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【備忘録】作者は魔法使い~ハッピーエンドとバッドエンド~

備忘録のようなものです。
思ったことをつれづれなるままに書きつくります。
主人公が旅するように、我々も本の世界を旅しています。
ハッピーエンドとバッドエンド、みなさんはどちらが好きですか?

往きて還りし物語

よくいわれるように、物語とは主人公が〈行って帰る〉物語だそうですね。どこに行くのかといえば、
「ここじゃないどこか」です。
つまり、ソト・非日常へ行って、
そしてウチ・日常に帰る。
これが物語のパターンと言えます。

『また、同じ夢を見ていた』/ 住野よる / 双葉社

例えば、昔話で考えると
『桃太郎』
『物くさ太郎』
『うらしまたろう』etc…
とたくさん挙げることができます。
貴種流離譚とでも言えばいいのでしょうか。

別に昔話だけではないですよ。
私が以前の記事で紹介した『旅屋おかえり』も〈旅〉という文字が示すように、行って帰る物語でした。『千と千尋の神隠し』もトンネルをくぐったさきにある別の世界で成長し、現実世界に帰ってきました。
最近では〈異世界転生〉とやらが流行っていますね。私も大好きなのですが、一昔前までは〈異世界転移〉のほうが馴染み深かったのではないでしょうか。そしてそれらの転移ものでは、主人公が別世界にいって、最終的に帰ってきていました。最近の転生では死んじゃってますから、帰ることなぞできませんが(笑)。
〈行って、帰る〉は別に、物理的な移動を伴わなくてもいいんです。私の好きな小説に『また、同じ夢を見ていた』(住野よる)という作品がありますが、これは時間の移動、あるいは世界線の移動と考えられますね。

まあ、物語の根底をなすのが、〈往きて還りし〉のパターンなのでしょう。


読者は本の過客

少し、本題からそれてしまいましたが、
私が思うに、読者も〈往って還る〉という経験をしているわけです。
すこしメタ的な考え方をすると、我々も現実(ノンフィクション)の世界から、虚構(フィクション)の世界へ旅をしています。
表紙をめくった時、我々はフィクションの世界に引き込まれて、
最後の文章を読み終わった時、現実世界に引き戻されます。

逆を言えば、物語の主人公がそうであるように、
我々も、本の世界から還らなければならないわけです。
主人公は日常を離れることで、成長の機会をえて、
もとの日常世界に帰ってきます。
我々も、読書という旅をするのならば、
本を現実世界の糧(かて)にして、戻らなければならないのです。

もちろん、私も寂しいです。
本を読み終えた後は、
ああ、もう彼らの生活を、活躍を、見る機会はないのだなあ。
という寂しい感覚が胸に去来します。
とくにシリーズものが終わるとそれこそ、
「別に物語的面白さなんていらない、ただ主人公の日常を描いてくれ」
「つまらなくてもいいから、僕を本の世界からおいださないでくれ」
なんて思ってしまいます。

でも戻らなければなりません。
はっきり言うと、戻らなくて済むのなら、ずっと物語の世界にいてもいいと思います。しかしそれは我々には許されないのです。
私たちには現実の世界があって、たとえ目を背けても、引きこもっても
現実がそこにあり続けることには変わりがありません。
もし、現実世界に身を置きながら、
ずっと物語の世界に引きずられていては、
脳みそも、心も、気狂(こわ)れてしまうことでしょう。
そうならないのは、何処かで我々は現実世界と向き合う気持ちにスイッチできているからです。「忘れる」という行為も、その一つでしょう。

作者は魔法使い

ただ、私たちが気持ちよく、肯定的に現実世界に帰れるかどうかは、
作品の結末にかかっているといえるでしょう。
つまり、
ハッピーエンドと、バッドエンド。

私たちは本を開いてから、
さまざまな魔法をかけられてきました。
叙述の魔法、感動の魔法、笑いの魔法、etc…。

魔法は解かれなくてはなりません。

魔法にかかっていられれば、それはどれだけ楽しいでしょうか。
しかし、現実が我々を取り巻いている以上、私たちには仕事、家事、睡眠、排便などの生活があります。
もし魔法が解かれなかったらどうなるでしょう。
仕事はおろそかになり、家事は後回しになり、睡眠の時間は減り、……。

作者はそれはそれは楽しい魔法をかけてくれました。
でも、もし本を読み終えても、魔法が解かれなかったら、
私たちは現実の生活をおろそかにし、非現実は私たちを呑み込んできます。
それはとても恐ろしいことです。

現実世界でも、本当に怖いのは、我々を叱ってくれる人ではなく、ひたすらに甘やかしてくる人です。いくら楽しい魔法でも、ずっとかけられていたら、どうなるか。

それは【呪い】か、【呪い】か?

