初音ミクから都市・建築を考えるための断想録─『初音ミクと建築』2


「初音ミク」を考える─『初音ミクと建築』1

ここからは、何か都市や建築につなげれないかなーと妄想したモノです。断片的な思考ですが。


「動員」の性質が変わることによって変わる音楽ホール


劇場や音楽ホールといったビルディングタイプは普段の私たちにとって馴染みのないものである。日本建築学会によって編集された『音楽空間への誘い-コンサートホールの楽しみ』という本にはこんな一節がある。

「…新しいデザインを生む以前にクラシックコンサートホールを支える社会的環境が微妙に崩れようとしている。子どもたちの間ではクラシック音楽は魅力を急激に喪失している。…(中略)…あらゆる世代にとって音楽がファッションとなり、精神を成熟させる以前に通り過ぎてしまう。21世紀は音楽を哲学することが非常に難しい時代になるのではないか。その時、音楽ホールはどんな予想を呈するのか。こんな疑問が強くよぎる。コンサートホールは本当に必要とされるのだろうか。」


この文章は少々「最近の若者は…」的なニュアンスを感じる部分もあるが、私たちの世代、ひいては若い世代にとって音楽ホールといったものは遠い非日常的な存在に感じられるのは確かな感覚であろう。

そこには、そもそもクラシックの曲や古典的な劇を知らないといったことや、役者や奏者にしても誰が有名な人物なのかが分からないといった風に、ある種の敷居の高さがひとつの要因として伺える。
そのため、音楽ホールや劇場にくる客の層はある程度定まったものになってしまっているのではないだろうか。


初音ミクのオペラ『THE END』は国内においては山口のYCAM、渋谷のオーチャードホールと2つの場所で公演された。

YCAMは世界的にも珍しいメディアアートを主に展示する施設であったので、そもそも現代的なメディアアートに明るいコミュニティを持っていた。一方で、オーチャードホールは普段から伝統的なオペラなどが行なわれており、初音ミクに親しんでいるユーザーやメディアアート、現代美術の関係者とは全く異なるユーザー層を抱えている場所だ。公演時には、常連のオペラに親しんでいるハイカルチャーな層、現代アートの関係者、初音ミクを好きな層(コスプレイヤーなどもきていた層だ)など様々な層の観客がきていたという。

評判は賛否両論ではあったものの、ここではオペラの内容よりも今まで交わらなかったであろう様々な層の人たちを動員し同じ場所に居合わせたということに注目すべきではないのかと考える。

こうした事態は従来の音楽ホールや劇場のある種の敷居の高さを初音ミクという「キャラクター」が取り払ったと考えられないだろうか

つまり、初音ミクは現実の音楽ホールや劇場にくる客の層を変え得るのではないかという事が言える。現時点では、そのような場所で初音ミクを使用したのは渋谷慶一郎の『THE END』、富田勲の『イーハトーヴ交響楽団』だけであり、追従してそのような公演、または初音ミクを使った新しい表現が行なわれるかは分からないが、この事は一つの未来の可能性として考えられる。

そのとき、それまでの音楽ホールや劇場を設計するときの前提が変わり、新しい性質を持った音楽ホールや劇場が考えられるのではないかという事が言える。

「爆音でぶっ飛ばす」知覚と環境の変容

初音ミクのオペラ『THE END』のコンセプトの一つとして「爆音でぶっ飛ばす」ということがある。
これについて、制作者の渋谷慶一郎は音楽においては「音量」も重要であると述べる。渋谷はインタビューにおいて、こう述べる。


「僕がオペラを観る時にいつも思うのは音が小さいということなんです。オーケストラピットもあんなに潜った位置でいいのか?と思います。つまり劇場の外の実際の社会に比べてオーケストラも生の歌手も音量が小さいんですよね。モーツァルトにしてもヴェルディにしてもワーグナーにしても彼らの生きていた時代だったらフォルテというのは生のオーケストラのユニゾンの一撃でよかったのかもしれない。でも、現代は外には車が走って携帯の着信音は絶え間なく鳴っていて、都市ではものすごい音量で大量の音楽が同時に鳴っている。だから、オペラで衝撃の表現として生のオーケストラがジャンッとか鳴っても「え?」っていう感じになる。それこそ、「これは衝撃的なシーンなんだろうな」という解釈が必要になってしまう。でも、作られた当時はそうじゃなかったと思うんです。人の意識や解釈を飛ばすような表現には音量の問題はすごく大きい。」


