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ぼくたちは取り替えがきく。もう、生きる意味や目的を語るのはやめよう。

言葉にならないものがたくさんある。それでも語っていかないといけないとは思うのですが、なかなか。

意外かもしれませんが、ぼくは、尼崎に特別な思い入れがあってやっているわけではないんです(こんなに「尼崎、尼崎」って言っているんですけどね)。ただ、そこに生まれたというだけ。暮らしているというだけ。そこに大きな意味はないです。

実際の活動・仕事の詳細はこちらを。https://www.facebook.com/ryo.fujimoto.0410

なんのために(なにを実現したくて)やっているのか、なぜ、どんな背景があってやっているのかということも、大切なようでいて、実のところ意味なんてないと思っています。自分自身、原体験やバックグラウンドのようなものはありますし、それらをよく語りますが、直接の因果関係はわからない。後づけかもしれない。そして、そのようなものがないといけないわけでもない。

ぼくは、別に社会変革をしたいわけでもないし、既存の体制を壊したいと思っているわけでもないんです。大志があるわけではない。周囲(社会)に対して怒りのような感情を抱くこともあるにはありますが、継続的にそのようなことを思っているわけではない。社会に対する怒りを持ちながら活動している先輩や友人を見ると、自分とは違うのかもしれないなと思うわけです。

ぼくね、思うんですけど。結局、あらゆることは、たまたまなんだろうと。生まれてきたことも、今やっていることも、これからやるだろうことも、すべてが偶然。もっと言うと、自分でなくてもよかったのかもしれない、と。なんでそれをやるのか、どうして今なのか、そんなことを問うことももちろん大切だとは思うんですけど。でも究極的には、すべてが無意味で無価値である、そんな前提もありなんじゃないか、そう思うわけです。

もしかしたら、取り替えがきいてしまうかもしれない、自分でなくてもよかったのかもしれない、それはきっと恐怖だと思います。そして、そうでないことを確かめるためにいろいろなことを考えたり、したりすることもあると思います。でも実のところ、その通りなんだと。取り替えはきいちゃうんだと。その前提に立ったときに、違う世界が見えるんじゃないか、と思っています。

オリジナルな自分、なんていうものにこだわりを持つ必要もないんじゃないのかな、とぼくは思っています。ストーリーが大事だと言われる世の中だけれど、たぶんそんなことにも飽きちゃうと思う。語る方も、聞く方も。ぼく自身は、自分のストーリーを語ることに飽きてきています。まだ無意識のレベルにいろいろあるのかもしれないけれど。

結局、残るのは「今ここに生きているという事実」だけなのかもしれない、そんな風に思うことがあります。あらゆるものを捨てていったときに、それでも残ってしまう部分が「自分(らしさ)」と呼べるものなのかもしれない。別にそんなものさえなくてもいいというのは、語ってきている通りです。

何かをやらないと認められない、このラインを越えないといけない、常識を守っていてこそ大人である、親はこうあるべき、いろんなしがらみ、もういらないように思う。たぶん。そんなことをいろんな人が思っていると感じる。あまり言うことはないのかもしれないけれど。替えがきく自分だから、そんなことはあまり気にしなくていいんだよ、と。

「今ここに生きている事実」しかこの世にないのだとすれば、それをこそ賞賛して、大切にして生きていけばいい。ぼくがやっている仕事は、きっとここに収斂される。

「今ここに生きている事実」が大切にされていない現状に対して、微かに怒り、震え、悲しみ、手を取り合いたいと願う。そんなことを繰り返しているだけにすぎないのだと。

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