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留学生との25年間7:倒産?!

ある日、勤め先の日本語学校が倒産してしまった。もうずいぶん前の話だが、今日はその時のことを書こうと思う。

みなさんは「日本語学校」という言葉を聞いたことがあるだろうか。外国人が日本語を勉強する語学学校で、来日した留学生の多くは、まず日本語学校に入学する。そこで日本語を学び、その後大学や専門学校へ進学するのだ。

日本語学校は、学校法人化しているところもあるが、多くは株式会社や有限会社だ。零細企業も多い。私が勤めていた学校もそんな会社だった。

そのころ私は結婚していてダンナは収入がなかった。意気込んで起業したものの、まともな収入がない状態が続いていた。私は専門学校の非常勤講師をしていたが、経済的に苦しく、知り合いに紹介してもらったこの学校で、かけもちで教えることにした。働き始めたのは秋だった。

そこは小さな学校でクラスは4つか5つぐらいだったと思う。専任教員は1、2名しかおらず、ほかは皆、非常勤だった。規模が小さいのは新しい環境が得意でない私にはかえってよかった。教室が地下にあり、窓がないことだけがちょっと残念だった。

ようやく仕事に慣れたころだった。朝礼のとき、専任教員のB先生が、なぜか懐中電灯を持って現れた。そしてこう言った。

「今日、電気が止まるかもしれません。いざとなったらこれを使ってください。」

懐中電灯を一つ手渡された。(電気が止まる???)状況がよく理解できなかった。

「エレベーターには乗らないでください。突然電気が止まって閉じ込められるかもしれません。」

B先生の説明によると、学校が経営不振となり、電気料金の支払いが滞っているそうだ。そろそろ電気が止められるかもしれないが、いつになるか分からない。もしかしたら今日かもしれないし、来週かもしれない。

頭がついていかない。経営が行き詰っているなんて全く知らなかった。青天の霹靂(へきれき)とはこのことだ。聞いたことが頭の中でぐるぐる回っている。もっと話を聞きたいが、授業の時間になった。私たちはそれぞれ懐中電灯を持って、地下の教室へと向かった。

その後、状況が少しずつ分かってきた。ずいぶん前から経営が傾いていたこと、社長が会社に来なくなり連絡が取れなくなっていること、社長がいなくなった中、C部長が必死に踏ん張っていること。学校を紹介してくれた先生も全然知らなかったと驚いていた。

時をおかず、同じ敷地にある「インターナショナル幼稚園」が閉鎖になった。外国人の先生がみんなやめてしまったそうだ。

日本語学校のほうは、「それではさようなら」と教師が全員辞めることはなく、多くは様子を見ている状態だった。その月の給与は「ちょっと遅れます」という説明があり、後日振込があった。

(もしかしたらそれほど悪い状態じゃないのかもしれない)私はすがるように考えた。すると「今回の給料、C部長が払ってくれたんだって」そんな話が耳に入った。学生の卒業までどうにか授業を続けるため、C部長が非常勤講師の給与を立て替えてくれたそうだ。進学前に学校が閉鎖されると、留学生は所属先がなくなり、帰国することになる。それを避けるためC部長は頑張っていらっしゃった。

世の中にはすごい人がいるものだ。私は驚いた。部長には奥さんも子供もいらっしゃる。自分の給与ももらえないのだろうに、学生のために自腹を切って私たちに給与を支払う。すごすぎる。(返金したほうがいいのだろうか)そう頭によぎったが、そのままいただいてしまった。C部長が今どこにいらっしゃるのか知らないが、今でも感謝している。

C部長の努力にもかかわらず、そのうちやめていく教員が出てきた。お別れもなく気づくと来なくなっていた。そりゃそうだろう。電気が止まるかもしれないような学校だ。給与も払われないのかもしれないのだ(実際その後止まってしまった)。私もどうしようかと思ったが、思いきれなかった。残った先生方と一緒に卒業まで教えることにした。

その後、よくわからない人たちの訪問が始まった。入口にスーツ姿の人が現れるたび、「きっと銀行が来ているのね」、「倒産となると一番怖いのは国よ。税金の取り立ては容赦がないんだから」、世間を知らない私に周囲の先生方が教えてくれた。どこの方なのか分からなかったが、細々と続けている学校にスーツ姿の軍団、異様だった。

「わが社がここを買い取って立て直すことになりました。安心してください。」そう言って現れた人もいた。「留学生ビジネスは将来性があると感じていますが、日本語教育のことはよく知りません。ぜひ先生方に教えていただきたい」とにこやかに話す。(これで大丈夫かもしれない!)一気に気持ちが明るくなった。しかし、用があって名刺の会社の電話番号にかけたら誰も出なかった。うさんくさい人だと後で気が付いた。

そんなこんな色々あったが、どうにか卒業の日を迎えることができた。旅立つ学生たちの最後の思い出を作るため、私たちはささやかな式を行うことにした。

教室を飾り付け、教員がお菓子や飲み物を持ち寄って卒業式を行った。楽しくて明るい式だった。学校はその日だけ、卒業式特有のすがすがしさと、ちょっぴりセンチメンタルな気持ちに包まれていた。笑い合い、写真を撮って、とても良いクロージングだった。

その後、受け取れなかった給与について、「労働基準監督署へ行くと国から補填が受けられるよ」と教えてもらった。「未払賃金立替払制度」というものがあるそうだ。手続きをしたら全額ではないがお金を受け取ることができた。日本はなんて素晴らしい国なんだろう!社会保障制度のありがたさを実感した。

そんなありがたい制度なのに、私にとって労働基準監督署へ足を運ぶのは、ずいぶん勇気が必要だった。自分が悪いことをしたような、社会のお荷物になっているような気がして恥ずかしかったのだ。倒産のことは親はもちろん友達にもほとんど話さなかった。

もし知り合いが同じ状況になったら「大変だったね」と言って、その人の責任だなんて思わないだろう。なのに自分がいざ手続きをするとなると、お天道様に顔向けできないような気持ちになるのだ。

どうしてこんな風に感じるのだろうか。

多分変なプライドなのだろう。「助けを求める」、「自分が困っていると人に話す」、その後ちょっとはできるようになったが、今でもやっぱり難しい。「助けられる」より「助ける」側でいたいのだ。

そのくせ、知り合いから悩みを相談されると、意気揚々として「相談してくれてありがとう!」と思う。自己肯定感が上がる。だから本当は「助けを求める」ことは、自分のためだけでなく、相手にとっても結構いいことなのだ。「助けを求める」ことは、「助ける喜びを相手に与えている」ともいえるのかもしれない。

困っていること、悩んでいることを、感情的にならずに、さらりと伝えられる人間になりたい。そして人からの「助け」を自然に受け取れるようになったら、人生はもっと楽しくなるんだろうな。

勤め先の倒産は驚きの連続で、社会の集中講座のようだった。倒産は二度と経験したくないが、あの経験に今は感謝している。


pasteltimeさん、素敵なイラストをありがとうございます。

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