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【チェシャ猫は何時微笑むの】

宙に掻き消えたのは、何?

 その猫は高い高い木の上から、猫は迷い込んだ少女を見下ろしてニンマリと口元を吊り上げました。
柔らかな風が頬を撫ぜていく中で、少女が此方をゆっくりと見据えました。
透き通ったその瞳を飄々と見つめ返して、頬の笑みをもっと深く刻み込むと軽やかな、踊るような口調で呟きました。

―――御機嫌よう。

 挨拶なのか、少女は小さくオウム返しに呟きました。それを満足そうに聞いて、猫は憂いを宿した瞳を空に彷徨わせました。
笑みはまだ、刻まれている間々でした。


 銀光が一瞬目の前を過ぎった途端。次の瞬間には乱舞するかのように弧を描いて返り血が自身に降り掛かって来た。
それを片腕を上げて防ごうとして、その華奢な容姿から想像出来る通り、全部は防ぎきれなくて額に跳ねる、軽く付着する液体をボンヤリとした表情で軽く拭い取る。
それからクイ、と首を傾げる要素で何処か遠くを見下ろす、虚ろ気な表情を浮かべてボンヤリと口を開いた。

「ねぇ、今何匹倒したの。」

 問うと言うより独り言のように言い放つと、暫しの間を挟んでから「23。」と数量だけを表す言葉が返答された来た。
それを確認してから短剣を宙で振る様にして血滴を跳ね飛ばす。やれやれ、と目を瞑ってから開く合間に断末魔の悲鳴。苦々しげにそれを聞き届けて、また凛と目を開く。
 パチリ、と開かれた目線の先に居た女は、その視線に気付くと無表情のまま此方を見返してきた。
涼しげな蒼の瞳がフッ、ともう一度閉じられると、今度はからかうような口調が前方から聞こえてくる。

「もー疲れたの?」

「まさか。そんな事一言も言ってないじゃないか。」

 腰に軽く手を当てて、そうでしょ?と悪戯っぽく目線を上げた。
その際にフワリ、と持ち上がった黒マントが柔らかく宙で踊る。ふふ、と軽い笑みを零すと、その裾は、まるで生き物の如く風に靡く。それと同様に靡いた淡いブロンドを撫で付ける様にカシカシと掻くと、柔らかい声色で言葉を紡いだ。

「怪我はしてない?」

「…してない。」

「良かった。プリケリマは刃物を使うからね。結構心配してるんだよ?」

 年下に心配されても、ね。と視線を流されながらボソボソ呟いた言葉に、一層可笑しそう口元を綻ばせると、それに対するようにプリケリマは口元を吊り上げる様にして皮肉気な笑みを浮かべると、

「レンピカだって使ってたでしょう?」

 パチクリ、と瞬き。言われたてから一秒、二秒。少しの時間考え込み、自身が今利き腕に握っている鋭利な刃を見つめてから、やっと言われた意味を理解して肩の力を抜いた。
先程から握り締めていた鞘に音も立てずに軽やかに短剣を収め、「でも、僕は魔法中心だからね。」とぼやく口調でポツリと言い放つ。

 その際にラヴォクスの、淡いブロンドとお揃いの耳がピクリと揺れる。何かの音を感知した動きだ。それに逸早く気付き、一瞬だけ視線を鋭くさせたプリケリマの気配を感じながら、落ち着きのある動作で手首のブレスレッドに触れ、ゆるゆると細い手首から外した。
銀の光を掌の中に収め、爪先でなぞる。シャラリと耳に心地良い金属音が響いた。それを確認しながらもう一度なぞる。
すると、それに答えるかの様に先程よりも銀の輝きが煌々と光を増して行った。ふ、と思わず優しげな視線を送ると、輝きを閉じ込めるかの如くブレスレッドを握り締めた。

 時間を置かないで、直ぐ様閉じ込めている拳を開く。森を照らす仄かな明かりに照らされたのは銀の輝きではなく、薄汚れた小さな赤だった。
長方形の形をした赤に、徐に手を翳すと、それが見る見る打ちに普段の本の大きさに変わるから不思議だ。
この手品のような、魔法のような動きを瞬時に行った本人は平然とした顔で、かなり使い込んでいると見れる魔道書らしき本、元ブレスレッドをパラパラと捲る。

 その様子をしげしげと見下ろしていたプリケリマは、小さく息を吐いてから目を軽く瞬きさせると、「ん。」と小さく喉を鳴らした。
細かな文字の中から何かを探していたレンピカは、目線を上げようともせずに、

「何?」

 と問うた。指先が擦れかけて消えている文字の上を滑る。
プリケリマは首を傾げて何かを見つめている様子で、その視線は一向に動こうとしない。
不安に思って彼女を見上げると、ほら、と白い指が闇の中を照らす様に宙を指差す。
 その場所を見上げると、その空間だけ闇に溶け込んでいる錯覚を覚える真っ黒の毛並みと、金光りする丸い目が無感情にこちらを見下ろしていた。猫と認識をすると同時に一度、金色が瞬く。何か面白い物を見つけた視線と目が合うと、レンピカは片手を伸ばしておいでおいでをした。この動作には安心させる効果があるとかないとか。しかし、薄暗い中で、猫は身じろきもせずに此方を見下ろし続けている。
しばらく手を動かしていたが、やがて諦めて本の上に手を置いた。その際に、昔読んだ童話の一節に出てくる印象深い登場人物が頭に浮かび上がった。切なく苦しい闇に紛れた中で、そのページが捲れ上がる。

――やぁ、楽しんでいるかい?

