ライフストーリーは突然に
「どうしてお医者さんになろうと思ったのですか?」
これまで、何度も聞かれてきた。
僕は、埼玉県立大学を卒業して理学療法士となり、4年間の社会人経験を積んだあとで、富山大学医学部に入った。
この経歴に、驚かれることも多く、興味を持ってもらえることも多い。
編入学制度もあるため、医学部入学前に社会人経験のある医師は、少なくない。
でも、元理学療法士の医師は、珍しい。
きっと珍しいから、例の質問をしたくなるのではないかと思っている。
理学療法士として働き始めて1年が過ぎた頃、ある整形外科の患者さんを担当した。
その患者さんは、経過が良好だったのでリハビリは卒業となった。
しかし、外来受診のたびに、わざわざリハビリ室にも立ち寄り、僕の顔を見に来てくれていた。
とても気さくで元気な人だったので、会いに来てくれるたびに、僕が元気をもらっていた。
きっと、あちらも僕に会うだけで元気になってくれていたと思う。
痛みから解放されて、これからの人生を楽しんでいく、そんな喜びに満ちあふれていた。
その手助けをできたことが嬉しかった。
ある日、その患者さんが暗い表情でリハビリ室にきた。
癌だった。
その人は、当時僕が勤務していた病院に入院となり、そのままその病院で亡くなった。
これからの生活を不自由なく過ごすためにがんばったあのリハビリはなんだったのだろう。
なにもできない無力な自分が悔しかった。
もっと命そのものに関わる仕事がしたい。
生きることと死ぬことに、深く関わりたい。
これが僕の最初の、医師になろうと思った理由だ。
医学部受験を決意して、働きながら勉強をした。
仕事帰りにファミレスに寄って、夕飯を食べてそのまま深夜まで勉強をする。
そんな日々が一年以上続いた。
理学療法士3年目の冬、その年のセンター試験はやや難易度が低かった。
僕は、それなりの高得点を得ることができて、合格圏内にいた。
国立大学の合格発表は3月である。
合否を待ってから、仕事を辞めるわけにはいかない。
僕は、退路を断って、2次試験に挑んだ。
そして、見事に、
落ちた。
仕事を辞めた僕は、26歳を純粋なる浪人生として迎えた。
実家に帰り、訪問リハビリのアルバイトをしながら、独学で勉強を続けた。
人生は、何が起点となるか、わからないのが面白い。
僕は、その訪問リハビリで、あることに気づかされた。
訪問リハビリは、自宅に訪問して、リハビリを行う。
病院では、患者さんは「患者」である。どこかよそ行きの顔をして、緊張している。
もちろん、不自由さがあってリハビリを必要としているという点では病院も自宅も変わりがない。
しかし、自宅では、ただ「その人」がいた。醸し出す雰囲気が、まるで違っていた。
表情が自然で、リラックスしている。
病院での姿は、その人の人生のほんの一部でしかない。
人生の舞台は、病院ではなく、日々の生活の場にあったのだ。
こんな当たり前のことが、わかっているようで、わかっていなかった。
生きることと死ぬことに、深く関わりたい。
病気を治すことだけではなく、その人の人生そのものに深く関わりたい。
これが僕の、医師になろうと思った理由だ。
その年のセンター試験は、絶望的な点数だった。
1年間勉強に専念したのに、すべての医学部でE判定、つまり合格圏外だった。
そのため、センター試験の結果に関係なく受験することができる地方国立大学しか選択肢がなく、富山大学を受験した。
人生は、何が追い風となるか、わからないのが面白い。
その年の富山大学の後期試験問題は、ちょうど僕の得意なところが出た。
これはもう本当に、運が良かった。僕は、E判定から大逆転で医学部に合格した。
いま僕は、医学部を無事に卒業して、総合診療医と産業医をしている。
緩和ケア病棟で、生と死に深く向きあうことができた。
一人一人の人生の締めくくりは、その人がどう生きてきたのかが色濃く反映されている。
在宅診療で、その人が人生を生きることを、サポートした。
在宅での療養生活は、生々しい家族の問題にも直面させられる。
そんな総合診療医の経験を通して、様々な人生の物語を診させてもらうことができた。
失って初めて、気がつく大切さがある。
病気になって初めて、気がつく大切さがある。
死が遠いものではなく、リアルな質感を持った時に、ようやくわかることがある。
思い通りの人生にはならないのかもしれない。
少なくとも僕は、医学部を受験する時に、こんな医師になっているとは考えてもみなかった。
それでも、いまの自分にとって大切なものがなにか、考える価値はあるのではないだろうか。
あなたが本当に望んでいるのは、どんな人生の物語ですか。
《おわり》
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