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油壷の幻影

 私が燁子さんという名の老夫人と、初めて言葉を交わしたのはある民芸品の店であった。この店の所在する駅前は種々様々な店が並び、大勢の人が往来していた。

電車通勤していた私は待ち時間があることもあって、これらの店を覗くのが常であった。

この日は、とある店の窓に貼られていた地元の陶芸作家の作品展のポスターに惹かれて二階のギャラリーへ上がった。

ある作家の備前風の壺の焼き物に見入っていると、「失礼ですが、ご自分でもお焼きになるのですか?」と、声をかけてきたのは、小柄な上品な顔立ちの老婦人であった。華奢な体を淡いピンクの上衣で包み、薄紫のストールを巻いたその姿は、一瞬ルノアールの絵のようであった。ルノアールの絵には老女はモデルの対象外ではあったが輪郭の定かでない印象が印象派のそれをなしていた。

展示され作品が素焼きの備前風のものが多かったこともあり、夫人がいっそうやさしい華やかさを漂わせていた。何故かわたしは戸惑いながら、「いえいえ、とんでもない!わたしはもっぱら鑑賞のみです。」そんな会話を交わしながらギャラリーを見渡すと、店主と話をしている夫らしき老紳士に気付いた。夫人は夫がいつまでたっても話を終えない夫に退屈しきって、一人で眺めていた私に話しかけてきたようだ。

 展示作品のたわいもない話しをきままに評価し合っているうちに、ようやく話を終えた夫が夫人の傍に戻って来た。夫から肩書きのない名刺をもらい名前と住所を知った。夫人は貴族のような漢字の「燁子」と名刺脇にペン字で書いてくれた。

この出会いをきっかけに、ご夫婦の自宅を月に2回程、訪問するまでの付き合いがが始まった。

 初めての訪問の時、住いの前で不思議に思ったことがあった。それは賃貸マンション3階建の集合住宅の居住であったことである。

博さんは、、大手企業の部長クラスで定年を迎え、今は趣味三昧の悠々自適な年金暮らしをしていることは聞いていた。それに連れ添う燁子さんも、話しぶりと振る舞いに育ちの良さが感じられた。わたしはそんな夫婦の品格が、当然ながら一戸建て家で、枯山水の庭が縁側から眺められると想像していたからであった。

もう一つの疑問は、博さんが転勤を重ねて退職をこの地で迎えたにしろ、親戚縁者もない東北のこの地を「終の棲家」としたことであった。その時はこの町がよほど気に入ったのであろうと私なりの解釈をしたが、かなり親しくなってからも理由は語られなかった。

玄関の家具の上には紬の帯が敷かれ、そこには細首の花瓶に桔梗が静かな空間を作っていた。

自宅のダイニングルームには趣味の良い食器棚と大きなテーブルが置かれ、その上には青磁の花卉に芙蓉に似た花が活けられていた。華道と茶道を嗜んできた燁子さんの感性がさりげなく観られた。