サブタイトルは誤植ではありませんよ。
【呪い】という漢字には、
 ・のろい
 ・まじない
という二つの読み方があります。かつての用法の違いはわかりませんが、私には「のろい」に悪いイメージ、「まじない」に良いイメージがあります。作者のかけた魔法がどちらの「呪い」になるかは結末次第です。

作者のかけた魔法が、〈往きて還りし〉旅路が、成長の糧になるような呪い(まじない)になるのか。読者を甘い甘い誘惑の世界に引き摺り込む呪い(のろい)になるか。

それは物語の結末に懸かっていると言えるでしょう。

ハッピーエンドの作品を読んだときを思い返してください。
そこには、たしかに寂しさがありました。しかし同時に、爽快さ、美しさが、ソラを突き抜ける青のように私たちを晴れやかな気持ちにさせてくれました。だからこそ、その寂しささえも青い思い出になって、私たちは現実世界に戻ることができるのです。
ハッピーエンドの定義をしようとしたら、それはまた議論を呼び起こしそうですが、
私のなかのハッピーエンドとは、
「次の日になったら、スッキリその物語を忘れてしまっていること」
です。忘れていいのか、と言われてしまいそうですが、
それこそ作者が魔法をパチン、と解いてくれた証だと思っています。
むしろ、忘れられるということは、現実と非現実の境界を明確に引けていることの証左です。そしてときたま、その物語を思い出す。

と、私のハッピーエンドの定義はこれまでにして、
バッドエンドの作品を読んだ読後感を思い出してください。
もやもやした感じ、虚脱感・虚無感、うつろで無意味な感覚、喪失感、後悔などが襲ってきませんか?
こうなったときって、
次の日、また次の日と、その読後感を引きずって、
私ならああしたのに
なぜああなってしまったんだろう
回避することはできなかったのだろうか、
みたいな妄想に囚われてしまいませんか?
そうやって、私たちは現実世界とフィクション世界の間を数日間うろうろすることになります。二三日、そのことばかり考えてぼーっとしてしまいます。現実に向き合わなければならないのに、その魔法が重たい影胞子のように後ろについて回ってくる。
それだけなら良いのですが、時には私たちの心に慢性の痛みを残します。私もある作品のバッドエンドを読んで、今でも、その時の喪失感が襲ってきます。そして何の意味もない、「ああしとけば……」「私/僕ならこうしていた」みたいな物思いに耽ってしまうのです。


特段、結論という結論はないですが、
私にとってバッドエンドはすこし辛いところがあります。本の世界から還らなければならないのに、物思いに耽って現実をおざなりにしてしまう。どうしようもないことなのに、本の結末——主人公やヒロインが悲しい最後をむかえること——を想って心を曇らせてしまう。バッドエンドの救いのなさが私はどうも苦手です。

私が一番すきなのは、大大大団円です。
安っぽくていい、非現実的でもいい、テンプレでいい。
それでもやっぱり、主人公には、ヒロインには考えられ得る最高の結末が用意されていてほしいんです。

余談ですが、私が文芸部に所属していたときに書いた作品はバッドエンドなんですよね(笑)。
バッドエンドにしたら、なんとなく作品に重みや文学性が出るように勘違いしてしまうのは、初心者あるあるなのではないでしょうか。ハッピーエンドを書くには相当の力量が必要です。
逆に、バッドエンドを書けば、(薄っぺらな)文学性、高尚さがあるように勘違いしてしまうんですよ(バッドエンドを書く作家を否定しているわけではないですよ。私の失敗談です)。
魔法見習い(小説初心者)が「のろい」(バッドエンド)をかけたら、下手に自爆するだけです。
逆に力のある魔法師(作家)が「のろい」(バッドエンド)をかけたら、読者の心に本当にダメージを与えてしまうかもしれませんね。