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やりたいことはなくていい。夢中になれなくてもいい。

①「やりたいことだけやる時間」をつくる
②その時間の中で「やりたいことだと思ってたけど、そうじゃなかった」を見つけて取り除いていく
③そしてやりたいことの中でも、本当に根源的な自分だけの欲求をみつけよう

という記事を書いた。


僕の根っこで求めているのは

  • もやもやを言語化したい

  • その途中で色々とひらめく

ことだった。なぜかはわからないけどこれが気持ちいいのだ。この快感が欲しくて文章を書いている。

でもそれは、たまたま僕の身体がそういうことに快楽を感じるようにできているというだけのことだ。「本当にやりたいこと」とか「生きる理由」とかではない。性欲はってもそれが生きがいにはならないのと同じだ。

書くのが気持ちいい。でも

何について書くのか?
何のために書くのか?
誰のために書くのか?

ということは謎のままだ。

自分は何のために生きるのか?
なぜ生きているのか?
生きる意味とは?

という問いにはまだ答えられない。

「うまくいってる人は、とにかく夢中で色んなことに挑戦している。めんどくさいとか怖いとか、そういう感情がまるで一切ないかのようだ。僕も夢中になれるものさえ見つかれば、あんなふうに行動的になれるはずなんだ。」

成功するにはたくさんの努力が必要で、たくさん努力するには好きでなくちゃいけなくて、好きなことならたとえ成功できなくても好きなんだからそれを続けていれば人生楽しいはずで、だから好きなことを見つけなきゃと思って生きてきた。

でもほどなくして「好き」だけじゃだめだということがわかってきた。好きなだけだと空しい。「このために生きているんだ」という実感がない。

自分は何のために生きているのか?  その答えがいつまで経ってもみつからない。自分が何をしたいのか全然わからない。

自分が何をしたいのか全然わからないけど、わからないなりにも生きるために文章を書き続けていたら、いつの間にか本を書く人になっていた。それくらいわからない。

勉強に集中できなかったのは、会計の勉強がそれほど好きじゃなかったからだ。間違えたらしい。コールセンターの仕事も得意で楽しかったけれど、一生続けたいとは思わなかった。どうやら間違えたらしい。

もっと夢中になれる対象を探さなければ。途中で飽きるようなものじゃだめだ。一生夢中になれるものを見つけなければ。

それぐらい夢中になれるものじゃなきゃ勝てない。

いや、たとえ勝てなかったとしても夢中になれるんだったらそれで十分だ。勝ち負けなんて興味ないくらいなにかに夢中になりたい。

そうやって夢中になれる対象をずっと探していた。

しかしそれが全然見つからない。こんなに自由に仕事を選べる環境なのに、まだまだ充実感が足りない。もっともっとという感覚が拭えない。

自分の中にぽっかり空いた穴が埋まらない。



そう、これは穴だ。自分の中にいつまでも埋まらない穴が空いている感じがする。この穴を埋めないことには、何に対しても真剣になれないような気がする。この穴を埋めてくれる何かをずっとひたすらに探し続けていた。

でも最近ようやく気づいた。この穴は、どうやら絶対に埋まらないもののようなのだ。



この「穴」は、人類が少なくとも紀元前からずっと考え続けてきた哲学のテーマだ。そしてご存知のとおり答えは未だでていない。

人間がこの埋まらない空白をもってしまったのは、言葉という道具を手に入れたからだそうだ。言葉によってコミュニケーションを取り、そして考えるようになった人間は、言葉では言い表せない世界にふれることができなくなってしまった。

この「ふれられないものがある」という根源的な欠落を、人間は死ぬまで抱え続けることになった。

精神分析ではそれは「対象a」とよばれる。

「対象a」とは、「欲望の原因」のことだ。欲望については、これまで何度も触れてきたから、なんとなくイメージはつかめていると思う。つまり人間は、「本当の欲望の対象」をつかむことができない、ということ。簡単におさらいするなら、食欲のような欲求は、食事で満足させることができるけど、物欲や性欲のような「欲望」には、究極の満足はあり得ない、ということだったね。なぜなら、欲望はあくまでも言葉の作用によって後天的に生ずるものだから。
 「対象a」は、こういう欲望の「原因」といわれているもの。ちょっとここで注意して欲しいのは、「原因」と「目的」が違うってことだ。これ、混同されやすいから注意してね。人間は対象aそのものを目指すことはできない。ただ、人間が欲望を持つとき、そこには必ず、対象aの作用が働いている。
斎藤環 『生き延びるためのラカン』


対象aによって生じた欲望が様々に変化して、名誉欲とか承認欲求とか金銭欲とかになる。

しかしご存知の通り、これらの欲望が完璧に満たされることはない。それは対象aが「存在しないもの」だからだ。

僕の「夢中になれるもの、没頭できるもの、大好きなことがほしい」という欲望は、実は、絶対に手に入らないものを、いつまでも探し続けてしまっていたのだ。

夢中になれるものがほしい。でも、それは探しても絶対に見つからない。

では、どうすればいいのか。



ここからは僕個人の暫定的な考えだけれど、

この穴を、埋めようとしてはいけないのだと思う。この空白は、空のままにしておかなければならない。

思うにこの欠落は、人間が他者と関わろうとするために必要な欠落なのだ。これは他者との関わりにおいてしか充足することのできない空白なのだ。

この、自らの中にある空白を、他者との関わりによって埋めようとする力学は、イザナギとイザナミの神話をはじめ、多くの宗教的物語によって語られていることからも、人間がもつ普遍的なシステムのように思える。

自分の中にある空白を、自分自身で埋めることはできないのだ。この空白は、他者に埋めてもらうしかない。

ならば自分という存在は、空白を抱えたまま、他者の空白を埋めるために存在しているのだ。


誰かの悩み相談にのったことがある人は、「どうしてこの人はこんな自明なことに悩んでいるのだろう」と、感じたことはないだろうか。

そうなのだ。自分自身の悩みにはまったく上手に対処できないクセに、他人の悩みには実に的確に対処できる。

私という存在は、自分自身の問題を解決するためにあるのではなく、他人の問題を解決するためにあるのだ。


僕自身の例でいうならば、「モヤモヤを言語化するのが気持ちいい」「そこから新しいアイディアを得るのが気持ちいい」という僕の特徴は、他者の問題を解決するために備わっているのだ。

これを、「一体自分は何がしたいのだろうか」という、自分自身の問題を解決するためにばかり使ってしまっていた。埋まらない穴を一生懸命、埋めようとしてしまっていた。


他者のもつ空白を埋めるために自分を使う。つまりそれは、アドラー心理学でいう他者貢献である。

他者貢献で人を助けるということを続けていると、自然とネットワークができてくる。そのネットワークが広がっていくと、次第に自分自身の空白を埋めてくれる人たちがあらわれる。

こうしてジグソーパズルの凸と凹が組み合わさるようにして、他者貢献のネットワークが組み上がっていく。

自分の空白を埋めることはできないけど、他者の空白を埋めることはできる。きっと自分はそのために生きているんだろう。


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