見出し画像

自分の体が嫌いだという人のために (あるいは心身二元論を乗り越えるための坂口安吾論)

(傷だらけの恋愛論 番外編)



はじめに

こんにちは、不可逆です。今日は「傷だらけの恋愛論」第八回のつもりで書き始めたのですが、後半はちょっとわかりにくい話になってしまったので、番外編ということにしておきました。

簡単に説明しておくと、「他人と見比べてヘンだから自分の体が嫌い」という話ではなく、「ただ単に肉体というものが嫌い」と考えてしまう場合どうしたらいいのか、という話に後半からなっていきます。

ピンとくる人とこない人がいると思いますが、興味のある方はぜひ読んでいただけたら幸いです。


世界と調和できない

恋の病につきものなのが、自分の体を好きになれない、という悩みです。みなさんも、一度はこういった考えをもったことがあるのではないでしょうか。

しかし「自分の体が好きになれない」と言うとき、実はそこに二つの自己否定が隠れているということは、案外見落とされているのではないかと思います。その二つとは、次のようなものです。

  • 自分の体の普通でない部分や、他人と比べて見劣りする部分が嫌い

  • 肉体というものがそもそも醜いので嫌い

このふたつの「嫌い」という感情は、似ているようでいて、別の原因によって生まれているものなのではないかと思います。そして多くの場合、この二つの感情が入り混じっているせいで、事態をややこしくしているのではないでしょうか。

自分の体を好きになれないということは、ずっと嫌いな人と一緒にいるということだから、とてもストレスが溜まります。しかし、現実の世界で嫌いな人と和解するのがとても難しいのと同じように、嫌いな自分の体と和解するのもとてもむずかしいのです。

そこで今回は、どうしたら自分の体と和解して、世界と調和することができるのか、少しでもヒントとなるなにかを見つけるべく、探っていこうと思います。



「普通」という幻想

コンプレックス商材、と呼ばれる商品があります。整形、脱毛、薄毛、体臭など様々ですが、共通するのは、身体の悩みを解決するということを売りにした商品のことです。

こうした商品は、先ほど挙げた二つの悩みのうち、前者(他人と比べて見劣りする、普通じゃない部分が嫌い)に対して効果がある商品だといえるでしょう。自分の体の嫌いな部分を直して「普通」にすることでコンプレックスの解消に導く、という価値の提供です。

うまく自分のコンプレックスを解消して自信につなげることができれば、こういったものを利用するのは悪いことではありませんが、これらの商品の広告に何度もさらされることによって、むしろ多くの人がコンプレックスを感じるようになっているのではないか、という批判もあります。


ここでまず指摘しておかなければならないのは、「普通」は幻想にすぎないということです。これは何度でも言わなければならないことだと思います。どこに「普通の人」がいるのでしょうか? いたら私に教えてください。

誰もがちょっと普通じゃない部分を抱えています。それを個性と呼ぶのですし、自分でその個性を愛することができたとき、それを美しさと呼ぶのです。

とはいえ、やっぱり明らかに自分のここがヘンで、直したいと思うこともあるでしょう。そういう人にとっては、それを直す選択肢がある、ということはやはり良いことです。


ただ、例えば整形をしてコンプレックスが一時的に解消されたように感じても、また別の箇所が気になりはじめて、コンプレックスが解消されたときの満足感がどうしても欲しくなり、整形依存に陥っていくというケースもあります。

こうなってしまう人の場合は、そもそも「自分の体が嫌いだ」と感じる理由が別のところにあったからなのではないかと思います。つまり自己否定の感情が先にあり、それに対して「整形をすればこの感情を解消できるのではないか」という考えを持つようになるのですが、実際の自分の見た目が気に入らないことが根本的な原因ではないので、自己否定の感情は解消されないのです。そしてそれは、次に説明する問題点に関わってきます。



肉体への軽蔑

他人と比較してしまうとかではなく、ただ単に自分の体が嫌いなんだ、と思ってしまうことがあります。それが最初に挙げたふたつの問題点の後者でした。そして実は、ここからが今回の本題です。

それはつまり、自分の体を軽蔑しているのです。そこには精神と肉体を対立させて考える、心身二元論的な発想が根底にあります。


多くの人が、自分の体は自分に合っていない、と感じたことがあるのではないでしょうか。例えば、自分は面倒くさがりな人間だと感じている人に限って肌荒れがひどく、毎日薬を塗らなければならないとか、あるいは、女性として扱われるのが好きじゃないのに顔が整っているせいで性的な目で見られやすいとか、人によって千差万別の悩みがあると思います。