なるほど。少し違う話かもしれないが、私も愛知芸術文化センターで『ホフマン物語』というオペラを観覧したとき、チケットを取るのが遅くなってしまったせいか、後ろの方の席になってしまった。

そのときは、ステージがあまりに遠いせいもあったが、役者の顔はよく見えないし、音も衝撃的という程耳に残るものではなかったため、少し退屈に感じてしまった覚えがある。この場合はホールのサイズ感の問題かもしれないが、それでも、確かに音が小さいとせっかく内容が興味深くても、おもしろさが十二分に伝わらないのではないかと感じた。


『THE END』は8トンものスピーカーを持ち込み、服が震える程の音響体験を提供していた。これは極端な例ではあるが、従来の音楽ホールの音響環境からは逸脱したものであると言える。

音楽ホールや劇場は音響や観客との関係などから、シューボックス型やアリーナ型と行った風に設計の段階で、ある程度の決まった空間の形式が存在している。しかし、そもそもニコラス・ペブスナーの著作『ビルディングタイプの歴史』にはコンサートホールといったものは書かれていない。つまり、コンサートホールは歴史の浅い建築にも関わらず、空間の形式が強い先入観を与えているのだ。

上に記したように私たちの聴覚は昔の人たちの聴覚とは異なっている。それは環境が知覚の変容をもたらしているのだ(分かりやすい例で言えば、マサイ族の驚異的な視力は環境から生み出されたものだと言える)。そのとき、音楽ホールは歴史の浅い建築であるからこそ、現在の、これからの私たちの知覚と環境に対応した新しい空間の形式を開発できる可能性は存分にあるのではないだろうか。

「the way things go」成り行きに任せるということ


人々が何故コンサートやオーケストラを観に行くかというと、生の音を聴くためにという要因もあるが、なにより「ライブ感」を求めていくということが最大の要因であろう。

「ライブ感」とは、たとえば、オーケストラの演奏者同士の掛け合いであったり、指揮者のパフォーマンス、観客と奏者の関わりなど、「その場に行ってその時にしか聴けない(観れない)演奏やパフォーマンスを観賞するという体験」の「一回性」だと考えられる。
人間が演奏する限り、全く同じ演奏や演技を観れるというのはありえないことで、それがありえないからこそ、会場へ行って観たい、「ライブ感」を体験したいという欲望が生まれる。


ここで、初音ミクを音楽ホールや劇場で演奏するということを考えると、「あらかじめ作られた動画や音楽を流すだけなら映画と何が違うの?」という疑問が生まれる。これに対し、渋谷慶一郎は

「映画でも演劇でもないんですよ。オペラは音楽さえあればオペラになる」

と答えているが、これでは不十分なように思える。

そもそも『THE END』は「人間不在のオペラ」と銘打ってるものの、実際にはステージ上には渋谷慶一郎という奏者が存在している。ここでは、「現実世界」に「初音ミクの存在する世界」が重ね合わされた状態がステージ上に創造されている。であるならば、人間が介在している限り『THE END』は「一回性」という「ライブ感」を持ち得ているのだと言え、この初音ミクオペラが「映画」とは異なる「新しい表現としてのオペラ」だということがわかるだろう。


2012年初演の富田勲作曲の、宮沢賢治の文学作品を題材とした交響曲『イーハトーヴ交響曲』は初音ミクをソリストとして迎えている。
第3楽章「注文の多い料理店」、第4楽章「風の又三郎」、第5楽章「銀河鉄道の夜」、第7楽章「岩手山の大鷲(種山ヶ原の牧歌)」において初音ミクによる独唱があることから、この作品において初音ミクがいかに重要であるかが分かる。

さて、なぜここでこの作品を挙げたかというと、この作品において初音ミクはそもそも「一回性」を持ち合わせているからだ。この作品においての初音ミクはあらかじめプログラムされた動きをするわけではなく、指揮に応じて動きを変える。初音ミクがどういう動きをするのかはその場に行って確かめないことには分からないのだ。

初音ミクは指揮者の動き、演奏によって動きを変える、まるで生命を持ったかのようにthe way things go(成り行きに任せること)によって「一回性」を持ちうるのだ。


