ある「無職」の人から学んだこと。社会の役に立たないといけないという幻想について。

ぼくは今、週に一度の頻度で「就労困難者」や「生活困窮者」と呼ばれる方に向けた「コミュニケーションセミナー」を担当している。就職する(働く)ことをひとつのゴールにし、そのために必要なスキルやノウハウを身につけていくための講座だ。

ただ、セミナーと言っても、ぼくが担当している時間(コマ)は、ワークやゲームを中心とし、気軽に楽しめるような内容にしている。ときには言語的なコミュニケーションだけでなく、絵を描いてみたり、音声に頼らずジェスチャーだけで過ごしてみたり、自然物に触れてみたり、とそんなこともしている。

参加している人は概ね男性であるが、働いていた経験のある方もそうでない方もいる。でも多くの方は、ここ何年も「仕事」をしていない方たちである。

その方々との関わりでハッとさせられることがあった。とても大切な視点であるように思うので、残しておきたい。賛否はあるかもしれない。でも一つの考え方・問いとして、提示をしておきたい。

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セミナーのとある回で、カードをめくり、裏に書かれた質問に答えるというゲームをしていた。そのとき、参加者のAさん(40代)が引いたカードは「あなたはなんのために生きていますか?」というものであった。

生きる理由(意味)、あるいは生きる目的を問うこの質問は誰にとっても重いものであり、パッと答えられるものではないかもしれない。しかし彼は、大きく迷うことなくこう言った。

「生きているだけでいいと思います。来週の週刊少年ジャンプの発売を楽しみにして生きる。そういう小さな楽しみだけあれば十分です。生きる意味は意外とたくさんあります」と。

こんな内容の発言をされて、ぼくはいろいろと考え込んでしまった。

・(一応)就職を目指してこの講座があり、ぼくはその命を受けて講師を担当していること。
・生きていくために苦労しながら(もしかしたら好きではないかもしれない)仕事をしている人がいること。
・(一応)就職に向けてこのセミナーに参加していて、そこへの思いはどうなっているんだろうということ。
・けれど、彼の言っていることも間違ってはいないこと。働かなければならないという観念が誰かを苦しめているかもしれないこと。

いろんな思いがぐるぐるとした。そして、ふと関わったことのある学生たちのことを思った。

ぼくは仕事柄、あるいは活動柄、学生(大学生)たちと関わる機会も多い。そこでちらほらと耳にするのが「社会(地域)の役に立ちたい」という言葉だ。漠たる観念で「社会(地域)の役に立ちたい」と彼らは言う。まちづくりや地域活性の活動に関心を持つ学生たちにも多いように思う。

それは大変美しい言葉であるし、大切な考え方であるようにも思う。だけど一方でそこには「社会の役に立たなければ意味(価値)がない」という思いも隠れているような気がしてならない。

障がいのある方の命が多数奪われたあの事件もそうした思想を背景に持っている。その出来事とぼくたちの生活は、切り離されていない。むしろそうした思想を内在化させている部分もあるのかもしれない。

そういうことを考えたときに、先の「少年ジャンプが楽しみで生きています」というある種達観した思想は「役に立たなければ」と思っている人たちの救いになるんじゃないか、とぼくには思われた。そうしたことを優しく受け止めたり、あるいは役立つためのレールに乗らなくてもいいよと示唆してくれたり。ぼくにはそういう言葉にも聞こえた。

もちろん、働かないことや引きこもることを推奨しているわけではない。人間である以上、なんらかの関わりをだれかとしていく必要はあると思う。もちろん、他者に貢献することは生きていく上で大切だ。できるだけだれかの役に立てる方がいい。そのためのスキルを身につけ、他者と関わっていくこと。ここにぼくも楽しさを見出している。

しかしその貢献するということも、自分ですべてハンドリングできるわけではないし、その可能性を自分ですべて理解できるわけではない。自分がなんの役に立つかなんて、終いまでわからない。あるいは、自分自身のスタンスや行為が思いもよらなかった効果を生むこともあるはずだ。

だからそんなに気張らんでもええんとちゃいますか。肩の力を抜いた姿勢も大切なように思う。

社会の役に立つということはなんなのだろうか。ぼくたちはどうして生きているのだろうか。社会が発展していくにつれて、この問いはより先鋭化されぼくたちに突きつけられていく。

そのときにオリジナルな答えを、しなやかにもっている人が「強い」のかもしれない。

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