに影響を受けているのか?」を研究していきました。

さらにそこから、バイアスを利用して人の行動をちょっと後押しする「ナッジ理論」が生み出されたわけです。

「得したい」よりも「損することを回避したい」

では、具体的にはどのようなバイアスがあるのでしょうか。

おそらく最も有名なのは、プロスペクト理論の「損失回避性」です。

これによると、人間には「損失を避けることを最優先に行動する」という習性があると考えられています。

「こうすれば10万円がもらえます(得をしますよ!)」と言われるよりも「こうしないと、もらえるはずだった10万円がもらえなくなります(損をしますよ!)」と言われたほうが、人は行動を起こしやすいのです。

広告などで、よく「今だけ半額!」「期間限定!」といったコピーが使われますよね。あれも、人の損失回避性に訴える表現とも言えます。

「今買わないと損をしそうだ」と思うことで、行動を起こしやすくなるわけですね。

チラシのコピーを変えただけで受診率がアップ

私たちはこの「損失回避性」を、予防医療の分野で活用しています。

実際に「損失回避性」を使ったナッジによって、検診の受診率がアップした事例をご紹介します。

これは、私たちが東京都八王子市で、大腸がん検診の受診率を上げるために配布したはがきです。2パターンのチラシを作成し、ABテストをおこないました。

デザインは同じだが、メインメッセージのみ違う

ひとつは「大腸がん検診を受診することで、来年度も便検査キットが送られてきます」という、利得を強調したメッセージ。

もうひとつは「今年度の検診を受けなければ、来年度は便検査キットが提供されなくなります」という、損失を強調したメッセージです。

2つのメッセージを受け取ったグループの受診率を比較してみると、次のような結果になりました。

利得を強調:送付した1,761名のうち受診者399名(受診率22.7%)
損失を強調:送付した1,767名のうち受診者528名(受診率29.9%)

ナッジを使って「損失」を強調したメッセージを送ると、そうでないものに比べて、受診率が7.2%アップしたのです

この取り組みは、環境省および日本版ナッジ・ユニットBESTと行動経済学会によるコンテストで「ベストナッジ賞」を受賞することができました。

「検診に行かないと損をしそうだ」と思わせる

同じく八王子市で、乳がん検診の受診率をアップさせるために配布したチラシがあります。

このようなチラシです。

八王子市の乳がん検診は、自治体から1万円の補助が出て、自己負担2000円で受けることができます。つまり「検診を受けないと、本来もらえたはずの1万円補助がもらえなくなる」わけですよね。

この「損失」感をなるべく強調するために、金券のようなチラシを作ったんです。

あえて金色の高級そうな見た目にして、サイズもちょうどお財布に入るようにしました。

ふつうのチラシだと、読まずに捨ててしまう人もいると思います。でも、このチラシなら「なんだか捨てると損しそうだし、とりあえず取っておくか」と、お財布に入れておいてもらえるんじゃないかと考えたんです。

「割引券」のような工夫は、マーケティングの世界では昔からよく使われています。ナッジを知らなくても、ふつうにアイデアとして出ていた可能性はあるでしょう。

でも、行動経済学やナッジ理論を知ったことで、これまで感覚的だったマーケティングを、より科学的根拠にもとづいておこなえるようになりました。理論を足がかりにすることで、このようなアイデアも生まれやすくなったんですよね。

(日経新聞さんにも取り上げていただきました)

臓器提供の意思表示

ナッジに使えるバイアスは「損失回避性」だけではありません。人は「デフォルト設定」につい従ってしまう……というのも、よく使われるバイアスです。

これを活用しているナッジの事例をひとつご紹介します。

「臓器提供をするかどうか」の意思表示です。

上記のグラフを見てください。左側の国々と右側の国々では、臓器提供に同意する人の割合が大きく異なりますよね。

同意する人が多い国と少ない国で、なにが違うのか。それは、宗教でも文化でもなく「意思確認をする際のデフォルト設定」なんです。

「臓器提供に協力する人はチェックをしてください」という聞き方だと、大半の人が「協力しない」ほうを選ぶ。
一方で「臓器提供に協力しない人はチェックをしてください」だと、大半の人が「協力する」ほうを選ぶ。

「デフォルトの選択肢」がどうなっているかによって、意思決定が大きく左右されたのです。

これは「難しい意思決定は、社会的規範(みんながどうしているか)に従う」という人間の習性によるものだといわれています。

「臓器提供を申し込む人だけがチェックをつける」という形式だと、それを見た人は「ほとんどの人は、臓器提供をしないんだろう」と思います。

逆に「臓器提供をしない人だけがチェックをつける」という形式だと「ふつうはみんなやるんだろう」と思って、とりあえずそれに従うわけです。

デフォルト設定によって、社会規範を示唆している。だから人は、デフォルトの選択肢につい従ってしまうんですよね。

臓器提供の事例については、こちらの動画で行動経済学の第一人者であるダン・アリエリーが解説しています。字幕つきでわかりやすいので、詳しく知りたい方はぜひ。

彼の書いた本だと、こちらの『予想どおりに不合理』もおすすめです。

デフォルトを変えるだけで、育休取得率90%を達成

日本でも、この「デフォルト設定」を活用した事例があります。

千葉市では「男性の育休取得率向上」のために、ナッジを活用しているんです。やったことは簡単で「選択肢のデフォルト」を次のように変えただけ。

従来:育休を取得「する」場合は、その理由を申請する
改善後:育休を取得「しない」場合は、その理由を申請する

「取得するのがデフォルト」に変えることで「育休はみんな取るものだ」という社会規範が生まれ、取得率向上につながるというわけです。

実際、この取り組みによって、千葉市は2019年に育休取得率90%を達成しています。

ナッジの取り扱いには注意が必要

ここまでご説明してきたように、ナッジには「本人の理解や意思にかかわらず、人の行動を変容させうる」力があります。マーケティングや行動変容に関わる人にとって、これはとても革新的なことですよね。