初音ミクは「ライブ感」を持ち得る。初音ミクは今の現実に重ね合わされる「新しいレイヤー」だ。

そのことによってオペラやオーケストラが新しい演出や表現をつくりだす可能性が大いに存在している。20世紀後半の建築界の巨匠ともいわれるレム・コールハースの著作『錯乱のニューヨーク』で描かれたラジオシティ・ミュージックホールは、ブロック一つぶんもある巨大な劇場をもち、人間が声や肉体を使って演ずることを無意味にした。それゆえ、従来の演出概念は否定され、等間隔で幾列にも並ぶ女性のハイキックという抽象的な運動がもたらされた。建築が演出に影響を与えることがあるのならば、その逆もあるのではないだろうか。
建築や都市にとって初音ミクが「ライブ感」を持つ、現実に重ね合わされる「新しいレイヤー」だということはとても重要なことである。

空間音楽。建築的に構築される音楽。

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『新建築データベースβ』より転載(『新建築』2013年11月号掲載)


『建築と音楽』において、建築評論家の五十嵐太郎は

「建築と音楽は、それぞれ人間の時間と空間に対する意識の持ち方を読み取るための道具となりうる。」

と述べている。しかし、両者の違いとして「建築は見る人間の動きが影響する。」ことに対し「音楽体験とは、意識が音楽の空間を体験すること。」にあると述べている。


『THE END』を制作するキッカケのひとつになったという渋谷慶一郎と池上高志による『filmachine』は「音楽の持つ時間/空間/運動構造を人工的に生成する音響空間」というコンセプトのもとに音を三次元的に配置する。ここでは音を一つの空間として建築的に構築している。この作品においては、もはや音を聴くことは「意識が体験する」ことだけではなく「見る人間の動きが影響する」ものになっている。この作品を通して考えると建築と音楽が接近しているように思える。

しかし、考えてみれば音を聴く時、聴く場所によって音の聴こえ方が変わるというのは当然ではないだろうか。それは音を聴くということは「見る人間の動きが影響する」ということだ。

それならば、音楽ホールの音響空間とは聴く場所によって聴こえ方が変わるという音のギャップを解消するためにある程度成立しているものだと考えられるのではないか。
つまり、『filmachine』の試みや各種のサウンドインスタレーションによる音をあらかじめ三次元的に配置するというのは、従来の音響の考え方とはまったく別の次元に属する考え方であり、そこから、新たな建築のあり方を考えられる可能性は存在するのではないのか。

たとえば、スイスの音楽祭「ルツェルン・フェスティバル」に支援を受け2012年から春から東日本を巡っている、建築家磯崎新と彫刻家アニッシュ・カプーアによる移動式コンサートホール「アーク・ノヴァ」は、設置・撤去が比較的容易に行なえるように伸縮性のある風船のような構造となっている。

この建築は、街に根付き人々の憩いの場となるという従来のイメージのコンサートホール(これは日本では達成されているかは疑問だが)ではなく、ある日突然街にやってきて人々に素晴らしい音楽と感動を与えるサーカスのようなコンサートホールなのだ。

「アーク・ノヴァ」のようにある日突然やってくる建築、それは仮設だからこそ建築において発達した3Dモデリング技術と音響シュミレーション、そして『filmachine』のような「音を三次元的に配置する」という思考をコラボレートさせることで建築と音楽が1対1で対応した今までに無い空間、音楽を生みだす可能性があるのではないだろうか。

Do It Yourself から Design It Yourself へ

初音ミクはCGM(消費者生成メディア)やUGC(ユーザー生成コンテンツ)といった言葉を生みだし、誰もが作品をつくり発表できるという「一億総クリエイター」時代とも言うべき時代をもたらす一つの要因となった。

建築家の吉村靖孝は著作『ビヘイヴィアとプロトコル』において

「コンピュータによってDIY(Do It Yourself)は大きく変貌を遂げました。たとえば、2007年には、音声合成システム「VOCALOID2」を採用したヴォーカル音源「初音ミク」が登場し、誰でもこの女性キャラクターに歌を歌わせることができるようになりました。歌手のDIY化だったカラオケから一歩進んで、作曲家やプロデューサーなどより上位に位置していた創造領域のDIY化が起こったのです。こうなるとDIYは、Design It Yourselfと読み替えた方がよいかもしれません。…(中略)…おそらく建築でも近いうちに同じようなことが可能になるでしょう。簡単な模型をつくれば、あとはコンピュータが肩代わりして、法への適合をはじめとする各種性能が保証された図面を吐き出してくれるなんてことは、容易に想像がつきます。プロの図面をもとに日曜大工でログハウスを建てるのではなく、デザインはユーザーが行いそれをプロが建てるという建築版Design It Yourselfです。」

