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ゆきすぎた資本主義社会における拝金思想

 大抵の場合は理解したということ自体が誤解であるということと同じく、常識に支配されている人間は「常識」自体を認識していない。
 当たり前に染み付いた思考のパターンを、あえて分析することの価値を認める者ならば、常識によらずに考えることができる。しかしながら一般的にはかえって自らの思考パターンを分析して考え直すことなど不利益しか生じさせないものであると考えているからだ。

 専門家や権威などといった、自らでは遠く及ばないほどに努力や思考や勉学を積み上げてきた人たちの話を聞くことの意味は、「失敗をしない」ということである。それは集団で、社会的に生きる意味でもあり、限られた時間の中で身の回りの全ての物事を考えることなど不可能に近いことであるから、各分野の専門が判断した結果だけをもらうことで無駄な時間を消費しない事になる。ゆえに、自ら判断できない難しい内容や、失敗することのリスクがとても高いものに関してはなおさらである。そして義務教育による歪んだ暗記教育により、思考停止することを強要され、テストや学歴により劣等感を植え付けられた人間ならなおさらである。

 しかしながらそもそもの問題点として、「専門家」の意見がストレートに世に発表されているのか、信じている常識というものが正しい判断のもと下されていったものの集積なのか、自ら判断できるはずの内容でさえ他人の判断に任せてはいないのか、そしてそもそもその「常識」というもの自体が自らの経験則でのみ培われた「癖」でしかない可能性さえあるということなどが考えられる。
 
 現代のゆきすぎた資本主義社会において多くの場合、「専門家」の意見など、ビジネスに対する信用を得るための材料としての権威でしかないのが実情である。そもそも科学など新興宗教でしかないのだが、それでも科学的根拠を求める大衆は、「専門家による研究結果」というオカルトに対してとても弱い。商品販売においてはわかりやすい構造であるが、メディアのそれは詐欺とも等しい場合さえあり、専門家でさえないただの有名人などが強い発言権を持つことには疑問しか感じ得ない。もちろん、本物の思考力を有する者ならば、分野は違えど正しい判断材料さえあれば専門家と等しい判断ができるという判断に異論はないが、それは少なくとも芸能活動において最大限に重要視されている点ではない。文化的、政治的な歪んだプロパガンダやその場の感情が介入していないことが正しい判断の前提であると考えると、感情に訴えることがいかに姑息な詐欺行為であるかについては考慮するべき問題である。

 もちろん真面目に研究をし、正しい情報を発信しようと努力するものもあるが、もし「正しい」研究結果が世論の常識と大きく外れた者であった場合、そもそも聞く耳を傾けるものが少数でしかないという問題に加え、従来の「間違った」根拠を元に既にビジネスを成功させている者たちからの反対が当然起こるわけである。現代は金主、スポンサーこそが強い発言権を持つという危険な構造を有しているとも言える。
 原因と結果の間にあるプロセスがとても長く結果の規模がとても大きい「環境問題」などは特に大衆の目を誤魔化しやすい上に利権によって作り上げられた「常識」が幅を利かせ、正当な議論さえなされていないという現状がある。「環境保全」という大義名分があるからこそ余計に厄介な問題である。大衆は根拠が曖昧で直接見えないものを理由に不利益を被ることを理不尽と思えども、対抗する手段さえ持ち合わせていない。これこそが社会的「搾取」であるということである。レジ袋有料化の不利益を感じつつも「マイクロプラスティック」や「温暖化」などという大問題を、そもそもが真実なのか直接追求する手段など持ち合わせていない。石油製品は元を辿れば動物の死骸の蓄積であり自然の生み出した産物であるという見方が主流であり、現に畑に放置されたビニールがすぐに土に還るという事実など忘れてしまっているのだ。

 物事には大抵の場合は両面性があり、絶対悪も絶対正義も存在しないのである。立場を決めた時に始めて決定されるそれらの善悪を考える時に、金銭的利益を生み出すものが善であるという尺度が「ゆきすぎた資本主義社会における拝金思想」であるとするならば、それによって生み出された現代社会の問題を解決するためには「貨幣」の価値を見直す必要性が出てくる。人々は無自覚にも「金銭的生産性」を常に考えさせられる環境に身を置いている。
 貨幣制度そのものが社会的歪みの根源であると捉える見方もあるが、貨幣が生み出す価値基準という常識にとらわれ判断を続ける上では、個人間の貧富の格差や、歪んだ常識による健康被害、大衆の恐怖を煽ることで生み出される利益を貪る者たちの権益、そして何よりもお金を持たないことに対する恐怖により正常な思考と判断を奪われるという諸問題は、解決しないのである。

 今一度考え直さなければならない物事の価値基準に対しての指標として、私の考える唯一絶対の真理である「他人のものを奪わない」ということを前提に、広く循環する社会において「本来の人間」の求める幸福とは何かについてをよく吟味しながら決断してゆくことこそが、愛のある判断であり幸福追求のできる社会を作る手段ではないだろうか。
 社会的にも金銭的にも価値や信用を得られるものごとが「より多くの金銭的利益を生み出すもの」から「本来価値を持つべきだったもの」になる時、社会の生み出す理不尽さや不幸をなくすことができるのかもしれない。
 そしてなにより、我々一人ひとりが「権威」や「常識」を作り出す大衆としての正当な評価と判断を他人に依拠することなく思考し続けること、短絡的に立場を決め善悪を即断することなしに常に保留しながら判断し続けることが何よりも大切ではないだろうか。そのための精神的、金銭的余裕を持てる世の中を作るのは、相互に影響し合う大衆と社会システムの双方による変革なのかもしれない。

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