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虐待を減らすにはどうしたら良いか考えた結果、凡事徹底を心に決めた話

私は割と理屈通りな人間で、自分にどうにもならない事にはエネルギーを回さないで足元の事に集中するほうだ。

感情に振り回されづらいのでラクではあるが、これはもともとそのように割り切れていた訳ではない。
訓練した時期がある。

数年前まで、私は、今この瞬間も世界のどこかに虐待されてる子供が居ると思うと居ても立ってもいられなかった。

きっと今すぐ助けて欲しいだろう。

その君を見つけるために世界中の家に押し入ってしまいたい。
 

でもそんな不可能な願望高ぶらせて激したり、それで疲れて自分のやるべき事のパフォーマンスが下がるくらいなら、
きちんと休んで遊んで、道行く人に微笑んだり、倒れてる自転車起こしたり、ゴミを拾ったりするくらいの余裕を保ってたほうが、自分や人の心を穏やかにする分、わずかだが確実に、虐待の確率を減らせるだろうと考えた。

そう、この時点でも、このトリックにずっと前から頭では気づいていた。
ただ気持ちとか、自分の器がついて来なかった。

だから時間をかけて自分をそのマインドに慣らし、成熟が伴うまで待つルートで行こう、と思った。

ある時からそれを色々な角度から言葉にして、何年も毎日自分に言い聞かせてはらに落とし続けた。

たぶん、人には1回も話した事は無かったと思う。わかってもらおうとも思わなかった。

それが自分に必要な事だと確信してたから、他人様の肯定は別に必要なかった。

 
以前なら何をしてても「こんな事してる間にも……」とか思って目の前の事に集中できなかったりしたけど、今は、「私が何をしてようと、この一挙手一投足が子供たちを助ける外堀になりますが何か?」くらいに思って、落ち着いていられるようになった。

逆に言えば、そうなるように生きたかった。

それがつまり、凡事徹底という事なのだと思う。
まだまだ至らないけど、そう思えるようになった事は一つの成果だった。

「一隅を照らす」という仏教用語があるが、自分の足元を照らす事しかできなくても、それをきちんとやっていれば、そして皆がやっていれば、世界はまんべんなく明るくなるだろうという事だ。

きっとそうなんだろう。
 
そうして隅々を明るくする事で、直接会う事ができない人にも、きっと波及する日が来る。

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