本には何も書いていない

起床、七時三十分。いつもより三時間半早い。何も食べずに珈琲と煙草。知り合いの出店を手伝う。
あまりにもな快晴。梅の炭酸ジュースを沢山売る。通りがかりの親子がミネラルウォーターで割れないかと聞いてくる。なんでもお子が炭酸未経験とのこと。炭酸しかなくて、と言うと、じゃあ挑戦してみようか、となる。知り合いと僕とお母様の三人で見守る。満面の笑みで美味しいと彼は言う。親になるとはつまり、一人の人間の多くの初めてを目撃することなのだと知る。
知り合いに仕事の相談などをする。この人は四十歳を超えてからある日突然仕事を辞めてお菓子作りを始めた、自他ともに認める変人である。なにか副業を始めて、それが軌道に乗ったらそっちに変えれば? と月並みな意見をいただく。しかし月並みな意見とは理由があって月並みなのであり、そしてほとんどの場合でその理由は理にかなっている。
あまりに天気がいい。蝉こそまだ鳴いていないがその陽射しと青空は完全に夏のそれであり、こういう日に外にいると、なぜ自分は働いているのかと憂鬱になる。
十二時に出勤。店長と打ち合わせ。割とちゃんと辞めようか悩んでますと相談する。俺はまだかな、と言われる。でもいずれはですよね、と言って二人から乾いた笑い。
いつものように無意味な時間を過ごし退勤。帰宅し、デニムを洗濯機に入れる。少し溜まっていた洗濯物を一時避難させ、色が移らないようにする。
洗濯が終わり干そうとすると、洗濯物を避難させた後に脱いだTシャツをうっかり洗ってしまっていることに気づく。ユニクロのロンTなので痛い出費ではなく、むしろ全体的にほんのり色がついて良いのでは? と錯覚する。まあ乾かしてみよう。
食事をしながら友と話す。辞めたい、辞める勇気がない、辞めちまえ、やりたことをやれ、やりたいことだけやってたら生きていけない、じゃあやりたくないことだけやって死ぬのか、云々。

現状、仕事になんの面白みもない。将来性も全くない。辞める理由はある程度揃っている。では、辞めた後にどうするのか。
ひとまずは、無職期間を体験してみてはどうかという友の意見。バイトもせず、ただ日々を過ごしてみる。言われて気づいたが、思えば人生常に何かに向けて生きてきた気がする。中学生になれば高校受験があり、高校生になれば部活があり、大学受験があった。大学生では受験が就活に変わった。十四歳から、就活で全滅した二十二歳の夏まで常に、編集者になりたいという一本の道があった。
その夢も破れたわけだが、その後もすぐに就職し、転職した時も無職期間はゼロですぐ働いた。十年以上も前進、それはもしかしたらたどり着くべき桃源郷から離れていたかもしれないし、結局同じところを回っていただけかもしれないが、とにかく動き続けていた。そこから離れてみるのはどうか。
やらなくてはならないことなど何も無く、その対価として収入が絶たれるということ。友の言うように幸いにもすぐに実家に帰ろうと思えば帰れる訳だし、実際的な問題など何も無いのだ。無職期間が終わったあとにやりたいこともある。それは勤め人であるならばできないことであり、また、やらねば一生後悔するであろうことも確かであり、確実に体力を必要とすることでもある。やるならば一刻も早く、ということだ。やはり辞めた方がいいのだろうか。
・辞めた後にどうするのか
・失業保険が切れた後にどうするのか
・超長期的な人生設計
・辞めてはならない理由はあるか
・辞めた方がいい理由は何か

頂いた献本を読む。面白いが集中できない。仮に集中したとしても、読み終わればすぐに現実世界である。
幼い頃から絵本が好きで、漫画も小説も映画も愛してきた人生の中で、二十数年かけてやっと気づいたことがある。
本に大切なことは何も書いていない。書いてあるのは新たな道の存在を教えるものであり、その道を進む力は自分で、その媒体の外から得なくてはならない。本は地図でしかなく、その道を進むのは自分の足なのだ。本には何も書いていない。

追記:うつ病診断を三つやって見たら、全て軽〜中度、もしくは中度が出た。

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