ただ、すごい技術だからこそ、ナッジの取り扱いには注意が必要です。

たとえば「1万円券」で乳がん検診を受ける人が、本当に「検診の重要性」を理解しているとは限りませんよね。おそらく、検診が大切だからというより「1万円券を無駄にしたくないから」行動している人が多いと思います。

臓器移植の例でも、デフォルトを変えたことで「同意」した人みんなが、臓器移植の重要性を理解したうえで意思決定をしているわけではないでしょう。

これって「説明を聞いて、理解して、同意して、行動する」という、従来の合理的な行動プロセスに比べると、ちょっと強引ではありますよね。

もちろん、ナッジによって人や社会をよりよい方向に導くこともできます。

しかし、もしナッジを悪用すれば、本人にとって利益にならない方向に、気づかれないように誘導することもできてしまうんです

大切なのは、目的とエビデンス

このような観点から、ナッジを使うこと自体に反対する人もいます。

ただ私としては、ナッジのポジティブな側面は、うまく活用していけばいいと思っているんです。ナッジによって検診を受けて、病気を早期発見する人が増えるのなら、それは喜ばしいことですよね。

「検診の重要性を理解しなかったので、受けなかった。だから、末期がんになりました」というのが、いいことだとは全く思えません。

議論すべきは「ナッジがいいのか、悪いのか?」ではないと思うんです。

そうではなくて「ナッジで誘導するその行動は、本当に正しいのか?」を、しっかり考えないといけません。

最近の傾向として「なんでもかんでもナッジを使おう」といった風潮があるのですが、それはやっぱりよくないです。社会的な合意が取れていないものまで、ナッジをしてはいけない。

効果がはっきりしない検査をすすめたり、特定の誰かの利益のためにナッジを使うことは、とても危険だと思います。

私たちがナッジを使うとき、とても大切にしているのが「エビデンス」です。

実はいまのところ「受けたほうが健康にいい」という科学的エビデンスがあるがん検診は、次の5つしかないんです。

・乳がんのマンモグラフィー
・大腸がんの便潜血検査
・子宮頸がんの細胞診
・胃がんの内視鏡・バリウム検査
・肺がんのX線(喫煙者は喀痰検査も)

他にもいろんな手法があるのですが、国が「これは確実にやったほうがいい」と決めているものはこれだけです。

だから、私たちがナッジをする検診は、基本的にこの4つだけ。

ナッジでもなんでも、人になにかを勧めるときは「その行動が本人にとって正しいというエビデンスがある」ことが大切です。

ナッジにはどうしても「人を誘導できてしまう」という危うい側面はあります。だからこそ、使う側には大きな責任が伴うのです。「正しい目的のために使う」ことが、絶対に必須だと思っています。

ナッジによって、もっとたくさんの人を助けたい

私たちが受診率向上事業をはじめたばかりの頃は、行動経済学なんて使っていませんでした。そういう発想すらなかった。使っていたのはマーケティングのノウハウだけでした。

起業前はP&Gでブランドマネージャーをしていたので、マーケティングには自信がありました。実際、効果も出ていたんです。

しかし、私たちの施策が届いていたのは、あくまでも「自治体からのチラシをちゃんと読んで、検診に行く意思決定をしてくれた人」だけでした。

もっと多くの人は「予防医療をしなきゃな」「検診しなきゃな」なんて考えていません。「検診によるリスクが怖い」から検診に行かないわけじゃない。

そもそも「いく必要がある」とも思っていないんです。

基本的に、検診などの行政サービスは「やりたい人だけやる」ものです。

公共サービスってそういうものなんですよね。選挙したかったら選挙に行かなきゃいけない。関心がない人は、完全に置き去りになっている。それは民主主義の仕組み上、しょうがないことなのかもしれません。

でもやっぱり、人の意思に任せっきりでは、すべての人に検診を受けてもらうことはできない。その結果、病気で苦しむ人がたくさんいる。

それは解決すべき課題だと、私は思っています。

たとえば大腸がんは、日本の女性のがんによる死亡者数の第1位です。年間で5万人近くの方が亡くなっています。

一方で、大腸がんは、早期発見できれば死亡率が大きく下がる病気でもあるんです。早期に発見された大腸がんの5年生存率は、約9割にのぼります。

検診に行き、病気を早期発見できる人を増やせたら、それだけ多くの人の命を救える可能性がある。

私たちはそのために、行動経済学やナッジの技術を使いたいのです。

医療の分野以外にも、ナッジを活用して解決できる社会課題はたくさんあるはずです。このnoteを読んでくださった方が、ナッジを活用して、社会をよりよい方向に「後押し」してくださったら、とても嬉しく思います。

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