「…本の読みすぎかな。」

 軽く額を叩くと、苦笑を溢した。その猫は今と同じ様に高い木の上から見下ろしていた。迷い込んだ少女を、不思議の国の作者共ある少女への笑み。何気なく漂う怪しげな雰囲気を消そうと、ペラリとページをもう一枚捲った。

 途端に、にゃあぁ、と今まで反応すら見せなかった猫が声を高くあげる。ピタリ、とページを捲る腕を止めて今度は五月蝿いな、と顔を顰めながら木の上を見上げた。その時に、


――楽しんで、いるかい?


 驚く事が起こった。微かに除く猫の輪郭の口元が、文字通りニマッと持ち上がる。今度は自分が目を見開く番だった。唖然とした瞬間に猫と視線が合う。が、もう口元は引き締まっていて、その変わりにしなやかな尻尾が闇の中で一回ゆっくり振られる。黒猫はフイッとそっぽを向くと同時に木々の間を縫う様に闇に溶けて、消えた。

「…チェ」

 その登場人物の名前を囁こうとした瞬間。目の前のプリケリマが「伸びろ。」と言う命令口調で言い放った言葉と同時におもむろに薙刀を突き出した。瞬間的に白銀の反り返った凶器が一線の様に真っ直ぐ伸びて、肉を一閃した。獲物を狙っている前足を振り上げた格好のまま、ジョロウグモが前方に崩れ落ちた。絶命、していた。

「考えるのは良いけど、」

 飄々と言う声が耳に届く。ピクリ、と月光色の耳が上下して音を感知する。
それを見ながら耳を澄ます。暗色の茂みから巨大な羽が除く。牙をカチリカチリと鳴らす音が響いた。きっと大群で来るんだろうな、と思うと、

「戦ってる時は危ないかもよ?」

 冷笑を含んだ笑みが口元に浮かび、深い紫の瞳が事実を訴えるかの如く細まる。
そうだね、とやんわりと言って退け、開いた本のページを軽く払った。視線を緩めながら文字を指先でなぞると、凛とした声で呪文らしき言葉を口内で呟く。英語なのか、母国語なのか分からぬ言葉を呟くにつれて、変化が訪れ始めた。
ヒュルリと頬を撫でた風の、この季節に合わない冷たさを異様に思ったのか、小首を傾げたプリケリマを見上げ、ニマと笑った。不思議の国の住人の様に。

「wind snow.」

 可憐な声が命令を発した。その声に似合わない、刃よりも鋭い風音が蒼のスカーフを一度ヒラリとなびかせてから氷刃が襲いかかった。
とっさに片腕をもたげて、自身をかばったプリケリマの横を素通りする。その行き先を艶めいた紫の視線が追うと、暗闇の間から見え隠れする牙や鮮やかな色を持つ怪物の手足に突き刺さる様にして氷雨が降り注いだ。
痛みを訴える悲鳴で軽く分析。この勢いなら怯ませる位は出来る、と鼻で笑って見せると、圧倒的な速さでページを捲り始めた。直ぐ様開いたページの文字を早口に読み終える。呪文を唱えている内に変化が起こる。自身の背筋が冷えた様な気がした。空気が浄化されて行く錯覚を覚える程の透き通った鳥の羽がほっそりした背筋から上空に向かって伸び始める。パサリと落ちたのは氷の羽。

「プリケリマも、怪我しないでね。」

 友を思いやる声を発し、片羽をヒラヒラと動かし、宙を左右したのを確認するとレンピカは技名を高らかに宣言した。

「neiga aile」

 駆け出し、地面を蹴る。
途端に振り上げられたオオカマキリの鎌を背後から白銀の刃が切り裂いた。瞬時に片翼がふわ、と透明な羽を降らせた。その羽が地面に触れたか触れないかの位置で、一匹のスズメバチの羽がピリピリと震え、透明に覆われた。
そのスズメバチが目を見開いた瞬間には羽がバリバリに砕けて散り去った。凍らせれば強度が落ちるのは当たり前の事だ。苦悩の悲鳴を耳に聞きながら真下を見下ろすと、怒りや背後で肉を切り裂き、吹っ飛ばす音が聞こえる。それを聞きながらふ、と溜め息を吐き、レンピカはニマと笑 っ た 。

猫は少女を目で追いながら、先程よりも切ない視線を送りながら疲れた笑みを見せた。

――そうさ、楽しんでお行き。

 迷い込んだ少女よ。せめて夢の中では良い夢を。
グルグル、と上機嫌に喉を鳴らすと、チェシャ猫はまたもやニンマリと笑うと段々と爪先から薄れて行く自分の体を見下ろしてから、レンピカを見ました。透き通る程の蒼の双眸がその視線に気付き、振り返った少女の視線に、何とも面白そうに目を細めました。

 チェシャ猫は何時だって微笑み続けました。この世界へと迷い込んだ、可憐な少女を見つめながら――否、見守りながら微笑み続けました。


 そして、ニンマリ笑顔が空間に掻き消えた瞬間。猫の声は確かにレンピカの耳に届きました。

――さぁ、楽しんでおいで。

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