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大人が子どもに戻る時間

子どものように今の時間に集中して何の心配ごともない。周りには調和のとれた世界があって、安心して身をゆだねられる。大人になってからそんな時間を持てたら、幸せだ。

夏休みにふたりは4泊5日の鈍行列車の旅にでた。

その日は富山のローカル線、氷見線に乗って雨晴海岸駅で降り自転車を借りた。最高のサイクリング日和で、空は晴れわたり日差しは厳しくない。ヒールのないサンダルにジーンズの裾を巻き上げ、赤いリュックサックはできるだけ軽くしてきた。

右手に広がる富山湾を見ながら自転車をゆっくり走らせる。彼は20メートルほど前を走っていて、時々自転車を止め後ろを振りかえる。私は手を振って合図を送る。

喉が渇いたのでリュックからミニトマトを取り出す。赤に黄色が数粒交じってビニール袋に入ったそれはまるで宝石のようだ。みずみずしく甘くって口の中で弾ける。急ぎ足でこいで彼に追いついて、すごくおいしいよとトマトを渡したら、にっこりして口に入れ、甘いねと笑った。

しばらくすると左手に建物が見えてきた。目のつく所に温室があり、南国風の色々な植物が葉を広げ根っこをくねらせ、赤やピンクの花を咲かせている。生きているのって楽しいねって笑っているみたいに甘い匂いをさせて茂っている。

温室を通って建物に入ると中は公共施設らしくがらんとした空間で、市立の海浜植物園だと知った。二階を見学すると机と椅子だけ置かれた休憩室があり、誰もいないので少し休んでいくことにした。

「お菓子はちょっとだけだよ。」
「そうだね、お寿司が待ってる。」

トマトとプリッツを一袋、机の上に出してお茶を一口飲む。窓から光がさし、水色の空ときらめく海が先につづいている。

「もう少し走って街中に出たらおいしい寿司屋さんがないか聞いてみよう。」

彼がお茶を飲みながら地図を広げて言う。

「うん。氷見のお寿司だもん、どこもレベルが高いよ。白えびもあるかなぁ。」

「うん。きっとあるよ。市場に行く手前に観光案内所があるから寄ってみよう。」

しばらく思い思いにくつろいで、そろそろいこうか、と言ってまた自転車をこぎ出す。いってらっしゃい、とでもいうように、植物園の前のスプリンクラーから出る水が優しく肌を濡らした。

自然が作りだす景色はあまりに美しく穏やかで、その風景の中にいられることに心から満足している。

あとは彼について自転車をこげば大丈夫。何の心配もない。8才の頃に戻ったみたいに無邪気に今を感じてる。

大人になってから子どものような気持ちになれる時間。それは人生のちょっとした贈り物だ。

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