そのとき、自分のことを「嫌いだ」と思っている自分と、「嫌いだ」と思われている自分、どちらも自分であるのにも関わらず、人はそれを切り分けて考えようとしてしまっているのです。

その結果、「私は自分のことが嫌いだ」と考えている精神を主体としてとらえ身体を客体に貶めようとしてしまうのです。精神こそが私で、体は私に合わない不便な道具に過ぎない、といったように。


そしてこのような心身二元論的な価値観は恋愛にも絡んできます。坂口安吾は「恋愛論」の中でこの対立に言及し、恋愛において肉体を軽蔑するべきではない、と述べています。

プラトニック・ラヴと称して、精神的恋愛を高尚だというのも妙だが、肉体は軽蔑しない方がいい。肉体と精神というものは、常に二つが互に他を裏切ることが宿命で、われわれの生活は考えること、すなわち精神が主であるから、常に肉体を裏切り、肉体を軽蔑することに馴れているが、精神はまた、肉体に常に裏切られつつあることを忘るべきではない。どちらも、いい加減なものである。

坂口安吾「恋愛論」

肉体と精神は、常にふたつが互いに他を裏切り合う宿命だ、と彼は言います。

先ほども書いたように、精神こそが主だとみなし、身体は従である、という主従関係を作り出すことによって、精神は身体を裏切ります。一方で、いくらプラトニック・ラブを求めていても性的な衝動が抑えられなくなってしまうことがあるように、身体も精神を必ず裏切るのです。


このようなことが起こるのは、身体を軽蔑しているからです。身体を精神から切り離して他人のように扱ったとしても、身体は常に最も近くにいる他者なのです。つまり、嫌いな人と四六時中一緒にいる状態なわけです。

そう考えると、ストレスが溜まってくるのも当然です。嫌いな人と一緒に過ごさなければならないと命令されたとしたら、徐々に互いに攻撃的になり、敵対関係になって裏切り合いが起こることは想像に難くありません。

そして、精神や思考は結局のところ、常にこうして身体からの影響を受けてしまっているのです。そもそも身体感覚は常に思考にフィードバックされています。さらに、精神と身体という対立を想定した時点で、そこには精神と身体の関係性が生まれていて、その関係性の変化からも精神は影響を受けているのです。

結局のところ、精神と身体を完全に切り離すことはできません。だとするならば、身体と敵対しているのは得策ではないように思えませんか? 精神と身体が和解するすべが、どこかにあるはずではないでしょうか。



救いはないことだけが救い

もう一箇所、安吾の「恋愛論」から引用してみます、先ほど引用した部分の前段にあたります。

人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる。

同上


ここでの「詩」と「現実」の対立は、「精神」と「身体(物質)」の対立に対応します。

詩を愛することは、プラトニック・ラブなどと同じく、精神のカテゴリーに属する行為です。しかし、そこに現実を愛する態度がなければ、それは不遜であり、空虚である、と安吾は言います。

現実を愛すること。それはつまり、なぜか自分の体がこのようであるという偶然性や、なぜか現実がこのようにあるということの驚異を、愛するということです。

そして「物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる」とは、現実を愛することができたとき詩にイノチが宿るということです。これを精神と肉体(≒物質)の対応関係に当てはめれば、肉体を愛することができたとき、真の精神がそこに宿るのだ、と言うことができるでしょう。


……そんなことを言っても、この現実はどう考えても最悪だし、こんな救いのない現実を愛せるはずがない。と考える方もいるかもしれません。

そう、救いはないのです。と、安吾は答えるでしょう。ただしそれは、現実に救いがないのではなく、「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」に救いはないのだ、と彼は語ります。以下は「文学のふるさと」の終わりに近い部分です。


生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。

坂口安吾「文学のふるさと」

現実には救いを期待することは可能です。道に迷っても、助けてくれる民家を探して歩くことができます。しかし、人が誰しも抱えている「絶対的な孤独」には、決して救いがない。そして、誰にも平等に救いがないことこそが、唯一の救いなのです。

そして安吾は、生存の孤独には救いがないことを「文学のふるさと」と呼びました。先ほどの続きから引用します。

(…)救いがないということ自体が救いであります。/私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。(中略)このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。