居間は夫の収集した陶器が各所に置かれていた。藍染めの麻布が敷かれた腰の低い横長の家具の中には、茶道具が並べられていた。

丁寧に磨かれた時代物の黒漆の家具や置物が鈍い光を放ち、家中は重厚な趣と懐かしい雰囲気を醸し出していた。

茶道具の入った家具の上に、急須を押し潰したような小さな陶器が、隙間なく置かれてあった。それは二つと同じものはなかった。  

「博さん!この器は何でしょうか?醤油注しかしら?」と尋ねると、「これは油壺ですよ。朝鮮古陶のものや、李朝時代の油壺もありますが、私は日本物の染付草花花紋の油壺が好きです。」と目を細めた。私が「油壺って行燈に注すあの油を入れる入れ物ですか?それにしては小さいですね?。あっ!そうか、鬢に付けるにも使われますよね?」。自分の発した言葉に納得したような顔をしていると、博さんは「生活用品として使用したそれもありますが、わたしが蒐集した理由はそれとは違います。」と円盤形の小さな陶器を手の中に収め、「遊女の持ち物としても使われたものが多いんですよ。わたしはそこに惹かれて集めました。」わたしが不可解な顔をしているのを見て、「ちょっと誤解されそうですが・・・」と一瞬、ためらいをみせて「遊女が客を取った時にわが身に塗るための油入れなのです。この油壺の中には、その遊女たちが使ったものもあるかもしれません。骨董の店で見つけたものですからはっきりは分かりません。でもそう考えると、じっくり観てください!青花花卉紋の青さが白地にうっすら滲んでるでしょう?客を取らなければならない遊女の涙のようです。わが身の不幸を受け入れ、必死に生きた遊女の哀れと同時に、彼女たちの艶めかしさが、油壺にはこうして眺めていると感じます。」こう説明する博さんの顔には哀れを含んだ恍惚にも似た表情が見えた。私はふと、博さんの隣に黙って座っている妻の燁子さんの顔を見た。夫の話に眉を顰めているのではなく、笑みを浮かべて恥ずかしそうに俯いている。その表情は、遊女とのその場面を、陶酔するがごとく話す夫に恥じているのではなく、武士の妻でありながらやむ得ずにして

身を売られなければならなくなった妻の元へ、客となって逢いに来た夫への憐憫と、菩薩にも似た崇高な笑みと、遊女の色香さえ妄想させるものが二人には感じられた。

燁子さんは、両親を記憶もない幼い頃に亡くした。開業医であった祖父母に引き取られ、厳しくも慈しまれて育てられたことが、多くを語らない言葉の中で理解できた。そのため祖父母が亡くなってからは、夫のみが頼りとなってしまった。品格のある祖父母に育てられたことは、燁子さんの言葉と振る舞いに現れた。武士の妻のような健気さと、物事の潔さが感じられた。

ある日のこと、博さんが夫婦のアルバムを見せてくれた。その中に20歳前後の可憐な燁子さんの写真が、挟まれてあった。その1枚だけがアルバムに貼られずにしてあったのは、博さんがしばらく持ち歩いていたためかと想像した。写真の燁子さんは、初々しい美しさを漂わせて微笑んでいた。一見、女優のプロマイドと見違うほどであった。博さんはその写真を取って、「喫茶店で初めて逢ったそのときに結婚を申し込みました。」と誇らしげに語っていた。

 ある日、私が夫婦と知り合ったあの店で博さん所有の骨董品の展示会をする話が持ち上がり、その準備の手伝いをすることになった。燁子さんがこっそりと「もう歳が歳だから持ち物を整理しなければと思って。何といっても、夫の骨董品が一番残されるたら大変でしょう?。それで即売を兼ねた展示会を開き片付けようと思うの。」

後日、ギャラリーを貸す店主が話したことによると、「かなり経済的な面で困っているらしい。」と教えてくれた。わたしは骨とう品蒐集のため、散財してしまったとも思えないし、また、日頃の生活を垣間見ても、贅の限りを尽くしたようにも思えないと、怪訝に思いながら、頼まれたポスターの作成に取り掛かっていた。

 だが、1週間過ぎた頃、展示会の話は消滅してしまった。ギャラリーの貸料金を払うだけの陶器売れるか、見通しがつかないことが理由であった。また、高値の茶道具や陶器はとうに知人に売り残っているものは安価なものが多かったようだ。本人が一番大事にしていた小品の油壺は、ほとんどが価値のないものであった。陶器などは自分の思い入れが強ければ強いほど手に入れようとして高値しまうが、一般の人は安価ですら求めようとはしない。

ある日燁子さんから「今すぐ来て頂戴!相談したいことがあるの。」と電話があった。

 急いで行ってみると、博さんが数ヶ月前から暴力を振るようになって来てだんだん激しくなってきたとのこと。今日も訳わからず怒り出して手を挙げてきたので、「逃げようとして腕を掴まれ、振り払った時、家具にぶっつけてしまった。その腕の痛みが取れない」との訴えだった。とにかく近くの医者に診てもらったところ、幸いにも打撲と外傷だけで済んだ。

