「自分を無条件に信頼する」とは映画でいい気分になれるということ
賞をとったことがある
結果を出したことがある
褒められたことがある
売れている
フォロワーが多い
そういう"条件付き"でなら自分を信じられる。たしかに実績は自信になる。人も説得しやすくなる。やりたいことがやりやすくなる。
でも条件つきの信用には
「結果が出せなければ見捨てられる」
「褒められることをしなければ孤独になる」
という不安がずっとつきまとう。
実績を振り返ってニヤニヤするというおまけみたいな楽しみは人生にあっていいと思う。でもそれを生きるための土台にするのはやっぱりなんかおかしい感じがする。
結果に一喜一憂せず、褒められたり叱られたり無視されることにいちいち振り回されずに、淡々と日々やるべきことをやれる自分になるためには、まず根っこの根っこで自分を無条件に信頼するところから始めなければならない。
でも、いったいどうすれば何の実績もない自分を信じることができるのだろうか?
この「どうすれば」という問いがすでに、条件をさがす思考になっている。そもそも自分を信頼するのに「思考」は使わない。使うとしたら「気分」の方だろう。
「無条件に自分を信頼できている」のがどういう状態なのかがわかれば、何かをするときにはまずそのモードに自分を切り替えてから取りかかればいい、ってことになる。
いい映画を観終わったあと、現実の世界に映画の気分が侵食してくることがある。いつもの安いペットボトルのコーヒーを注ぐ音がなんだか耳心地よかったり、室内に干された洗濯物の生活感がやけに愛おしく感じたりする。
好きな音楽を聴いていて、胸と喉のあたりが熱くなるときがある。いまの自分の置かれている状況が、いま聴いている音楽そのもののように感じられる。
このとき、僕らは自分を信頼できている。
いま見ているものや聞いている音をいいなと感じられる。これが根拠のない信頼だ。ここからはじめればいい。
いい映画やいい音楽はきっかけにすぎない。もともと僕らは、いつでも好きなときにこういう気分になれる。
なぜなら僕らは誰でも、自分のなかに映画や音楽の元になるような「想い」をもっているからだ。それは必ずしも映画や音楽という形をとるわけではない。あなたのもつ身体を通して、絵とか文章とか料理とか、電話とかメールとかエクセルのシートで表現されることによって、誰かのところに届く。
想いがあるから僕らは誰かの創作に心を動かされる。そして僕らがつくったものが誰かの心を動かす。
僕らのなかにある「想い」は自分だけのものではない。それは生まれたときから自分のなかに植えられていて、これまで出会った誰かによって水と肥料を与えられ、育ってきた。想いにはいいもわるいもない。親とか尊敬する人とかトラウマとかも関係がない。
僕らはその「いつのまにかもっていた想い」に突き動かされている。僕らにできることは、それをがんばって無視するか、あきらめて流されるかのどちらかだ。どちらを選んでも僕らは、失敗したり間違ったり、落ち込んだりする。
でも想いを無視して何かを成してもなぜだか心からは喜べない。だからだんだん飽きてくる。逆に、想いに動かされていくら失敗をやらかしても、いつまでたってもあきらめがつかない。
そんなふうに自分がこれまでやってきたことやいまもやっていることを眺めてみれば、「想い」が自分に何をさせたがっているかなんてすぐにわかる。僕らはそれを素直に認めたくないだけだ。
CM
1月29日の日曜日、倉園さんと創作をテーマに話をします。あなたのもつ想いと今日の文章がなにか共鳴するものがあったら、そんなあなたと渋谷でお会いできることを楽しみにしています。
読みたい本がたくさんあります。