と述べている。


野尻抱介のSF小説『南極点のピアピア動画』は「ニコニコ動画」と「初音ミク」をモチーフにした作品である。
表題作「南極点のピアピア動画」は、計画していた南極点から宇宙に飛び立つというプロジェクトが頓挫し、途方に暮れていた主人公の大学院生がピアピア動画で「宇宙男プロジェクト」という企画を立ち上げ、ピアピア技術部というピアピア動画の一つのコミュニティで「「初音ミク」をモチーフにした「小隅レイ」というキャラクターが描かれたロケットで主人公の彼女を月へと連れて行く」という目的だけで、宇宙船をもDIYしてしまうという物語である。

ここには打算的な考えも損得も全くない、「小隅レイというキャラクターへの愛」であったり「楽しそう」であったり、「ノリ」で宇宙船をつくってしまうのだ。この「集合愚」とも言える「無駄なものを力を合わせてつくる」ことが終いには世界を変えうるものとなるというのがこの物語のおもしろいところだ。

そして、現実世界においても「ソーシャルメディア衛星開発プロジェクト」というプロジェクトが存在している。これは「初音ミクのデフォルメキャラクターであるはちゅねミクを搭載した超小型衛星Cubesatを宇宙に打ち上げて、世界一高いところでネギ振りをする衛星を開発する」というものだ。この物語は小説の中だけのお話ではないのだ。

なぜ、これらの話をここに持ってきたかというと、このDIYはあくまで「キャラクターへの愛」や「楽しいから」や「つくる喜び」といった「個人的な喜び」だけで行なわれているからだ。誰もが「楽しそう」にものをつくるという社会とは何とも魅力的ではないだろうか。

吉村靖孝氏が述べるように「建築版DIY」が今以上に一般的なものとなったら、これまでとは全く異なった風景が広がっていく。「現代版バラック」といったものに溢れた街。それはなんともカオスで面白い街なのかもしれない。

結びに

僕の力量では、初音ミクがもたらしうるかもしれない「未来」について何かまとまって論理だったモノを考えることはできない。

それでも、誰かがこれを見て「初音ミクって意外と面白そうだな」や「初音ミクと建築…意外とつながりあるかも」など、誰かの興味のチャンネルを増やすことができればいいなと思う。

2007年にニコニコ動画や初音ミクが登場して、2008年くらいから僕はそういうモノを見始めた。当時のその空間は異様な熱気にあふれたアンダーグラウンドな匂いのする場所だった。

しかし、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』でも書かれているが、「ブーム」は長く続かない。初音ミクもおそらくそのブームは終わっているのだろう。初音ミクを使った曲の質は上がっているものの、かつてアップされていた動画のような熱を持たないものが増えてきた。それは「どうやったら売れるのだろうか?」という商業的な考え方が侵入してきているからだろう。(相変わらず素晴らしく面白い楽曲をつくるクリエイターはいるが)しかし、初音ミクはブームが終わっていると感じるものの、その存在が消えていくどころか、むしろ別のフェーズに移行しているように思える。それは好きだったインディーズアーティストがメジャーデビューして売れて行くときの少しの「寂しさ」に似ている。

「初音ミク」という、「キャラクター」であり「楽器」である、ソフトウェアでありコンテンツであるという新しい「存在」がどんな未来をもたらすのだろうかと思うとワクワクする。そんな個人的な想いで調べ始めたが、こことここは繋がるんじゃないだろうかとか、建築のこの部分は影響受けそうだなとか色々な想像ができ、面白い経験であった。まだまだ断片的なモノなので、継続して考えれる機会があるなら考え続けて行きたいと思う。

なにより、様々な人たちが自分の好きなものを「好きな」ようにつくる。そして、それが誰かに気に入られてさらにモチベーションになるという、ものつくりの原初的な部分が見える初音ミクの周りはとても「楽しい」場所なのではないか。


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