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どうしても見返りを求めてしまいがちなあなたへ

この記事は

ギバーに憧れるがギバーになりきれない。どうしても相手に見返りを求めてしまう。

あるいは逆に、自分はいいように使われてばかりで、損しているように感じてしまう。

という同志に読んでほしい。


自分の穴は自分で埋められないが、他人の穴は埋めることができる


人は誰でも自分の中に「埋まらない穴」みたいなものを抱えている。

「満たされない想い」「からっぽな私」などなど、この空虚さはこれまで何度も歌詞になってきたし、何度も物語として語られてきた。

前回の記事ではこの「穴」について、精神分析の用語を引き合いにだし、どのように向き合っていけばいいのかを書いた。

自分の中にぽっかりと空いた穴を、自分で埋めることはできない。

この穴は、他者だけが埋めることができる。

だから自分ではなく、他者の穴を埋めることに励む。それこそがアドラー心理学でいうところの「他者貢献」に他ならない。

という結論で結んだのだが、今回は、この「穴」をきっかけとして他者と関わっていく上で、注意すべき点について考えてみたい。


「贈与」と「取引」

まず「贈与」と「取引」の違いについて、明確にしておきたい。

※ここで用いる「贈与」という用語は、近内悠太『世界は贈与でできている』で用いられる「贈与」に近いが、この記事では私なりの勝手な解釈も含む。


「贈与」は、見返りを求めない一方通行の価値提供のことをいう。

それに対し、見返りを求めてなされる価値提供を「取引」という。


たとえば匿名の募金は贈与だが、実名の募金は、その見返りに社会的称賛を得ようとしているから「取引」だ。


我々は基本的に、「取引」のネットワークの中で暮らしている。働く見返りとしてお金を得て、そのお金を支払う見返りとして衣食住のサービスを得て暮らしている。

同時に我々は、「贈与」のネットワークの中をも生きている。身体を鍛えずとも肉が食えるのは食肉の流通環境を整えてくれた先人たちのおかげであり、理不尽な暴力に怯えずに暮らせるのは先人たちが血を流し、法律のシステムを作り上げてくれたおかげだ。我々はそういった歴史からの贈り物に、お礼を返すことはできないが、受け取った贈り物をさらに進化させて、次の世代に引き渡すことはできる。

このように贈与は、基本的には一方通行だ。


誕生日プレゼントを友達に贈り、自分もまた相手からの誕生日プレゼントを期待するなら、それは贈与ではなく取引だ。

姿を見せることなく子供に贈られるサンタクロースからのプレゼントは、贈与だ。(このサンタクロースのたとえ

相手に感謝の言葉を期待するのならばそれは取引だ。

相手に見返りを期待するならばそれは贈与ではなく取引だ。

昔食べた料理に感動して、自分も料理をしたいと思う。自分の料理で誰かがいい気分になってくれたらいいな、そしてその人が、また誰かをいい気分にしてくれたらいいな、という願いとともになされる行為は贈与だ。

私の思いが届くといいな、という祈りとともになされる行為が贈与であり、

私の思いが返ってくるといいな、という期待とともになされる行為が取引だ。

取引がうまくなれば、沢山のお金を稼ぎ、有名人になることができるだろう。しかし取引はお互いの利害を埋めるだけで、自分の空虚さを埋めることはできないから、取引だけでは、いつまでたっても満たされることはない。

贈与として、自分がすでに受け取っているものを自覚し、それをまた別の誰かに手渡していくという「贈与のネットワーク」を重視することで、自分の空虚さは他者によって少しずつ埋められていく。


ところで、取引はよくないものだ、ということではもちろんない。取引ならば取引らしく、相手とイーブンな関係性を保つ努力をお互いに継続し、不均衡が解消できないのならば、取引関係を解消すればよい。Win-Win or No Dealだ。

よくないのは、「あなたを愛しているからだ/あなたのためを思ってやっているんだ」と贈与の形を装い、しかしきっちり見返りを回収しようとする取引行為だ。それは例えば過干渉の親とかブラック企業とか例には事欠かないが、この記事ではあまり深入りしない。


自分の空虚感を埋めるために、他人の空虚感を埋めようとしない

他者の穴を埋める行為、すなわち他者貢献は、取引ではなく贈与でなければならない。

たとえば自分を犠牲にしてまで他人に尽くそうとするのは、他人の穴を埋めるようでいて、実は自分の穴を埋めようとしている。自分の空虚感が埋まらないさみしさを、他者への貢献で紛らわそうとしている。

「こんなに尽くしているのに気づいてもらえない……。」
「〇〇のためを思って言ってるのにわかってもらえない……。」
「全然お礼を言ってもらえない……。」

と感じたり、言われたりするときには自分か相手がこの状態だ。特に身近な家族やパートナーとの関係性で生じやすい。

そしてこれは相手に見返りを求めているので、贈与ではなく取引だ。

まず、愛情だの社会的責任だの義務だのそれぞれの役割だのという余計な概念を一切取っ払い、シンプルに取引関係がうまくいっていない、という現状を認める。

そして、相手との関係を整理する。やってほしいことはやってほしいと言い、やりたくないことはやりたくないと言う。もちろん相手の言い分も聞いて、関係性を再構築していく。それが難しいならば、関係性を解消するか、一時的に距離を置く。


贈与はあくまで、自分自身の魂の形を保ったままなされるべき行為だ。

自分を歪めてまで、傷ついてまで、我慢してまで行われる行為は贈与ではない。

贈与はあくまで自分の意思で、そして軽やかになされるべきだ。苦しいなら贈与ではない。


私がこの人を助けなければ、とかない

そもそも、相手の空虚感を埋めたり、問題を解決するのが自分である必要はない。
というより、誰かの空虚さを、一人の人間が埋めようとしてはいけない。

人間のもつ空虚さは、たった一人の運命の人が見つかれば埋まる、というものではない。大勢の人たちによってちょっとずつ埋められるべきものだ。

だから誰かの空虚さを、自分だけが独り占めしてはいけないし、自分の空虚さを誰か一人に依存して埋めようとしてもいけない。

私は私の得意で好きなことによって、ちょっとだけ誰か達の穴を埋める。そして私も別の誰か達から、ちょっとずつ穴を埋めてもらう。

あくまで、ちょっとずつ。

自分にしか助けられない人なんていない。自分を助けてくれるただ一人の運命の人がいるわけでもない。

自分一人で背負わない。自分を一人に背負わせない。


軽やかな贈与でつながるネットワークに、自分を少しずつ組み込んでいく。


CM

弊社で開発、提供しているタスク管理アプリです。今日の自分が、何にどれだけ時間を使ったかを記録して分析するツール。ゲームが好きな人はけっこうハマるかも。


2021/02/08 追記 近内さんからコメントをいただいた

本記事の「贈与」の考え方は、『世界は贈与でできている』という本の中の概念を土台にさせていただいている。

その著者である近内悠太さんからTwitterでコメントをいただいた。

本記事の内容が、近内さんの意図するところからズレていたら申し訳ないな、と思っていたので、ご本人からこのように仰っていただけてとてもありがたい。

このツイートに連なる、「金継ぎ」そして「鬼滅の刃」に及ぶ一連のツイートもとてもおもしろいのでぜひ読んでみてほしい。




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