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書いて、公開して後悔しないと「本当に表現したかったこと」に気づけない

どうして「公開」ボタンを押したあとでないと「もっとこうすればよかった」に気づけないんだろう……。なにかをつくって世に出したことがある人なら、この感覚に共感してもらえると信じたい。

仕事でもなぜか送信ボタンを押してから「言葉足らずだった……」と気づく。noteを公開してから「うわ、夜のテンションで書いちゃってる恥ずかしい……」ってなる。

講演とかラジオの言い間違いは修正できない。だから終わってから反省するのはわかる。

でも、文章は何度も見直してるはずじゃないですか…… 。語尾とか、補足の説明とか、かなりしっかりめに、なおしてるはずじゃないですか……。

それなのに、後悔がやってくるのはなぜかきまっていつも公開してからなのだ。なぜ人目に晒す前に気づけないのか。

かといって慎重になりすぎても、萎縮したつまらない文章になってしまう。なによりビクビク書いてるといつまでたっても出来上がらない。途中でわけがわからなくなって、飽きる。そうやってお蔵入りになった文章が地層のようにnoteのなかに眠っている。

でも、こういった悩みは物書きなら誰しもが抱えているのだということを、執筆教室をやってみて気づくことができた。執筆教室に参加してくれた皆さんには本当に感謝している。

先日の「書けないときの相談会」でも、書き上げて公開したはいいけれど「もっとこうしたらよかった」「こういうことが書きたかった」という相談がたくさんあった。そのひとつひとつに倉園さんがていねいに答えてくれた。僕は共催者の一人でもあるはずなのだが、どの相談もあまりに自分ごとで、ひとつひとつが染みるように聞き入った。そして、あるひとつの答えのようなものが頭に浮かんだ。

そうか。後悔も含めて完成なのか。

みんな真剣に文章に向き合い、書いたり書けなかったりの時間を過ごした。そして「なんだか攻撃的な文章になっちゃった気がする」「本当はもっと情熱的な文章が書きたかった」といった自分の思いを発見した。その話を聞かせてくれている。書くことで生まれた新しい想いを浴びるように聞いているうちに、「そうか、もっと書きたいことがあると知るために、つたなくても書き上げる必要があるんだ」と直観したのだ。

書きたいことと書けることにはいつだってズレがある。でもそれは書いている最中には気づけない。書き上げたものを送り出した瞬間に、まだ手元に残っている「詰め忘れ」に気づく。でもそれは本当は、入れ忘れたのではなく、自分への置き土産なのではないだろうか。きっと「次につくるものをもっといいものにしてくれよ」という自分の作品からの贈り物なのではないか。

だから作品を贈り届けたあとにのこる悔恨のような想いも含めて、つくったものは完璧なのだ。その拙さをこそ、この世界は求めていたのだ。

自分のつくるものに物足りなさを感じていなければ、執筆教室に来てくれなかっただろう。そして僕がその作品を読むこともできなかっただろう。そして「うまく書けない」という話をきいて、この文章を書くこともなかっただろう。

いまの自分に必要なものは、ひとつひとつの作品を真剣につくりあげて、手放したときにようやく見えてくる。誰かのために、僕らはこれからもずっと拙いものを世に出し続けなければならないのだ。


CM


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