「救いがないこと」というふるさとを自覚した上にしか、文学があろうとは思われない、と彼は言います。

これを踏まえて、先ほどの「詩のイノチ」という言葉についてもう一度考えてみましょう。

先ほど引用した「恋愛論」の中で安吾が言っていたのは、現実を愛する態度によって「物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる」ということでした。

イノチとはなにを指しているのか。それはつまり生存していることの本質です。そして生存は「絶対的な孤独」を孕んでいて、そこには救いがない。それが文学のふるさとでした。

これらを総合すると、つまり「詩にイノチがある」とは、その詩が「救いのない絶対的な生存の孤独」という「文学のふるさと」の自覚の上に成り立っている、ということだと考えられないでしょうか。詩の中に「人間のふるさと」という真実が映っているということ。


さらに、詩とは精神の比喩でもありました。ここがポイントです。ややこしいですが、つまりはこういうことです。

精神と物質を一致させるということは、「救いのない生」という人間のふるさとを精神が自ら引き受けることと同じである。そしてこのような精神の上に成り立ったものしか、安吾は信用しないと言っていたのではないでしょうか。

現実がどのようであるか以前に、生存の孤独には救いがない。ただ、救いがないということだけが唯一の救いである、ということを受け入れること。

そのときはじめて、現実がどのようであったとしても、現にまさにこのようである、ということを愛することができるのです。



愛は救いではないけれど、それでも現実を肯定すること

現実がどのようであっても救いがなく、ほんの少しでもマシな救いのなさを求めようとしてしまうことさえも救いがなく、誰も彼もどうしようもなく救いがない。そのことだけが唯一の救いであるのだとしたら、その地点を超えて自分の身体を見つめ直したとき、自分の身体が現にまさにこのようであるということを、無条件で肯定することができるはずだと思うのです。

そのとき、自分の一番近くに常に存在する「身体」という他者に興味を持ちはじめることができるのだと思います。

相手に興味を持つこと。それが和解への第一歩です。たまたま偶然このようであるという現実に対して興味を持ち、肯定すること。それはまず、自分の身体を肯定するところからしか、はじまりません。

そうしてまた、身体が精神を裏切ろうとすることさえも肯定すること。気高い精神は狭量であってはいけません。ニーチェの言った「運命への愛」をここでも思い出しておきます。

運命愛。これを今後は私の愛とすることにしよう! 私は、醜いものに対していかなる戦いをもしかけようとは思わない。私は非難しようと思わない。非難する者を非難しようとすら思わない。(中略)わたしはいつかきっとただひたむきな一個の肯定者であろうと願うのだ!

フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』第四書(276)

そうして「自分の身体」を肯定することができてから、やっと「他者の身体」を肯定することもできるようになります。そのとき、愛というものを過大評価も過小評価もすることなく、ただ確かに感じることができるようになるのではないでしょうか。


そう、そもそも誰もが愛というものを過大評価し過ぎなのです。愛は救いではありません。

人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。
 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。

坂口安吾「恋愛論」

恋愛は何度も繰り返しているうちに、なんだ、こんなものか、大したことないな、というのがわかってきて、慣れてしまうものです。恋愛も結局「生存の絶対的な孤独」を埋めてくれはしません。それでも、現実の身体を介して他者と交わること。それ以外に人生の「花」はありません。



今回のまとめ

今回は、精神と身体の対立を乗り越えて、自分の身体とどう和解するか、そのヒントを探ることが目的でした。

坂口安吾は、現実への愛がなければ詩は空っぽである、と言いました。それは、肉体を軽視すれば精神は空虚なものになる、ということの比喩でもありました。

では、いかにして現実を愛することができるのか。

現実がどのようであろうと関係なく、生存の孤独には救いがありません。そして、救いがない、ということが唯一の救いなのです。それをはっきりと自覚すること。

そのような「文学のふるさと」を宿していることこそが「詩にイノチがある」ということであり、また、精神と身体が調和することにつながるのではないでしょうか。

これが今回安吾の「恋愛論」と「文学のふるさと」から読み解くことができたことです。それがどこまで実践的に役立つかどうかはわかりませんが、私みたいに頭でっかちな考え方をしてしまう人には、なにかのヒントにはなるのではないかと思います。


自分の身体について考えることが一番大事なことだと私は思っています。自分の身体との向き合い方については、今後も引き続き書いていくつもりです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?