見出し画像

「どうせ幸せになってしまう」メカニズム

カズレーザーさんの「人間どうせ幸せになる」論が好きだ。


私は何を好きになるのか
私は誰を好きになるのか
私にとっての幸せとは何なのか

ということを、我々は自分では決められない。

どういう遺伝子で
どういう体つきで
どういう家庭に生まれ
どういう学校で育つか

そんな自分にはどうしようもないところで、「私」の生きる土台はほとんど固まってしまう。

この考え方を突き詰めると、これから私がどんな仕事を好きになり、どんな人を好きになり、どんな人を伴侶として選び、どんな趣味を楽しむのかということさえ、生まれたときにぜんぶ決まっているとも考えられる(とても決定論的な考え方だ)。

なんて言いながら、さすがに「すべての運命は100%決定している」とまでは達観できていない。

「なんでもかんでも決まっているわけではないが、結局どう足掻いても、人生はだいたい決まった方向にむかう」ぐらいの"ゆる決定論"が、とりあえず、今のじぶんのマイブームだ。


誰に言われるでもなく絵を描いてきた人は、絵に携わる人生をどうせ歩むだろうし、
誰に言われるでもなく文章を書いてきた人は、文章に携わる人生をどうせ歩むだろう。
数字をつい長い間、眺めてしまう人は、なんなら周りの人から「あなたは数字が得意そうだからこれをお願い」という具合に、数字にまつわる仕事を頼まれたりする。

暇になると誰に会おうかと考える人は、どうせ人と関わる人生を歩むのだ。(ちなみにじぶんはといえば、暇になったからといって誰かに会おうとは考えない。これほどまでに、暇なときにやってしまうことは、人それぞれ全然違う。)


つまりなにが言いたいかというと、「抵抗しない」のが、幸福への最短距離、いちばん自然な態度なんじゃないかということだ。


自分が「ついやってしまう、つい気になってしまう」対象は、自意識が芽生える頃には、もう既に決定されている。

小さい頃は自然とそれをやり続けていた。

しかしいつからか、「それはお金にならない」「それは役に立たない」「その歳になってもそれをし続けるのは恥ずかしい」「今はもう、それをやっている場合じゃない」ということを、親に言われたり、友達や先生に言われたり、テレビやマンガでそう見聞きしたりしたあなたは、

いつからか、それをやることを、ためらうようになってしまった。

放っておけば「つい」やってしまうことに、抵抗するようになってしまったのだ。


はたして、その抵抗はいつまで続けるつもりなのだろうか。

死ぬまで続けるつもりなのだろうか。


死ぬまで続けられるわけが、ないのではないだろうか、と思うのだ。


現代は、100歳まで生きる時代といわれている。さらに時代はどんどん変化し、様々な仕事が生まれている。思いもよらない方法でお金を稼ぐ人が、どんどん生まれている。

Youtuber、instagramer、eスポーツ。昔から「つい」やってしまっていたことを、現代に合わせて仕事に変え、「つい」で生きる方法がどんどん増えてきている。

仕事の種類は多様化し、ひとつの会社に勤める必要もなくなってきている。いくつかの仕事をかけもちしながら「つい」を少しずつマネタイズしていく、というやり方をしている人も多い。

そしてこの変化は、これからさらに加速していくのだろう。


これらを総合して考えると、「つい、やってしまうこと」を仕事にせず、逃げ続けるのはかなり難しい。

「つい、やってしまうこと」が人生をどんどん侵食していくのを、むしろ避けつづけるほうが難しい。


だったらもう、「つい、やってしまうこと」で生きていく決意をできるだけ早めにしてしまったほうが、その分「つい、やってしまうこと」を仕事にするための試行錯誤に使える時間が増える。


もちろん、「つい、やってしまうこと」をやりつづけても、それ"だけ"で食べていけるようになる、まして他人よりもお金持ちになれる、という保証はまったくないけれど、

「つい、やってしまうこと」が中心にある人生は、どうあがこうと、他人がなんといおうと、自分が幸福であるためのひとつの条件であることはまちがいないと思うのだ。


【PR】「つい、やってしまうこと」が分からないときに使ってほしいツール

24時間、自分の行動を記録するためのツール。じぶんも使っています。むしろ弊社で開発しています。

自分が普段、何に時間を使っているのか記録をとってみれば、当たり前ですけど、自分がついやってしまうことが見えてきます。

読みたい本がたくさんあります。