私は夫に憤りを感じ、声を荒げて問い出だした。博さんは「燁子はなにか頼んでも忘れるし、とんちんかんなことをしたり、のろのろ動く姿に苛立ってきてしまい、怒りたくなるんだ!以前の妻は文句なしの出来た妻だった。」と訴えた。思わず「燁子さんもお婆ちゃんになっているのですよ。いつまでも若き日の美しい燁子さんではいないんですよ!年を取れば誰でもが変わっていくですよ。現に博さんにも言えることでしょう?。80歳近いお歳の燁子さんに、いつまで何を求めているのですか?年老いた姿の今を受け入れて、お互いに労りあっていくのが夫婦なんじゃないんですか?。」

こう説得しても無理なことは分かっていた。博さんにも認知症が表れていることは前から感じていた。美しく、控えめでかしずく燁子さんのあのイメージをいまだ引きずっている。いや、再現しょうとしている。現実を理解できない状況になっている。      ともに認知症症状が表れ始めている老夫婦だけの生活に限界が来たのかもしれない。

地域の社会福祉利用を勧めても、頑なに博さんは訪問した地域包括支援担当者のこれからの老夫婦生活設計を提案しても、怒り出すだけであった。

 ある日、久しぶりに訪問すると、燁子さんに顔立ちの似たスラっとした美しい女性がいた。夫婦に一人娘がいることは燁子さんの重い口から話されたことがあった。

両親との間に何らかのトラブルで溝が生まれ、娘が両親に会いに来ることはなかった。

 その疎遠であった娘が語るには「実は、母からの電話があって話を聞いて、両親をこのまま二人だけの生活を続けて行くことは危険と感じ、3日前に帰省しました。行政の勧めもあって、いくつかの有料老人ホームを訪問しました。昨日、両親を連れてS市にある有料老人ホームを見学に行きました。湖畔にある施設は新しく、環境に恵まれていて、職員も親切な方ばかりで安心できました。丁度、夫婦で住める広い部屋が空いているとのことですぐ、契約をして入所が決まりました。」と告げられた。あまりの急なことでわたしは思わず「お母さまは賛成したのですか?」と言ってしまった。

燁子さんは「ええ、すごくいいところ。今入らないと、チャンスを逃してしまうので。夫も賛成したので決めました。」夫婦だけの生活を懸念していたわたしは、それを聞いて安堵した。

娘さんの話では、早急に引っ越しも決め明後日には移るとのことであった。

別れの言葉もそこそこに片づけが始まっていた。施設の部屋には、当然ながらこれらの荷物は持っていくことはできない。   気がかりなのは博さんの慈しんできたあの油壺はどうなるのだろう。娘さんはわたしの気持ちを察するように、「父の集めた骨董品はわたしもどうにもならないので、引っ越しセンターさんに処分を任せました。」と答えた。その答えに夫婦はやりきれなさそうに、黙っていた。

  吉井夫婦のことも忘れかけていた頃、娘さんから電話があった。「あのせつは、両親がお世話になりました。お別れの挨拶もせず、慌だしく引っ越してしまってすみませんでした。」私も「いえ、こちらこそお忙しいときにお邪魔して失礼しました。ご両親は施設でお元気に生活されていますか?。」「はい」の返事がなく数秒経って「実は母は亡くなりました。入所して3日目に部屋の浴室で亡くなっていました。心臓麻痺とのことでした。父も気付かないうちに逝ったようです。施設のかたの報告では苦しそうな顔もせず、湯船の中で眠るように亡くなっていたとのことでした。そのあとのことは施設のほうで全部段どりしてくださいました。お世話になりました。」

燁子さんの突然の死の知らせに放心したが、

電話を切った後、燁子さんはあれ程急に「終の棲家」の変更を急いだのは、自分が壊れる前に、逝く前に、夫の世話を一任できる場所を決め、それを見届けて安堵の中で逝ったと思わずにはいられなかった。

夫があの油壺にどんな幻影を抱きながら、遊郭に生きる女の憐憫と色香を語った姿と、それを燁子さんはわが身のように、恥ずかしそう笑みを浮かべたとわたしが錯覚したとしても、燁子さんの気品は損なうことのない女の性を瞬間に迸ったとの思いが物語を辿るように偲ばれた。

さよならを交わしたあの日に夫婦がくれた、小さな油壺の青さが手の中で溶けていった。


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